12月 302011
 

注記(2012年11月15日):この訳文には、少数の誤訳、不正確な表現が含まれています。訳文を全面的に再確認し、問題点を修正したうえで、訳注を付した完全版が、ヨアヒム・ラートカウ著『ドイツ反原発運動小史』(みすず書房)に収録されています。そちらをご覧いただくことをお勧めします。特に学術文献等で引用する場合には、必ず上記の書籍版から行うようにしてください。

 

ドイツ原子力産業の興隆と危機 1945-1975
結論:研究成果と実践的な諸帰結

ヨアヒム・ラートカウ(翻訳 海老根 剛)

核エネルギー技術の発展の原動力とそのコントロール可能性を求めて

核エネルギー技術の発展の原動力を探すにあたって最もあてにならないのは、その中心的な原動力を、最終的に技術の進歩とその自立的ダイナミズムのうちに探そうとするような観念である。原子力産業の成立過程をつぶさに追跡するなら、この種の進歩モデルが当てはまらないのは明らかである。そもそも「技術の進歩」を同定することさえ十分に難しいのである。それよりもむしろ、技術的発明能力の後退のほうが、ずっとはっきりしている。というのも、ますます多くの核技術上のオルタナティヴが十分な検証もなされぬままに放置された結果、ひょっとしたら達成できたかもしれぬ安全性問題のより包括的な解決策が忘却されることになったからである。核技術の発展を統御していたのは、技術的事象の強制力ではない。その都度なされた選択を支持する技術的論拠が後から十分に見出されたとしても、そうした論拠は歴史上しばしば、まずは副次的なものとして出現したのである。

「技術」は自律的システムではないということ、「技術の進歩」は固有の性質を持つ原動力ではないということ、そして、「技術的合理性」は一義的なものではないということ−−これら三つの事柄が繰り返し明らかになった。こうした事情のもとでは、生産力の発展を社会の起爆力とみなすマルクス主義的歴史像も、ほとんど意味を持たないのである。

科学の進歩もまた––最初期を除けば––核技術の発展の原動力ではなかった。というのも、原子研究にとって、原子炉技術はほどなく重要性を失ってしまったからである。それどころか、カールスルーエ原子力研究所の内部では、増殖炉開発と基礎研究がただちに競合関係に陥ったのだった。ちなみに、核技術の開発が他分野の技術的進歩を後押ししたということも、はっきり認識することはできない。単一の分割不可能な技術的進歩という観念に見切りをつけるなら、スーパーテクノロジーの「牽引者」的役割という、1950年代、60年代に広く流布した神話もまた崩れ去る。

核技術の歴史に取り組むにあたっては、広く流布した経済的な説明図式、すなわち市場や需要のうちに根本的な原動力を認めようとする説明図式もまた、忘れてしまってかまわない。核エネルギーは、カバーしきれぬエネルギー需要への直接の対応として開発されたわけではないのである。むしろ核エネルギーの全歴史を通じて驚かされるのは、エネルギー政策上の考慮の欠如である。こうした事実とも符合して、まさしく電力会社こそが、長きにわたって核エネルギーの推進を阻害する要因であったのだ。

エネルギー政策に関わるモチーフは、曖昧模糊とした思弁としてのみ、原子力政策の周囲をさまよっていた。1950年代の半ばには「エネルギー不足」の不安が、戦中および終戦直後の時代の遺産として、特にルール地方の炭坑から離れた地域にはまだ残っていた。当時、原子力の未来を喚起することは、ルール地方の石炭への重苦しい依存を軽減する方策として役立ったのだ。––しかし、その後すぐに石油の過剰供給によって、状況は一変してしまった。これ以後、ボン[西ドイツ]では、「エネルギー政策」とはエネルギー原料の過剰供給との取り組みを意味するようになった。それでも長期的にみればエネルギー不足が予見されることは、確かに忘れられてはいなかった。しかし、この漠然とした見通しは、それ自体として実践的な重みをもたなかったのである。原子力政策が依然としてエネルギー政策上のモチーフを保持している限りにおいて、ひとは原子力政策を、長期的視野に立ったエネルギー上の備えの欠如を埋め合わせる代理行動として特徴づけることができる。原子力政策の独特の硬直性と偏執は、こうした事情に合致している。

核エネルギーの発展を支配した特定の権力や組織や利害集団が存在するのだろうか。こうした水準においても、満足のいく原因にたどり着くのは難しい。数十年間にわたって活動するひとつの主要なアクターを同定することは容易ではない。この困難は反原発運動の文献にも表れている。反原発運動は、敵の明確なイメージを描くのに失敗することが多かったのである。敵は産業界なのか、国家なのか。それとも産業界と国家機構が緊密に結びついた複合体なのだろうか。あるいはまた、社会システムの全体が敵なのだろうか。詳細に考察してみると、これらの権力のいずれも、核技術の歴史における十全な意味での行動主体ではないことが明らかになる。

考えられるアクターをひとつひとつ検討してみよう。まずエネルギー産業だが、長きにわたって、ここにイニシアチブがなかったことは明白である。原子力発電所の高額の建設費用を負担することなしに安価な運転費用の恩恵のみを期待できる化学産業などの大規模電力消費者はどうだろう。こうした産業にとって、原子力エネルギーは原則的に魅力を備えていたと言ってよいだろう。製造業について言うと、この業界は輸出志向が強く、アメリカ合衆国に対抗して固有の特徴を手に入れられる原子炉タイプを必要とした[1]

しかし、諸々の異なる経済的利害からは、単一の原子炉戦略は生まれなかった。また、これらの利害が国家によって設定された枠組みから独立して存在していたのではないことも、かなりはっきりしている。アメリカ合衆国では、政治的枠組みはさらに明確である。アメリカの私企業が早い時期に核技術分野で活発に活動し始めたのは、なによりもまず、この分野が国家によって完全に占有されるのを未然に防ぐためであった。

ということはつまり、国家が主要なアクターだということになるのだろうか。実際、国家の諸機関は、決定的な局面で重要な役割を果たしていた。1960年頃には、核技術の採算性の欠如に対する不満が、「それにもかかわらず国家の強力な利害のゆえに核エネルギーの産業的発展はすぐに進展するだろうという安心感によって、ほぼ抑圧された」[2]。だが、国家は核エネルギーの開発を経済的利害によって正当化し、つねに経済界による承認を求めた。エネルギー産業部門の大部分は国営ないし半国営であったにもかかわらず、国家はエネルギー産業に抗して核エネルギーを押し通すこともできなかった。また西ドイツ国家は、原子力産業を効果的にコントロールする手段もまったく持っていなかった。

