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世界を未完成する魔法のプリズム 
『5 Windows』(再編集版)の公開によせて

今年の7月に開催された吉祥寺での『5 Windows』の街頭上映で、いまでも鮮明に記憶に残っている光景がある。それはアトレ吉祥寺の高架下壁面に吊るされた仮設のスクリーンが、激しい雨に打たれ、強風にあおられる光景である。僕が見たのは7月7日の上映で、この日は午後から降り出した雨が上映開始前にはすっかり土砂降りになり、観客はみなずぶ濡れになりながら街頭のスクリーンを見つめたのだった。向かいの建物のひさしの下に逃げ込んで、高架下のスクリーンを見上げると、雨が滝のようにその表面を流れ落ち、強風で大きく波打っていた。こんな状態で映画を上映してしまうのは、おそらく boid だけだろう。当然、そこに映し出された『5 Windows』の映像も、波打ち、滲んでいた。しかし、不思議だったのは、それを見ても、映画が台なしになっているようには感じられなかったことである。むしろ、そのフラジャイルでエフェメラルな ––– すぐにまた姿を消す脆弱な ––– スクリーンのありようが、そこに映し出されている映像にどこかフィットしているように感じられたのだ。

今回、劇場用に再編集された『5 Windows』をはじめて見たとき、あの日の印象があながち的外れではなかったことに気がついた。というのも、『5 Windows』(再編集版)で描かれているのは、「あること」と「ないこと」のあいだを漂う登場人物をめぐる、「起こった」のか「起こらなかった」のか判然としない出来事だからである。主人公の少女(中村ゆりか)は本当に存在したのだろうか、それとももはやそこにはいなかったのだろうか? 映画の冒頭では、間違いなく少女はそこに存在しているように感じられる。しかし、橋の上の場面になると、彼女は他の登場人物と同じ時間を共有しているようには見えない。そして、楽団が登場するラストシーンでは、もはやどちらとも断定することができない。少女は屋上でのパーティーに参加したのだろうか? 女子高生(長尾寧音)は車窓から橋の上に立つ少女と視線を交わしたのだろうか? そして、自転車に乗った青年(染谷将太)は橋の上で少女と出会ったのだろうか? こうした問いに答えが与えられることはなく、私たちは、「あること」と「ないこと」、「起こったこと」と「起こらなかったこと」とのあいだで宙づりにされる。そして、鼻歌でうたわれるメロディーの断片だけが、登場人物のあいだを循環し、彼らを結びつける(ように見える)。

瀬田監督の作品は、現代の都市空間を生きる登場人物を移ろいゆく時間のなかで巧みに描き出す一方で、SF的だったり(『あとのまつり』)、ファンタジー的だったり(『彼方からの手紙』)する側面を備えている。『5 Windows』にも、とてもファンタスティックな側面がある。この映画の後半部分は、そうした二面性がどこから来るのかを垣間見せてくれる。そこで登場人物たちは、口々に「14時50分」と口にする。このとき一見、映画は「14時50分」という現在の1点に収斂していくようにみえる。しかし、実際には、時刻が口にされる度ごとに現在の輪郭はブレていき、ひとまとまりの光がプリズムによって分光するように、「14時50分」はいくつもの細片へとバラバラになってしまうのだ。私たちは現在をすっかり見失ってしまうのである。現在が無数の細片へと解体するとき、それは「そこにあること」の重みを失い、「あること」と「ないこと」、「起こったこと」と「起こらなかったこと」との境界が曖昧になる。したがって、いまや夢も妄想も、思いつきもあったかもしれない過去の記憶も、みんな「14時50分」の一部となる。

現在(present)とは現前(presence)であり、現前とは存在することである。したがって、現在を捉えようとすることは、何かが存在しているという断言、出来事が起こりつつあるという確信と結びついている。しかし、瀬田監督の映画は、まさにこの結びつきを振りほどこうとするのである。瀬田作品が描くのは、「それはある」と言ってしまっては捉えそこなうようなフラジャイルな存在であり、「それは起こった」と語ってしまっては取り逃してしまうようなエフェメラルな出来事である。瀬田作品は、現在を生き生きと描き出す一方で、それを見失う地点に繰り返し到達する。『彼方からの手紙』の主人公は「現在はどこだ?」と呟いていたが、それは観客の抱く感情でもある。異なる時空(「彼方」、「2095年」)の参照は、現在を「あること」の重みから振りほどき、世界をいまだ未完了な流動状態において見出すために必要なのだ。『5 Windows』において、「あること」と「ないこと」が宙づりになる「見失われた現在」を漂っているのは、もちろん中村ゆりかである。染谷将太が橋の上で彼女と視線を交わす瞬間、そして彼女がカメラを真直ぐに見つめる瞬間は、この映画の最もスリリングな瞬間だろう。

私たちの世界は未完成であり、人生もまた同様である。だが私たちは、言葉の力を頼って(「〜した」、「〜が起こった」と言うことで)、始まりも終わりもないところに始まりと終わりを捏造し、ただひたすら未完成し続けている世界に完成を見ようとする。瀬田なつきの映画のプリズムは、この見せかけをバラバラにして、物事を再び未完成の状態に引き戻すのだ。そのとき世界は再び生気を取り戻し、僕たちは彼女の映画になんとも言えない瑞々しさと解放感を感じることになる。もしかりに瀬田マジックと言うべきものがあるとするならば、その魔法はこのプリズムに宿っているに違いない。

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