1月 182020
 

観光客の惑星のピースフルな夜に
『TOURISM』試論

海老根剛

『TOURISM』はごく短期間で手早く仕上げられた小品という見かけとは裏腹に、きわめて大胆な構想と野心に貫かれた快作だ。この作品は、『ゾンからのメッセージ』や『ワイルドツアー』と同様に、いまや明瞭な輪郭を失い雲散霧消しつつあるようにすら思える「映画」を防壁で守られた閉域に匿う代わりに、〈いま〉の直中に深く沈め、そうすることでいまだ知られぬ映画の野生を探り当てようとする。そのさい『TOURISM』において映画を〈いま〉の直中へと誘うのは、観光客という存在である。この存在を通して、私たちの現在に特有の移動と場所の感覚が探求され、私たちが映像ととり結ぶ関係の変容が浮き彫りにされるのだ。

この映画の冒頭で描かれる街の風景は、前作『大和(カリフォルニア)』と地続きであるように感じられる。主人公のニーナ(遠藤新菜)をはじめとする3人の若者も、まるで前作の物語世界から抜け出てきたかのようだ。だが、そうした連続性がある一方で、作劇法に注目すると、『TOURISM』はほとんど対極的と言ってよいくらいに前作とは異なっている。端的に言って、この映画の登場人物には見事なまでに葛藤が欠けているのである。前作『大和(カリフォルニア)』では、主人公サクラ(韓英恵)の感じる怒りと苛立ちが彼女を突き動かし、それが他人との間に葛藤を生み、物語を進展させていた。一方、『TOURISM』に登場する3人の若者は、インタビューの場面からも分かる通り、現状に対して特に強い不満を抱いているわけではない。彼らは今いる場所から脱出したいとも、生活をドラスティックに変えたいとも思っていないし、いまの状態のまままで居続けたいと強く願っているわけでもない。それゆえ彼らには、本来物語の登場人物に不可欠なはずの行動と葛藤の契機が欠けているのである。シェアハウスでの3人の緊張感を欠いたユルいやり取りは、この映画の最も魅力的な場面のひとつだが、強い葛藤を軸にしていたこれまでの宮崎作品には見ることのできなかった要素である。

そういうわけで、この映画では物語はただ偶然によってのみ進行する。登場人物の決断と行動によって引き起こされるような出来事はひとつともない。ニーナとスー(SUMIRE)の旅行のきっかけも偶然なら、シンガポールに行くことになったのもGoogleマップの気まぐれだし、ニーナがホーカーにスマホを置き忘れてスーとはぐれてしまうのも、見ず知らずの女性に間違った場所に連れて行かれてしまい、あちこちさまよった挙句、最後にハキームに出会うのも、すべては偶然の成り行きである。ニーナもスーも波間に揺れる浮子のようにシンガポールの街を漂っていく。

偶発的なエピソードの連なりからなる物語の圧倒的なユルさ、これはもちろん意図されたものである。このユルさを通してしか描けないものがあるのだ。大した準備も計画もなしに、ふわっと国境を越えてしまう今日の観光客の移動の感覚、場所の感覚がそれである。それは「観光客の惑星」の住人たる私たち自身の〈いま〉を特徴づける時間と空間の感覚でもある。ニーナとスーは「どっか行ってみるかなー」くらいの漠然とした気持ちで、さしたる計画も目的もなく、ふわっと国境を越え、SiriとGoogleマップに誘われるままに異国の地をさまよう。宮崎監督はすでに述べた非正統的な作劇法を用いて、目的や計画のみせかけを剥ぎ取られた観光客の経験をヴィヴィッドに描き出してみせる。観光客の「ふわふわ性」(東浩紀)を剥き出しにしたニーナとスーは、いわば「野生の観光客」である。そのふわふわ性ゆえに彼女たちの旅は偶然と逸脱に開かれており、ときに観光の枠組みそのものをも破壊しかねないポテンシャルを秘めている。挑戦的な眼差しと重厚な音圧で観光地の風景を異化してみせる彼女たちのダンスは、私たちにそうした可能性を予感させるだろう。