しかし、いくつもの分科会を備えたドイツ原子力委員会は存在した。その分科会では、原子力産業と専門家の重鎮が、官庁の役人と会議していた。ということは、「国家独占資本主義」モデルに対応し、核技術の発展を全権指揮した複合体が、すなわち、大産業、原子研究、省庁官僚からなる複合体が存在したのだろうか。だが、実際には、原子力委員会は、文献の中でしばしばそれに付与されるような強力な役割を負っていなかった。国家、産業界、核研究の間に横断的関係のネットワークが存在したのは確かである。しかし、このネットワークは、全体としてみると、機能する機関でも、コントロール中枢でもなかった。それどころか全体としては、––詳細に論じたように––原子力複合体の増殖とともに、その個々の部門の独立性もまた高まったのである[3]。「国家独占資本主義」モデルは、特定のいくつかの状況には当てはまるものの、機能様態や発展傾向には当てはまらない。

しかしながら、「国家独占資本主義」の理論に対しては、国家の経済活動の拡大を経済に対する国家の影響力の強化と同一視することはできないという点で、同意しなければならない。そうした影響力の強化とは正反対のことが起こりうるのであり、原子力産業の歴史においても、それは観察可能である。すなわち、国家の経済活動の増大は、国家の諸機関をそれまで以上に民間経済の影響にさらすことになり、特定の経済的利害に対する国家の同一化を強化しうるのである。それどころか、そのとき国家は、国家の政策をすり抜ける新たな利害集団の––経済界における––結集と強化に寄与することすらありうる。原子力産業のなかで政治のスローガンに最も反抗的な態度を示したのが、国営ないし半国営の企業が大半を占めるエネルギー産業であったという事実を考慮するなら、国家の経済活動の拡大を経済の政治的コントロールの強化と取り違えることは許されないのである。

それでは、原子力技術の発展の背後にあったのは、社会システムの全体だったのだろうか。事実、1950年代には––必ずしも幅広い住民層の間にではなかったにせよ––すべての権力集団の間に、原子力技術に有利な合意が明確に存在したことが認められる。しかし、この合意が最も強固であったのは、まだ行動も投資もほとんど真剣になされていない時期のことであった。それに続く時期になると、核エネルギーの開発は、しばしば非体系的に、また首尾一貫しない仕方で推進された。特に状況が打開された決定的な数年間には、政治と公衆(Öffentlichkeit)の関与はわずかなものでしかなかった。1970年代に入り、核エネルギーがもはや合意ではなく意見の不一致を生み出すことが明らかになったとき、国家当局は素早く遅延戦略に移行したのだった。

デモの参加者の多くが、警察の集中的な権力を目の当たりにして、核エネルギーは既存体制の核心に関わっていると感じたのだとしても、その印象は歴史研究によっては裏付けられない。少なくとも、核エネルギーの断念が、あるいはまた、特定のタイプの原子炉技術の断念が、西ドイツにおいて不可能である原則的な理由は、認識できないのである。

歴史研究は現在の核技術がすでに長い前史を持っていることを示している。だがそれはまた同時に、その発展の途上には多くのオルタナティヴが存在したことをも明らかにする。出来事の不可避的な連鎖は、おそらく個別的には認められるかもしれないが、全体としては認められない。

原子力技術の発展の起源とその経過は、特定の事象に由来する強制力にも、特定の権力集団や官庁にも、固定することができない。むしろ起源という性質を備えているのは、国家と民間経済と研究とのあいだの関係を特徴づける特定のメカニズムである。そして、まさにこのメカニズムこそが、直接に核技術の弱点に通じてもいるのだ。そこでは、相互のライバル関係、他のアクターの持つ諸性質を模倣したり、手に入れようとしたりする試みが、特別な役割を果たしている。国家は経済的な役割を果たそうとし、産業界は自分たちの利害を国家的利害によって飾り立てようとするのである[4]。産業界の人間は、原子力と取り組むにあたって、国家の権力追求を当てにしていた。確固たる核保有国とは異なり、ボン[西ドイツ]ではこの権力追求はそれほど明確に表明されていなかったものの、存在していたのは確かであり、それは初期のプルトニウムへの衝動のなかに表れていた。しかしながら、原子力産業にとって、「国家的」利害や国家の後ろ盾がどの程度信頼に足るものなのかは、いつまでもはっきりしないままであった。

一方、政治家にとって、核エネルギーに対する真の経済的需要がどの程度存在するのかを見極めるのは、必ずしも容易なことではなかった。国家は原子力政策によって経済の将来的需要を先取りしようとしたのだが、とりわけそれに成功したわけでなかった。カールスルーエの核研究[カールスルーエ核研究センター]が、増殖炉の開発に際して性急に大規模発電所の建設に移行したとき、核研究は産業界を模倣したのだった。––そして、この決断によって、研究は袋小路に陥ることになったのである。

したがって、核エネルギーの発展を規定したメカニズムは、安定したシステムを生み出しはしなかったのだ。関係者の間で相互に支え合い、リスクを転嫁し合うおなじみの実践についても、このことは当てはまる。そうした実践では、核技術の実際のリスクとこの技術の推量的性質が互いを反映し合っていた。政治は経済に依拠し、経済は政治に依拠した。そして、政治と経済はともに科学に拠り所を求めたが、科学のほうもまた政治と経済に支えを求めたのである。––このように錯綜した関係にあっては、核技術の実際の有用性を明らかにすることは不可能であった。

核技術が既成事実化した時代になってようやく、この技術はその利害基盤をいわばみずから作り出した。だが、この利害は脆弱であり、合理性を欠いている。燃料サイクルの欠陥のある発展や、現在の原子炉と未来の原子炉とのあいだの連関の欠如や、核エネルギーが短期的なエネルギー供給を目的とするのか、長期的なエネルギー供給を目的とするのか不明確なままである点に、そうした脆弱さと合理性の欠如が表れている。

こうしたことすべてにもかかわらず、原子力政策の特殊性が問題なのだという印象を喚起するのは誤りであろう。むしろ本研究の結果が示しているのは、原子力政策には政治の通常の弱点が完全に見いだされるということであり、原子力政策は事象固有の合理性によって特徴づけられる特別な部門ではないということである。とりわけ歴史家の立場からみるならば、提示された国家と経済の親密さを後期資本主義の特定段階の特徴とみなす理論構成には慎重にならざるをえない。というのも、近世以来、資本主義の隆盛と国家の官僚制の隆盛は、多様でしばしば災厄をはらんだ仕方で相互に結びついてきたからである。

