4月 052019
 

4月7日に出町座で行われる映画批評をめぐるラウンドテーブルに参加します。
当日はヴィルジル・ヴェルニエ監督の『ソフィア・アンティポリス』も上映されます。
多彩なゲストによるトークですので、面白い話になるのではないかと思います。
どうぞご来場ください。

またこの催しの一環として、同志社大学寒梅館ではクレール・ドゥニ作品の上映会も行われます。

「映画/批評月間 フランス映画の現在をめぐって in 関西 vol.1」

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2月 182019
 

大阪のシネ・ヌーヴォ、神戸の元町映画館、京都の出町座の共同企画として近年の若手映画監督の秀作を集めた特集上映「新世代映画ショーケース 2019」が開催されています。

「新世代映画ショーケース 2019」作品紹介とスケジュール

メジャー作品以外は興行的に苦戦することの多い関西圏で、三つのミニシアターが連携して企画を立案し、映画表現の可能性を探求する新しい映画作品と観客との出会いを組織しようとする意欲的かつ重要な試みだと思います。

私も微力ながら、出町座のプログラムに協力することになりました。2月24日の草野なつか監督の『王国』の上映後に監督を迎えてトークを行います。『王国(あるいはその家について)』は、リハーサルの映像によってフィクションを構築する実験であり、演技する者としての俳優の存在と映画との関係を問い直しながら、映画表現そのものの原理にまで触れる大胆不敵な作品です。長尺の作品でもあり、おそらくこの機会を逃すと関西ではなかなか見る機会がないと思いますので、劇場に足を運んでいただけると幸いです。

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11月 292018
 

同志社大学寒梅館と出町座でペーター・ネストラーの特集上映が開催されます。
これまでまとめて見る機会のなかった監督の代表作10作品と関連2作品が上映されます。
私は12月4日の寒梅館での上映後に行われる監督と渋谷哲也さんの対談に、通訳として協力する予定です。
貴重な機会ですので、ぜひご参加ください。

nestlerKyoto_poster<スケジュール>
19:00 上映
『外国人1 船と大砲』AUSLANDER TEIL 1
1976年/44分/デジタル
監督・撮影・編集:ペーター・ネストラー
脚本:チョーカ・ネストラー、ペーター・ネストラー

『空洞人』Die Hohlmenschen
2015年/5分/デジタル
監督:ペーター・ネストラー
製作:キントップ、イスラエル・ドイツ文化センター

◎上映後、トークあり
ゲスト:ペーター・ネストラー監督、渋谷哲也氏(ドイツ映画研究)、海老根剛氏(ドイツ文化研究・表象文化論/通訳)

<料金>
一般1500円、会員(Hardience、出町座)・学生1000円
*同志社大学学生・教職員(同志社内諸学校含む)無料

出町座のスケジュール

当日の模様が記事になりました(2019年2月17日追記)。

《ペーター・ネストラー監督特集in京都》2018年12月4日@同志社大学寒梅館クローバーホール

 

9月 082018
 

sousho102015年度に開催された大阪市立大学国際学術シンポジウム「文化接触のコンテクストとコンフリクト EU諸地域における環境・生活圏・都市」の発表と議論をもとにした論集が刊行されました。

本書では、トランスナショナルな人・モノ・情報の移動が常態化した世界のなかで、人々が場所と取り結ぶ関係が複雑化・複層化し、コミュニティが断片化していくとき、いかなる共生の可能性をなお見出すことができるのかを、「共同生活圏」という概念を切り口にして、歴史的な視野から考察しています。

私は第1部に収録されたヨアヒム・ラートカウ氏の講演「古い都市と森林 持続可能性の隠された諸起源」の翻訳と、第2部「〈合同生活圏〉 共生か敵対か?」の解題執筆を担当しています。

出版社ウェブサイト

ご関心のおありの方はお手に取っていただけると幸いです。

 

4月 202018
 

このたび標題のタイトルを持つ論文を執筆しました。本論文は大阪市立大学都市文化研究センターによる研究プロジェクト「伝統芸能の近代化とメディア環境」の成果物です。

「弁天座の谷崎潤一郎 昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論」(PDF)

私は5年ほど前から、現在のメディア環境の中にある人形浄瑠璃のあり方に関心を持ち、少しずつですが研究を進めてきました。私の人形浄瑠璃への関心は、大きく言うと二つの問いに分けられます。ひとつは、今日のメディア環境に慣れ親しんだ観客に対して、現在の文楽専門劇場で上演される人形浄瑠璃は、いかなる視聴覚的経験を提供しているのかという問いであり、人形浄瑠璃という語り物の劇の視聴覚的構造をめぐるメディア美学的考察です。そして、もうひとつの問いは、そうした近代以降の視聴覚的メディア環境に慣れ親しんだ(そして義太夫の音曲的側面には疎遠な)観客の出現をめぐる歴史的考察であり、とりわけ近代の大都市とメディアの経験によって形作られる感受性(モダニティの感受性)を内面化した「新しい(無知な)観客」と人形浄瑠璃の出会いを跡づけることを試みています。