観光客という存在は、映像表現の面でも映画を〈いま〉の直中に引き入れる。というのも、今日の観光客はつねにスマホを手放さず、映像を産出しつづける存在だからである。しかし、観光客が映像を撮るのは、かつてのように旅の「記録」(思い出)を残すためではない。映像は後から見られるのではなく、自撮りの場合に典型的なように、撮られると同時に見られている。そこでは映像を撮影することは(そしてそれをシェアすることは)、それ自体として、現在進行形の旅の体験の一部であり、両者を体験とその記録として切り離すことはできない。したがって、観光客の経験を描くには、彼らを被写体とするだけでは不十分であり、映像を産出する存在としても扱う必要がある。それゆえ、『TOURISM』では、自撮り棒で撮影されたニーナとスーの映像だけでなく、正方形や縦長のスマホの映像が取り入れられている。

ニーナとスーがシンガポールの巨大なショッピングモールを訪ねる場面で、私たちが見る自撮りの映像は、観光客の映像としては典型的なものだ。FacebookやInstagramのライヴ・ストリーミングやPeriscope のようなストリーミング・サービスでは、世界各地の観光客が撮影したそうした動画を大量に見ることができる。そうした旅の映像を見ていると、劇映画とは異なるリアリティのコードが作用していることに気がつく。そうしたライヴ・ストリーミング映像では、カメラの前の人間が撮られていることを意識していて、カメラに向かって語りかける映像のほうが自然でリアルに感じられ、無言のまま風景や人物をフレーミングした「映画的な」映像は、かえって作為的に感じられるのだ。『TOURISM』が映画をその直中に位置づける〈いま〉とは、多種多様なデバイスが共存し、映像のリアリティをめぐる異なる感受性がせめぎ合う環境のことでもある。

それゆえ、もし『TOURISM』がヌーヴェル・ヴァーグ的なものと関係するとするなら、その接点は手持ちカメラを用いた街頭シーンのゲリラ的な撮影手法にだけでなく、リアリティについての異なる感受性をもたらす新たなメディアとの接触を恐れぬ姿勢のうちにこそ、認められるべきだろう。当時最新の同時中継メディアであったテレビ映像のライヴ性をネオ・レアリズモと掛け合わせることで映画を刷新した『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジエ監督)の遠い谺を『TOURISM』に聞くことは不可能ではない(両者とも二人の若い女性が主人公であり、風変わりなダンスシーンを含んでいる)。一方、映画の後半、ニーナがひとりでマレー系やインド系の人びとが暮らす街区をさまよう場面で、カメラが不意にニーナを追うことをやめ、あたかもみずから意思を持ったかのようにフラフラと周囲を見回すところは、『秋聲旅日記』(青山真治監督)の一場面を想起させる。

映画の終盤、道端に座り込んでいたニーナはハキームに声をかけられ、彼の家族との食事に招かれる(この映画が食事の場面から始まっていたことを思い出そう)。食事が終わると、ハキームはニーナを屋上に連れ出す。そこで二人は並び立って街の明かりを見つめ、ミュージシャンの風変わりな演奏に耳を傾ける。興味深いことに、ニーナが消費の楽園(「国全体がディズニーランド!」)とは異なるシンガポールの姿に触れるこれら魅力的な場面は、それ以前の部分とはまったく違う仕方で撮影されている。ほぼすべてのカットが固定ショットで撮影されているのである。そこで繰り返し示されるのは、向き合うのではなく、横に並ぶ人びとの姿である。食卓に並んで座るニーナとハキームの家族たち、テレビを見るハキームの家族とその後ろに立つ二人、そしてミュージシャンの演奏を聴く様々な風貌の人びとのあいだに立つハキームとニーナ。異なる個人たちが隣り合って並ぶ姿は、自撮り映像のリアルとは異なるリアルを提示する。映画の「ショット」に固有のリアルだと言えるだろうか。異なる存在のあいだにつかの間の連帯があったピースフルな夜。それはニーナになにをもたらしたのだろう。

(初出:『TOURISM』[宮崎大祐監督]パンフレット、2019年7月。ただし本稿は若干の加筆修正を加えている。)

 

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