また、核技術という事象に備わる必然性ゆえに国家の特別な関与が不可避となったという広く流布した想定も間違っている。まさしく軽水炉なら、西ドイツでは国家の支援などなくとも導入可能であったろう。––いずれにせよ、国の原子炉政策は、軽水炉の開発にほとんどなんの寄与もしなかったのである。国家と経済の結びつきは、必ずしも核技術に由来する必要性を反映しているわけではない。そうではなく、それはドイツの「組織的資本主義」の伝統に根ざしているのである。この伝統は、ルードヴィヒ・エアハルト[1949-63年西ドイツ経済相、1963-66年西ドイツ首相]のリベラリズム的宣言によっても、ただ表面的に中断されたにすぎなかった[5]。ドイツにおける「組織的資本主義」の歴史的経験––つまりカルテル制度から国家社会主義の経済集団や世界大戦時の「国家防衛経済」までの諸経験––は、こうした秩序構造のなかにまったく合理的なものやポジティヴなものを見て取ることを妨げる。そして、原子力産業に関するこれまでの経験からも、あえてそうした見方をする根拠は見当たらないのである。

 

監督機関の問題

以上の考察から、いかなる実践的帰結を引き出すことができるだろうか。核エネルギーの発展をコントロールするのに適した勢力は、どこに見出せるのだろうか。

国家政策の強い関与や国家と民間経済との相互作用における致命的なメカニズムの指摘は、次のような推測に根拠を与えるかもしれない。すなわち、核技術の合理的なコントロールが最も適切に保証されるのは、この技術を––当初西ドイツでも予定されていたように––明確かつ一義的に民間のイニシアチブに委ね、国家の活動を基礎研究の領域に限定する場合ではないだろうか。実際、核エネルギーの発展の最も効果的なコントロールは産業界の自己制御メカニズムによって実現されるという想定には、それなりの根拠がある。というのも、それによって経済界は、リスク保証をも含めたすべての事柄に対して、みずから責任を負わねばならなくなるからである。

今日の西ドイツでは、原子力に対する批判は、ほとんどの場合、「左翼的な」立場と結びついている。そのために、原子力産業の歴史がまさしく経済リベラリズムの立場にとってとりわけスキャンダラスであることが、覆い隠されてしまっている。だが、原子力政策に対する––インサイダーの知識にもとづく––とりわけ鋭い批判は、まさに市場経済的な論拠によって繰り返し表明されてきたのである[6]。この批判によれば、市場経済の自己制御メカニズムから合理性が期待できたにもかかわらず、国による数十億マルクの補助金とリスクの引き受けによって、この合理性が台無しにされてしまったのである。

歴史認識としてみるならば、こうした見解には、疑問の余地なく真理が含まれている。核エネルギーの開発が、世界中で性急に、しかも多数のオルタナティヴを無視するかたちで推進されるとともに、その費用とリスクが不透明に保たれてきたとするなら、その原因は国家による強力な後ろ盾にある。国の補助金を大幅に削減することによって、おそらく費用と時間がさらに節約されるだけでなく、核技術が抱える諸問題の透明性も高まるだろう。連邦議会で使用済み核燃料の処理に関する公聴会(1976年)が開催されたとき、驚くべき光景が展開した。その公聴会で再処理費用の大部分を民間経済がみずから負担せねばならないことが明らかにされると、化学産業とエネルギー産業の代表者たちは、急に異例の率直さで再処理のリスクについて語りはじめたのである[7]

ちなみに、歴史的な洞察から国家の役割について実践的な帰結を引き出すのは、なかなか難しい。もし国の助成がまったく存在しなかったとしたら、核エネルギーの開発はどのように展開しただろうかと熟考してみても、国家の後ろ盾のもと世界中ですでに既成事実が積み上げられてしまった現状にあっては、直接に実践的な処方箋を得ることはできないのである。もしこうした現状のもとで国家が原子力産業をそれ自身の手に委ねるならば、おそらく既成事実が完全に承認される結果にしかならないだろう。このことは特に軽水炉の優位に当てはまる。軽水炉は、燃料サイクルを経由して軍事技術と絡み合っており、軍事技術から利益を得ているのである。

そもそも核技術の開発が意味を持ちうるとするならば、それはこの技術の開発が非常に長期的な視野に立って––つまり核分裂生成物の最適な利用と最小限の長期的リスクに眼目をおいて––推進される場合だけであろう。しかし、市場メカニズムと経営上の計算は、まさしくそうした長期的視野に立つ開発を保証することができない。増殖炉の開発には経営上の刺激が存在せず、核技術の安全性のうち、運用信頼性[通常の運用における信頼性]と同一でない部分は、電力会社の商業的利害ではカバーされない。そのうえ、本論で詳細に論じたように、現在の原子炉技術は、安全性の利害と採算性の利害とのあいだに激しい対立を生み出している。こうした点を考慮するなら、単純に原子力産業をそれ自身の手に委ねることは、非常に憂慮すべきことであろう。

ところで、リベラルな経済理論が想定する理想的な市場の能力と、現実の民間経済の実証的に確認可能な能力は、鋭く区別する必要がある。核技術の歴史を概観するならば、民間経済の影響力が高次の合理性として作用したと認定することはできないのである。初期にみられた国家の強い関与に対する抵抗は、産業界が核技術を自由市場に委ねることを望んだということを意味してはいない。そうではなく、それは、産業界が核技術をドイツの大産業の自己制御メカニズムに委ねようとした、ということを意味しているにすぎない。また民間経済のほうが省庁官僚よりも核エネルギーに通じており、幻想を抱くことも少なかったと認めることはできない。もちろん産業界は、原子力発電所によってできるだけ早く目に見える利益をたたき出すという利害の点で、国や研究とは異なっていた。しかし、その他の点では、産業界に高次の合理性を認めることはできないのである。核エネルギーの発展の過程で、国家と経済界が異なる思考様式を持ち明確に区別される勢力として現れることは、まれであった。

原子力産業のうちに強力な機能的システムが存在したのは確かである。しかし、このシステムの機能の仕方は、核技術の特別な諸問題を克服するように調整されてはいなかった。どちらかといえば、既存のシステムの力が成功の確実性という偽りの幻想を振りまいたのだった。この数十年のあいだに国際的に高度に企業連合化した電力産業は、表面的には従来の発電所にかなりの程度まで順応した原子力発電所を、難なくそのグローバルな販売システムに組み込むことができるようにみえた。しかし、ブラジルとの取引[1975年]は、由々しいほどの自己の過大評価、いやそれどころか現実感覚の喪失を暴露したのだった。このブラジルとの取引は、まさしく常軌を逸した規模のものであり、ブラジルの現実とまったく釣り合いがとれていなかったのだ。その際、政治と経済の相互作用は、外界に対する盲目性をさらに高めたように思われる。