今回の論文は後者の問題関心に根ざした試論で、御霊文楽座焼失と四ツ橋文楽座の開場のあいだ、道頓堀の弁天座で文楽座が興行した昭和初年の数年間を、人形浄瑠璃の近代における重要な移行期とみなし、その当時姿を現しつつあった「新しい観客」と人形浄瑠璃との出会いをモダニティの観点から考察しています。本論では谷崎潤一郎を弁天座時代に人形浄瑠璃を発見した「新しい観客」の(必ずしも典型的ではない)一事例として検討しています。(ちなみに前者の問題関心に根ざした論文は、現在、適当な発表媒体を探し中です。)

追記 ファイルへのリンクを機関リポジトリに変更しました。(2018年6月6日)

4月 032018
 

boidマガジンに映画評を寄稿しました。今回は宮崎大祐監督の『大和(カリフォルニア)』について書いています。本作は2018年4月7日より、新宿のK’s cinema を皮切りに全国6都市の映画館で順次公開されることになっています。米軍厚木基地の立地である大和市を舞台にしたこの作品は、日本とアメリカの関係を主題にした作品としてだけでなく、今日の地方都市の匿名的で貧しい風景と映画がいかに向き合うのかという点でも、ヒップホップの思想と音楽性を物語の中枢に導入する試みとしても、非常に野心的な作品になっています。
登録なしに無料で読むことができますので、ご一読いただけるとうれしいです。

『大和(カリフォルニア)』というタイトルは、単に実在する二つの場所の名称を組み合わせることで、日本とアメリカという二つの国の関係を示唆しているにすぎないのではない。私たちはむしろ、「大和(カリフォルニア)」という言葉を、この作品がはじめて切り開く未知の土地の名として理解すべきだろう。本作は米軍基地に隣接する都市に生きる若者たちのドキュメンタリー的なポートレートではない。この作品で宮崎監督が試みているのは、「大和」を「カリフォルニア」によって二重化することで解き放たれる「フィクションの力」に賭けることなのである。現実をフィクションによって二重化し、距離化することで、アイデンティティーと社会的プロファイリングの牢獄から登場人物を解放し、「ホーム」の経験を語る別のやり方を発見すること。これが『大和(カリフォルニア)』の挑戦であり、本作はそれに成功している。

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3月 212018
 

 京都みなみ会館の「さよなら興行」で青山真治監督の『名前のない森』が久方ぶりに上映されるということなので、かなり以前に書いた文章を発掘しました。すでに手元にもファイルがなかったので、Internet Archive の助けを借りてサルベージしました。

 この短文の批評は2002年に boid.net(旧サイト時代)に掲載された「ベルリン映画祭報告」の一部で、ちょうどベルリン留学中だった私は、フォーラム部門に出品されたこの作品の上映に駆けつけたのでした。そして1回見ただけの印象を頼りに深夜一気に書き下ろして、樋口さんにメールした記憶があります。
 なにしろ一度見てすぐに一息で書いた文章なので色々とアラもありますが、この作品の不思議な魅力には多少なりとも迫れていると思います。作品の観賞に資するところがあれば幸いです。

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3月 192018
 

大阪大学美学研究室が出している雑誌『a+a 美学研究』(第12号)に論文を寄稿しました。本号の『a+a 美学研究』では、「シアトロクラシー 観客の美学と政治学」という標題のもと、思想、演劇、オペラ、映画、アートにおける観客の問題を考察する刺激的な論考が集められています。

「観客の支配」を意味する「シアトロクラシー」(テアトロクラティア)という言葉は、もともと古代ギリシアの歌舞において、古くから伝承された決まりが守られるべきか、それとも観客大衆の楽しみを優先して新たな実験がなされるべきかという争いのなかで生まれた。哲学者プラトンは、歌舞における伝統の否定としての「シアトロクラシー」から、政治における権威の否定としての「デモクラシー」が生まれたと論じている。つまり「シアトロクラシー」とは「観客」という集合的存在を通じて芸術と政治とを架橋する概念であり、近代において、ルソー、ニーチェ、ベンヤミンらのテクストのなかで潜在的・顕在的に重要な役割を果たし、現代の哲学者たちによってあらためて注目されている。はたして「観客」であるということは、幻影に惑わされ無力化されることを意味するのか、それとも「観客」であることのうちには自由へのポテンシャルが含まれるのか、ということがこの言葉によって問われている。(

a+a12私の論文(「大衆をほぐす」− シアトロクラシーと映画(館))では、従来、演劇との関係で議論されることの多かったシアトロクラシーの問いを、映画(館)とその観客をめぐる考察に導入することが試みられています。クリストフ・メンケによるシアトロクラシーと(政治の)美学化をめぐる議論を確認したのち、ユリアーネ・レーベンティッシュが提起した「美学化批判の批判」あるいは「シアトロクラシーの批判的擁護」を取り上げ、その議論に含まれる観客の概念を明確化します。そのうえで、本論では、ヴァルター・ベンヤミンとミリアム・ハンセンによる映画館とその観客の考察を検討することで、映画の観客に備わる政治的ポテンシャルについて考えています。

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この雑誌は一般書店で販売されています(たとえば、紀伊国屋書店)ので、お手にとっていただけると幸いです。