歴史的事実を見る限り、民間経済は、国家によって守られた原子力産業に対する印象深いオルタナティヴだとは言いがたい。だが、これまでの事態の進展から判断するなら、国家と経済の相互作用がより透明性の高いものになるならば、核技術の発展の合理性も高まるだろうと結論することはおそらく可能である。しかしながら、原子力政策に関わる諸勢力や諸機関に持続的かつ効果的なコントロールを可能にするメカニズムが備わっているとは認められない。したがって、すでに存在するメカニズムをより適切に活性化すればそれでよい、というわけにはいかないのだ。他方、核技術の発展には、いくつもの矛盾が含まれており、批判的公衆(kritische Öffentlichkeit)は、そうした矛盾を足がかりにすることができるだろう。

 

核技術の安全性に対する歴史的に根拠づけられた疑念

安全とは一回限りの措置ですべて確保できるような代物ではない。核技術の場合には、なおさらである。注意を払い、経験を消化し、それまで見落とされていた潜在的危険と率直に向き合う持続的プロセスによってのみ、安全は保証されうるのである。したがって歴史研究は、安全に関わる状況を判断するための、いくつかの観点を提供することができる。

根本的な懸念のひとつは次の点から生じる。すなわち、核〔エネルギー〕のリスクの大半は、原子力施設[発電所]の完成後、明白かつ具体的な仕方では現れないものであり、また長期的な放射線障害では、ほとんどの場合、責任の厳密な証明が不可能なのである。したがって、エンジニアや経営士の行動様式が核技術の潜在的危険に対する適切な対応へおのずと導かれるのかどうか、根本的に疑ってみる必要がある。原子力産業をリードする企業が、危機的状況のなかで自社の従業員の年金共済金庫にまで手をつけることが明らかになったのであれば、そうした企業が未来の諸世代の健康を自社の利害の一部とみなしているとは、到底想定できない。

核技術の開発は最初から最高度の安全意識を持って行なわれてきたという主張をしばしば耳にするが、明らかな誤りである。とりわけ初期には放射線生物学との対峙が意図的に避けられていた。そもそも極端に高い安全意識があったとするなら、それはその後の核技術の発展の過程で––ネガティヴな経験と外部からの圧力によって––ようやく生じたのだった。

軍事的な核分裂生成物獲得と核技術との結びつきは、決してきっぱりと解決されてこなかった。いやそれどころか、解決のためのシステマティックな努力すら認めることができない。これもまた根本的な懸念を抱く理由である。1957年のゲッティンゲン宣言も、その十年後の核拡散防止条約[発効は1970年]も、民生用原子炉技術を爆弾製造のテクノロジーから切り離すような新たな技術的解決策をもたらさなかった。それどころか、そうした新たな解決の道筋に考えをめぐらすことさえ、なされなかったのである。依然として、原子力発電所は、「燃料サイクル」、ウラン濃縮、[使用済み核燃料の]再処理を経由して、爆弾製造と結びついている。つい最近も、西ドイツも出資したフランスの増殖炉がフランス核戦力(Force de frappe)にプルトニウムを提供していることが報道によって確かめられたところである[8]。核兵器は核技術の最大の勝利であり続けているのだ。

ところで、核技術の発展のテンポとテクノロジーの硬直化もまた、憂慮の種である。一般的に言って、複数のオルタナティヴを実験し、様々な経験を集め、評価する時間がなかったのである。核技術は、実践的経験によってのみ、最高度の安全性に到達することができるだろう。しかし、今日にいたるまで、原子炉安全性研究と「安全哲学」は、現実の経験に対してぎくしゃくした関係を示している[9]。また、ドイツの原子炉安全性研究がアメリカ合衆国に対して遅れをとっており、それを模倣していることも、懸念材料である。人口密度の高い西ドイツではアメリカのような距離基準を設定することができないのだから、むしろ安全性研究においてアメリカに先んじているべきだろう。

安全性のコンセプトの変化もまた、原則的に憂慮すべきものである。「固有の」安全性、すなわち最悪の場合にも原子炉の内部特性によって保証される安全性のコンセプトから、主に外部装置によって確保される安全性のコンセプト(「工学的安全装置」engineered safeguards)への移行が生じたのである。しかもその際、「固有安全性」という概念すら抑圧された。これによって、原子炉の安全性は、極度に見極めがたく、あまり信頼のおけない領域になってしまった。というのも、外的な安全対策の信頼性は、つねに原則的な疑念にさらされているからである。そのうえ、これによって安全性と採算性の対立が避けがたくなった。ハリスバーグの事故[スリーマイル島原発事故]が示したように、危機対応を要求される「人間という要因」に、過剰な負担がかけられるのだ。本来ならば、運転員たちはつねに緊急事態に備えた警戒態勢でいなければならないはずだろう。しかし、長期間にわたってそうした態勢を維持し続けられるとは思えないし、原子力発電所は絶対に安全であるというプロパガンダもまた、そうした態勢でいることを妨げるのだ。

核エネルギーの発展において憂慮を抱かせるのは、リスクの総体を考慮の外に置くという戦略である。国家保証によって、民間経済は大事故発生時に全責任を負うという負担を軽減されたのである。また、燃料サイクルを構成する他の部分のもたらすリスクと向き合うことなしに、原子力発電所は建設されてきた。そして、極めて恣意的に「最大想定事故」が設定され、それ越える事態を想定した安全措置は不要とされることになったのである。

ここで言及されているのは、ある致命的な発展である。すなわち、原子力施設の「安全性」が、ますます認可可能性と同義になっていったのである。原子炉の安全性確保の努力は、ますます特定の形式的要件を満たすことを目指してなされるようになった。だが、この形式的要件は、主に官僚機構の自己防衛の欲求によって規定されていたのである。これによって、安全性問題の包括的で新種の解決策が妨げられることになった。原子力関連のプロジェクトの運営においても、安全性に対する責任の一部を外部機関に引き渡すことが、ネガティヴな傾向として目につくようである[10]

特に堪え難いのは、まさしく核〔エネルギー〕をめぐる論争が展開する過程で観察された、安全性研究と「受け入れやすさ」の研究との混合である。「受け入れやすさ」の研究は、動揺した公衆(Öffentlichkeit)に対して、どうすれば安全という印象を喚起することができるのかを研究するのである。当時フォード財団の原子力政策研究グループのメンバーだったアルバート・カーネセールは、正当にも次のような不条理な状況を指摘していた。すなわち、アメリカ合衆国で毎年原子炉の安全性研究に支出される約一億ドルのうち、「九千万ドルかそれ以上」が「既存のシステムが安全であることを証明するのに使われ、せいぜい一千万ドル程度がそれをより安全にするために使われている」[11]のである。増大する安全義務がまさにこうした不合理な行動様式を後押しすることによって、状況は完全に逆説的なものとなっている。

ここにいたって、原子力施設の安全性を制度的に保証する際の根本的なジレンマが見えてくる。効果的な安全性のチェックは相矛盾した性質を要求するのである。それは原子力産業に対する近さと遠さを同時に要求する。一方において、安全性は、日々施設を運用する現場の実務者によってのみ技術的に保証されうる。しかし他方では、強力な経済的利害に抗して高い安全規準を認めさせるために、外部からの強い圧力が不可欠なのだ。だが、この外部からの圧力は、原子炉安全性研究の大半がこの外的圧力に対処する戦略のために浪費されるという結果をもたらすのである。

純粋に組織的にみるならば、明確かつ一義的に全責任を負い、厳格に運営される機関を現場に置くことが、安全性を保証する最良の方法だと言えるだろう。しかし、その場合にはおそらく、限定的な安全性の概念––もっぱら運用信頼性を中心とする安全性の概念––が適用されることになるだろう。より幅広い安全性の利害は、他の諸機関を関与させることによってのみ確保されうる。––だが他方では、安全性の権限の分割は、新たなリスクという対価をともなっているのだ。

もうひとつ別のレベルでも根本的なジレンマが認められる。技術史において、安全性はつねに実践的経験を通じて、すなわち「トライ・アンド・エラー」によって達成されてきた。––しかし、核技術では、まさにこの方法が非常に危険なものになりうるのだ。そこでは、比較的大きな間違いをすることが許されないのである。今後まだ長い間小規模な実験炉で満足するなら話は別であるが、そういうわけにはいかないので、理論的な予測計算で急場をしのぐことが試みられた。––しかし、この方法には原則的な不確実性がつきまとう。原子炉の大事故が起こる確率を十億分の一と算定する理論的計算は、実際の原子炉技術の開発にではなく、ただ核技術を公衆(Öffentlichkeit)に「受け入れさせること」にのみ役立っているのではないかという印象を抱くことは少なくない。原子炉設計者たちの硬直した保守的態度は、彼らが現実には、理論ではなく経験を信頼していることを証明している。しかし、核技術の場合、信頼できる経験とは何であろうか。

 

専門家と経験

「経験」は並外れて多義的な概念である。––科学的ないし技術的な意味での「経験」となればなおさらである。イムレ・ラカトシュは、科学史を念頭に置きつつ、「ひとが経験から何を学ぶのかを正確に決定するのは」途方もなく難しいと述べている[12]。経験とは、ひとが所有するものであると同時に、もう十分持っているとは決して言えないものでもある。経験とはひとが活用するものであり、かつ、ひとがするものである。経験は古くから伝わるものを固守するが、実験にも通じている。経験は特定の能力のうちに現れるだけでなく、そうした能力の利用可能性が限定されていることを感知する能力にも現れる。

文献を読んでいると、自然科学と技術の近代的発展にともなって、経験は実験によって、また経験的思考は理論によって抑圧されたという見解にしばしば出くわす。だが、実際の発展はもっと矛盾に満ちている。費用の増大は、実験をより困難でリスクをはらんだものに変え、それまで以上に政治的・経済的観点を持ち込んだ。原子力の発見が当初、理論の偉大な勝利とみなされたのに対して、理論家は原子力技術をさらに発展させることができなかった。

原子炉についてドイツで最初の基本文献を執筆したフリードリヒ・ミュンツィンガーは、どちらかと言えば原子力に対して懐疑的であったが、経験をエンジニアの特質として強調した。しかしながら、ミュンツィンガーがそこで言わんとした経験は––彼自身も大いに強調しているように––特定分野に特化した専門家の知識ではなく、多くの人生経験を含む、より包括的な特質であった。それは正確な計算によって捕捉可能なものの限定された射程を感知する能力を含み、とくに技術の新領域で特別な意味を獲得する特質だった[13]

こうした意味での経験は、その核心において、つねにネガティヴな経験でもあった。ハイゼンベルクは、会話体で書かれた回想の中で、ニールス・ボーアの発言を引用している。ボーアは「専門家とは何か」という問い––これは後に核〔エネルギー〕論争の中でますます論争的になった問いであるが––に答えて、以下のように熟考をうながしたのだった。「多くの人々はひょっとしたら、専門家とは当該分野について非常に多くのことを知っている人間であると答えるかもしれない。しかし、私にはこの定義が正しいとは思えない。というのも、そもそもひとは、ひとつの領域について本当に多くのことを知ることなど決してできないからである。私ならむしろこう言うだろう。専門家とは、当該分野でひとが犯しうる最も重大な誤りのいくつかを知っており、したがってまたそうした誤りを避ける術を心得ている人間である、と」[14]。だが、技術や自然科学の知が歴史を欠いた体系性によってみずからを提示するとき、そうした誤りが記憶から排除されることになる。歴史研究はこの「非常に厄介な歴史の偽造」(A・C・クロ厶ビー)[15]を明らかにすることによって、技術的・科学的経験の維持に寄与することができる。

こうした考察は、原子力技術の歴史を考える際に実践的な意味を獲得する。ひとは本書で叙述された歴史全体のうちに、萎縮した経験概念の誤解をもたらす効果についての教訓劇を見ることができるのである。

1960年代のはじめに原子炉のタイプを選んだ際、ひとはどのタイプの原子炉が最も「検証されているか」という規準に依拠しようとしたのだが、いまから振り返ってみると、こうした努力が的外れであったことをはっきり認識できる。まだ原子炉技術の真の「検証性」など問題になりえなかったこと、そしてこのテクノロジー全体がまだまったく成熟段階に至っていなかったことが、その当時は考慮されなかったのである。特に、西ドイツでもっとも早い時期に「検証された」沸騰水型原子炉は、最終的に悪い選択であったことが明らかになった。すでにある出来合いの経験が甲斐無く探し求められるなかで、実験––まだこれからなされるべきであった経験––がおろそかにされたのである。

放射性のシステムと取り組むにあたっては、従来の発電所の経験は限定的な有効性しか持たないということもまた、ほとんど認識されなかった。産業界とエネルギー業界の経験的思考は、原子力発電所における従来技術の割合をできるだけ大きくしようとする努力に導いた。これと似た理由から、減速材と冷却材として水が用いられることになった。しかしながら、まさにこの戦略によってひとは、原子力発電所の安全確保の際に、憂慮すべき仕方でこれまでの経験から離れる領域に入り込んだのだった。さらに増殖炉の選択にあたっては、疑わしい場合にはアメリカにしたがわねばならぬという疑問の余地のある「経験」によって、増殖炉の開発を不愉快な仕方でそれまでの技術的経験の領域から切り離す決断へと導かれたのだった。

だが、核技術の発展の信頼に足る基盤として役立つような種類の経験など、そもそも存在するのだろうか。むしろ核技術はリスクの多い、推量的な企てであり、仮に堅固な経験の基盤を手に入れることがあるとしても、それは遠い未来のことであると強調するほうが、適切なのではないだろうか。

もし原子力政策が責任の持てるものとなる可能性があったとするなら、それは長期的展望に立つ開発としてだけだったろう。しかし、大規模発電所と市場向けの製品を性急に求めたことによって、原子力政策は歪められてしまった。––これがこの研究の大部分から引き出される知見である。(最近好まれていることだが、核エネルギーを核融合や太陽エネルギーの活用までの「過渡的解決策」として提示することは、とりわけ不条理である[16]。)核技術の長期的リスクに対して責任を負うことがもし可能だとするなら、それはせいぜい、核エネルギーが化石エネルギー原料の枯渇後も数多の世紀にわたって使用される場合だけであろう。

その際に致命的なのは、歴史的に見て、純然たる長期的政策を合理的政策として実施することが不可能に思えることである。長期目標を一義的に日々の政策に変換することは決してできない。核技術の歴史でも実際に起こったように、長期目標は短期的利害によって骨抜きにされ、そうした利害の正当化として機能するのが通例である。容赦ない権力政治こそ、とりわけ巧みに、見せかけの長期的必然性によって正体を隠すことができるのだ。政治を遠い未来に向けて組織しようとしたドイツ史上最も暴力的な試みの経験、すなわちナチズムの経験は、百年、千年のスパンを持つヴィジョンに対してアレルギー反応を引き起こしうる。

ヴォルフ・へーフェレによってかつて今後数世紀のための記念碑的プロジェクトと称賛された増殖炉プロジェクトの歴史もまた、私たちを鼓舞するものではない。何人かの研究者は、この歴史からすべての大規模プロジェクトの原則的な非合理性を結論した[17]。しかし、今日の経済的・生態学的な全体状況は、純粋に実用的な、ただ現在の問題の克服だけを目指す政策への原則的限定を不可能にしている。ちなみに、核技術の歴史のこれまでの経験が、未来志向の大規模プロジェクトの可能性に対して一義的に異議を表明しているというわけでない。というのも、核技術ではまだそうした大規模プロジェクトが首尾一貫した仕方で試みられたことがないということも、同様に確認できるからである[18]

核エネルギーの開発を経験のうえに合理的に基礎づけることの原理的な難しさから、すべての核技術を断念することが人類にとって最良の選択であると結論することはまったく可能である。しかし、そうした結論を現実味を欠いた願望とみなすなら、ひとは核技術の経験の多義性とこの技術の依然としてかなりの程度まで推量的な性質、そしてこれまでの核研究の諸利害との結びつきから、次のように結論しなければならない。すなわち、これまでの核研究センターから独立したオルタナティヴな研究機構の制度化が早急に必要なのである。こうした認識は、アメリカ合衆国から発して、近年ますます広がりを見せているように思える[19]。そして、この認識は、科学政策の面からだけでなく、科学理論的にも根拠づけることができる。高いリスクをともなう科学的・技術的コンセプトを信頼できる仕方で経験のうえに基礎づけることができない場合には、そうしたコンセプトと平行してオルタナティヴな仮定にもとづく他の構想を徹底して試すことによってのみ、そのコンセプトの正当性を突き止められるのである。

さしあたり1970年代の核〔エネルギー〕をめぐる論争は、核技術に関するこれまでの経験の最も重要な所産であり続けている。核技術の発展と反原発運動との弁証法的な結びつきは、本論の末尾で明瞭に示された。したがって、原子力技術の批判者もまた、原子力の発展を嫌悪ではなく興味をもって考察すべきだろう。この発展によってはじめて、70年代の批判的反省の水準が可能となったのである。核技術のリスクが、もはや[1950年代の]原子力ブームの時代のように抽象的なものとしてではなく、いまここおける具体的なものとして現れたときにはじめて、このリスクに慄く経験が––明らかに––多くの人々にとって可能となったのである。

反原発運動がモデルとしての性格を獲得し、他の新種の潜在的危険に反対する新たなイニシアチブの模範になったことは、いまや明らかである。エコロジー運動が「切迫した」不都合な状況に対する自発的行動に尽きるのではなく、複雑かつ将来的な危険を予見し、政治的な葛藤に対処できるようになったことは、本質的に反原発運動の功績である。核エネルギーの発展のもとではじめて、そうした潜在的危険が非常に集中的で際立った形をとったのであり、その結果、大衆的な抗議行動と対抗文化の形成が可能になったのである。つまり、すでに長い間存在してきた潜在的危険と潜在的不安が、歴史になったのだ。そうした意味では、原子力は実際に、否定的な象徴になったのである。しかしながら、このことは、原子力が無実の「代理人」として悪用されたということを意味してはいない。というのも、核エネルギー開発の危険をはらんだ側面は、実際に増大する危険を代表しているからである。この危険は、環境、平和、経済の大問題が依然として過去の習慣化した実践によって扱われることから生じている。

 

原子力産業の機能不全としての公共性の欠如:原子力政策における公共的意思形成の必要性

本研究の成果がしばしばネガティヴであり、核エネルギーの発展に関して一義的な主要アクターも有用な監督機関も明らかにしないとしても、この研究成果はポジティヴな意味を備えている。なぜなら、この研究は、1970年代を通じて批判的公衆(kritische Öffentlichkeit)が完璧に機能するシステムに破壊的に介入したわけではまったくないということを、明らかにしているからである。公共的議論の正当性と必要性を、いまやはるかに明確に規定することができるのである。

信頼できるコントロールは、どこにまたどのようにして設定できるだろうかという問いを発した際、本研究はひとつのジレンマに直面した。というのも、監督機関は相矛盾する性質を持たねばならないからである。––その機関は原子力産業の近くにいる必要があると同時にそれから距離を保たねばならず、集権的かつ分権的に組織されていなければならないだろう。

集権化を求める声は、西ドイツでもアメリカ合衆国でも、近年再び強まっている[20]。フランスの中央集権主義は、1960年代にはドイツの原子力産業にとって恐怖の的だったのだが、いまや原子力の信奉者たちは、フランスの原子力政策の厳格で揺るぎない中央集権主義に嫉妬深い眼差しを向けているのだ。しかし、シェルダン・ノヴィックのようなアメリカの原子力の批判者も、これまでの経験を総括しながら、「合理的なエネルギー政策と産業の民主的コントロールに対する唯一の希望は、国のレベルに」見出されると述べている。「個別的利害のアリーナでは、原子力の敵対者はその擁護者に対して、はるかに劣勢に立たされているのだ」[21]。しかしながら、これまでのところは、集権化よりも分権化のほうが、一般に原子力の敵対者により多くのチャンスを提供してきた。だがそれにもかかわらず、原子力政策の根本問題は、確かに国のレベルでのみ決断可能である

しかし、こうしたジレンマもまた、私たちを公共〔公衆〕(Öffentlichkeit)の意義へと連れ戻すのだ。個々の機関ではなく公共のみが、原子力政策の効果的コントロールに必要とされる、あの矛盾した諸性質を持つことができるのである。

この研究は全体として、ドイツの原子力産業と原子力政策を決定した人々の集まりが、1970年代までどれほど緊密に外部に対して閉ざされていたのかを明らかにしている。アメリカ合衆国とは異なり、西ドイツでは長い間、みずからの立場を戦術的配慮なしに主張する用意のある批判的アウトサイダーが存在しなかった。そうした状況のもとでは、原子力政策の正しさに対する根本的疑念が適切に議論されることなどありえなかった。安全性に関する議論は、1970年頃、専門家集団のもとを離れ、内的一貫性をもってより幅広い公衆(Öffentlichkeit)にまで到達したのだった。議会もまた、監督機関としては長い間、無意味であった。公共の場での論争によってはじめて、議会は動きを活発化させたのである。したがって、しばしば主張される議会外対抗勢力と議会内野党との矛盾は、ある程度まで人工的な構成物であるように思われる。議会制が機能するためには議会外のイニシアチブが不可欠だということ––これは原子力政策の歴史の周知の事実である。

ところで、核技術の諸問題の複雑さを指摘することによって、公共の議論の意味を疑問に付すことができるかも知れない。何人かの原子力の批判者も、核技術の複雑さを核心的な論拠として用いている。すなわち、これら人々は、なによりもまずこの技術の複雑さから、原子力のテクノロジーは政治システムの能力を超えていると結論するのである[22]。しかし、この論証は両刃の剣である。なぜなら、それによって、核技術に関する決定は、公共(Öffentlichkeit)ではなく専門家の仕事であるという結論もまた可能になるからである。

だが、こうした複雑性を盾にした議論に対しては、歴史的観点から反論を加えることができる。原子力政策に関する根本的な決断は、必ずしも本来的に複雑なわけではない。高度に複雑な決断を強いられる状況は、往々にして、核技術の開発途上でなされた特定の進路変更によってはじめて生じたのである。実際、ひとが固有安全性のコンセプトから逸脱したときには、どの原子炉設計、どの特別安全対策、そして、どのリスク計算が信頼できるのかを決めるのが、素人には途方もなく難しくなってしまった。

しかしながら、出発点となる決断は本質的にかなり単純であり、公衆(Öffentlichkeit)にとっても理解可能であったろう。そこで答えられるべきなのは、たとえば、次のような問いである。核技術によって爆弾製造の可能性をも作り出すべきだろうか、それともそうした可能性が生じるのを一貫して防ぐべきなのだろうか。原子炉事故を最悪の場合にも狭い限界内に抑えるために、断固として高度の固有安全性に固執すべきだろうか。エネルギー供給を極めて長期的な視野に立って保証するような原子炉開発のみを推進すべきなのだろうか。しかし、専門家委員会のメンタリティとその利害との結びつきは、そもそもこうした問いが立てられることを妨げてきたのである。

そのかわりに内部の審議委員会は、しばしば根本問題を、具体的問題から注意を逸らすような二者択一に変えてしまった。そうした二者択一として挙げられるのは、「ドイツ製原子炉か外国製原子炉か」、「イギリス製原子炉かアメリカ製原子炉か」、「単純な原子炉か複雑な原子炉か」、「検証済みの原子炉か先進的な原子炉か」などである。「水蒸気冷却増殖炉かナトリウム冷却増殖炉か」という激しく争われた二者択一も、あまり幸運とは言えない選択肢であった。根本な問いの非実際的な性質が、議論の細部を非常に込み入ったものにしたことも稀ではなかった。

任意の不都合な状況からの救済者として公衆〔公共性〕(Öffentlichkeit)を持ち出すことは、確かにナイーヴであろう。啓蒙の時代以来、いくつもの幻想に導いた公衆〔公共性〕の神話が存在する。公衆の積極的参加の要求が意味を持つのは、公共的議論の目的と内容について、ひとが具体的なイメージを持つことができる場合だけである。

だが、核エネルギー問題の場合、「公衆」(Öffentlichkeit)はもはや任意に投入可能な抽象ではなかった。それは出来事のますます強力になる推進力であり、すでに固有の歴史を備えていたのだ。公衆は、比較的長い期間にわたって、原子力複合体の明白な弱点に反応できることを証明した。科学理論家のポール・ファイヤアーベントは、「人類の生まれながらの賢さは十分に科学に対応できる」[23]と主張したが、この信頼は––ファイヤアーベントが特に言及した––核エネルギーをめぐる論争において、十分に実証されたと確認できる。核〔エネルギー〕をめぐる論争は、つかの間の観察者には硬直して行き詰まり、過度に感情的なものと感じられることが多かった。しかし、より長いスパンで見るならば、公衆の学習能力をはっきり認識できるのである。

原子力政策の円滑な機能という観点から見た場合でさえ、公衆〔公共〕(Öffentlichkeit)のより強力な参加を求める重要な根拠が存在する。本研究は、原子力複合体に合理的に機能する自己制御メカニズムが備わっているとは言えないことを、繰り返し明らかにした。当事者たちには、目的、利害、リスクに関する明確な自己理解すら、あまりにしばしば欠けていたのである。AEGや他の挫折した企業の運命が示す通り、原子力産業自身もまた、重要な問題に関する公共的議論の欠如に苦しんでいたのだ。集中がもたらす有害な効果について、クヌート・ボルヒャルト[経済史家]が一般的に述べた命題––「大企業が行動を誤るのは、より良い知識を持っていないからである」[24]––は、原子力産業の歴史によって正しいことが証明された。大規模な公共的議論の功績を、ひとはゴアレーベン・プロジェクトをめぐる論争に即して判断することができる。ある専門家[25]の発言にしたがうなら、原子力産業はこの論争のおかげで適時に警告され、「大失敗」を逃れることができたのだと十分に考えられるのである。

数十億マルクもの金が関わる領域における決定は、対話的な真理の探究によってではなく、権力と利害に規定されるという事実は確かに残る。だが、核技術のような見通しがたい領域では、そもそも合理的に根拠づけられた利害が形作られるためにも公共的な議論が不可欠なのである。不十分な情報にもとづいて脆弱な利害同盟が形成される一方で、はるかに重要な利害がいかなる代弁者も見出さないという事例が、本書で描かれた原子力政策の歴史には数多く存在する。

個々の政治家や組織にとって、いまや核技術の全体は、事象の強制力によってあらゆるオルタナティヴが封鎖された領域になってしまっている。原子力政策を自由な行動の領域として理解することがそもそも可能だとするならば、それができるのはいまやより幅広い公衆〔公共〕(Öffentlichkeit)だけである。公衆〔公共〕がこのチャンスを活かすかどうかを予見することは、誰にもできない。しかし、そうした新たな方向づけによってのみ、核技術の安全性は可能かという問いに答えることができるであろう。––このことはすで現時点で言えるのである。

 

【訳者付記】

本稿はJoachim Radkau: Aufstieg und Krise der deutschen Atomwirtschaft 1945-1975. Verdrängte Alternativen in der Kerntechnik und der Ursprung der nulearen Kontroverse. Reinbek 1983の結論(Schluß: Ergebnisse und praktische Folgerungen)の日本語訳である。訳者による注記は[ ]内に、補足は〔 〕内に示した。なお英語やドイツ語では原子力エネルギーや原子力技術は通常、「核エネルギー」(nuclear energy、Kernenergie)および「核技術」(nuclear technology、Kerntechnik)と表記される。これを「原子力(エネルギー/技術)」と呼ぶことは、すでに軍事技術との結びつきを見えにくくする婉曲的な表現であり、問題がないとは言えない。したがって、本稿では一貫してKernenergieを「核エネルギー」、Kerntechnikを「核技術」と訳している。ちなみに「原子力」と訳されている語のドイツ語表現はAtomkraftである。

 


[1] Mullenbach, Civilian nuclear Power, 103f.; Dawson, Nuclear Power, 02ff., 260; Bupp/Derian, Light Water, 33; Sh. Novick, The Electric War, San Francisco 1976, 40.

[2] atomwirtschaft – atomtechnik (atw) 4, 1959 393.

[3] このことは当時、当事者たちによっても繰り返し述べられていた。 Vgl. atw 8, 963, 2; ebd. 9, 964, 2f. (Balke); 3377, ジーメンス社からヨアヒム・プレチュ宛(1966年11月9日)「政府と電力業界との現在の協力体制は、視野の広いエネルギー計画のコンセプトを欠いている。(・・・)開発における国と核研究センターと産業界のあいだの調整には、目指すべき方向の明確な設定が欠けている。」

[4] この点に関する要約として以下を参照。J. Radkau, Die Kalkulation des Unberechenbaren, in: Bll. für deutsche und internationale Politik, Jg. 1978, bes. 1463ff.; ders., Die Irrwege der Atomwirtschaft und die Lehren der Geschichte, in: Hallgarten/Radkau, Deutsche Industrie und Politik, TB-Ausgabe, Reinbek 1981, bes. 530ff.

[5] Shonfield. Geplanter Kapitalismus. Wirtschaftspolitik in Westeuropa und in den USA, Köln 1968, bes. 326ff.; allgemein H. A. Winkler (Hrsg.), Organisierter Kapitalismus, Göttingen 1974.

[6] 本研究でしばしば批判者として引用されたK・ルドツィンスキーとW・フィンケを参照のこと。D. Burn, The Political Economy of Nuclear Energy, London 1967; L. Beaton, Plutonium und Kernwaffen- Verbreitung, in: Atomzeitalter 1966, 92-97; O. Keck, Policymaking in a Nuclear Program, Lexiongton 1981.

[7] Deutscher Bundestag, 7. Wahlperiode, Innenausschuß, Anl. zu Prot. 114 (9. 6. 1976), bes. 19 und 25.

[8] Der Spiegel 22. 11. 1982, 71/76.

[9] J. Radkau, Szenenwechsel in der Kernenergie-Kontroverse, Neue Politische Literatur Jg. 1983, vor allem 31ff.

[10] 増殖炉建設の運営に対するMBB社による次の批判を参照。Risikoorientierte Analyse zum SNR (Schneller natriumgekühlter Reaktor) 300, Bericht der Forschungsgruppe Schneller Brüter e. V., München (Maz-Plank-Institut für Physik und Astrophysik) 1982.

[11] In: Zeit 14. 1. 1977.

[12] In: I. Lakatos/A. Musgrave (Hrsg.), Criticism and the Growth of Knowledge, Cambridge, 1970, 168.

[13] F. Münzinger, Ingieuneure, Berlin 1941, vor allem 11f., 107, 110, 199ff.

[14] Heisenberg, Der Teil und das Ganze, 274. ハンス・ベーテが報告するアインシュタインの発言もこれと似ている。「専門家とは、一度すべての誤りを経験した人間のことである。」In: L. Badash u. a. (Hrsg.), Reminiscences of Los Alamos, Dordrecht 1980, 81.

[15] A. C. Crombie, Von Augustinus bis Galilei (urspr. 1959), München 1977, 2.

[16] Bieber (Forschungsstätte der evangelischen Studiengemeinschaft 3), 117. ニーダーザクセン州首相エルンスト・アルプレヒトの以下の発言。In: Zeit 7. 10. 1977, 21.

[17] K・トラウベはそのように結論している。K. Traube, Müssen wir umschalten?; O. Ullrich, Technik und Herrschaft, Frankfurt 1977. トラウベとウルリヒは、彼らが共同で執筆した本(Billiger Atomstrom? Reinbek 1982)の中で、長期的な供給を志向するエネルギー政策一般を非合理的なものとみなしている。同様のより早い時期の発言として次を参照。Pesch, Staatliche Forschungs- und Entwicklungspolitik, 101.

[18] 注10を参照。

[19] H. Nowotny, Kernenergie: Gefahr oder Notwendigkeit?, 194f.; アメリカにおける最も印象的な事例は、Union of Concerned Scientistsの反ラスムセン報告である。ドイツ語版Die Risiken der Atomkraftwerke, Freiburg 1980.

[20] Die Zeit 27. 6. 1975, 32 (Weizsäcker); ebd., 25. 2. 1977, 1 (Th. Sommer).

[21] Novick, Electric War, 325.

[22] こうした根本的仮定は、トラウベとウルリヒの出版物に認められる(注17を参照)。同様の主張として次を参照。G. Picht, atw 17, 1972, 349. H・キチェルトもまた(著者との対話の中で)こうした洞察を彼の研究の核心とみなしている。

[23] P. Feyerabend, Wider den Methodenzwang. Skizze einer anarchistischen Erkenntnistheorie, Frankfurt 1976, 20.

[24] In: H.-H. Barnikel (Hrsg.), Probleme der wirtschaftlichen Konzentration, Darmstadt 975, 201.

[25] L・バーレオンの著者に対する発言(1980年3月7日)。

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