1月 182020
 

宮崎大祐監督の『TOURISM』(2019年公開)のパンフレットに寄稿した批評文の増補改訂版を「観光客の惑星のピースフルな夜に −『TOURISM』試論」として公開します。『TOURISM』のメインの劇場公開は終わってしまいましたが、これからも特集企画などで上映される機会があると思います。その際にはぜひご覧ください。映画だけでなく、他の領域でなされている多様なクリエーションと接続するいくつもの入り口を備えた魅力的な作品です。今年は宮崎監督の新作『VIDEOPHOBIA』が公開予定ということなので、そちらもどうぞお見逃しなく。

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1月 142020
 

雑誌『NOBODY』の恒例企画「2019年ベスト」に参加しました。
今年は昨年の映画に加えて2010年代の映画作品のベストも選出しています。
多彩なメンバーがいろいろな角度から作品を選んでコメントを寄せています。
ぜひご覧ください。

NOBODY 2019年ベスト

私のセレクションとコメントはこちらにも載せておきます。

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4月 032018
 

boidマガジンに映画評を寄稿しました。今回は宮崎大祐監督の『大和(カリフォルニア)』について書いています。本作は2018年4月7日より、新宿のK’s cinema を皮切りに全国6都市の映画館で順次公開されることになっています。米軍厚木基地の立地である大和市を舞台にしたこの作品は、日本とアメリカの関係を主題にした作品としてだけでなく、今日の地方都市の匿名的で貧しい風景と映画がいかに向き合うのかという点でも、ヒップホップの思想と音楽性を物語の中枢に導入する試みとしても、非常に野心的な作品になっています。
登録なしに無料で読むことができますので、ご一読いただけるとうれしいです。

『大和(カリフォルニア)』というタイトルは、単に実在する二つの場所の名称を組み合わせることで、日本とアメリカという二つの国の関係を示唆しているにすぎないのではない。私たちはむしろ、「大和(カリフォルニア)」という言葉を、この作品がはじめて切り開く未知の土地の名として理解すべきだろう。本作は米軍基地に隣接する都市に生きる若者たちのドキュメンタリー的なポートレートではない。この作品で宮崎監督が試みているのは、「大和」を「カリフォルニア」によって二重化することで解き放たれる「フィクションの力」に賭けることなのである。現実をフィクションによって二重化し、距離化することで、アイデンティティーと社会的プロファイリングの牢獄から登場人物を解放し、「ホーム」の経験を語る別のやり方を発見すること。これが『大和(カリフォルニア)』の挑戦であり、本作はそれに成功している。

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3月 212018
 

 京都みなみ会館の「さよなら興行」で青山真治監督の『名前のない森』が久方ぶりに上映されるということなので、かなり以前に書いた文章を発掘しました。すでに手元にもファイルがなかったので、Internet Archive の助けを借りてサルベージしました。

 この短文の批評は2002年に boid.net(旧サイト時代)に掲載された「ベルリン映画祭報告」の一部で、ちょうどベルリン留学中だった私は、フォーラム部門に出品されたこの作品の上映に駆けつけたのでした。そして1回見ただけの印象を頼りに深夜一気に書き下ろして、樋口さんにメールした記憶があります。
 なにしろ一度見てすぐに一息で書いた文章なので色々とアラもありますが、この作品の不思議な魅力には多少なりとも迫れていると思います。作品の観賞に資するところがあれば幸いです。

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3月 062018
 

かつてドイツ学術交流会(DAAD)の「友の会」の年報『ECHOS』に寄稿した小文のことを思い出したので蔵出しします。

この年報はDAAD東京事務所開設30周年を記念して、DAADの給費留学生としてドイツの大学に留学した人が自身の留学体験を振り返るという体裁の文章が集められた小冊子ですが、そこで私はベルリン・ジャンダルメンマルクトで体験した出来事について書いています。私が群集という主題に取り組むことになったきっかけのひとつです。ご笑覧ください。

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6月 182017
 

3月に続いて boid マガジンに映画評を寄稿しました。

今回取り上げたのは、昨年のカンヌ映画祭で大いに評判を呼び、国際的に批評的成功を収めたドイツ映画『ありがとう、トニ・エルドマン』(マーレン・アーデ監督)です。劇場公開前の掲載ということで、普段はまったく意に介さないのですが、一応ネタバレしないように配慮して書いています(少なくとも本人としては、そのつもりです)。私はこの見事な作品の根底に、gnadenlos あるいは knallhart というドイツ語で形容するのがふさわしい感触を得ました。それはコメディの外観によって巧みに隠された眼差しの厳しさです。今回のレビューはこの感触をめぐって書かれていますが、同時にこの作品を背後で支える「コンプリーツェン・フィルム」という制作会社のこと、そして近年のドイツ映画に観察される才能豊かな女性監督の台頭についても触れています。

『ありがとう、トニ・エルドマン』で、マーレン・アーデが断固として拒否していることがひとつある。それは改心と和解の物語を語ることである。家族との絆も人生の幸福も顧みることなく世界中を飛び回り、ビジネスエリートとしてのキャリアを追求している一人の女性が、突然生活に介入してきた父親との衝突を通して改心し、ついには家族の価値と人間らしさを取り戻すという物語。『ありがとう、トニ・エルドマン』は、そうした物語から最大限の距離を取ろうとする。この映画でイネスはまったく改心しない。彼女は彼女のままであり、父親の生きる世界と娘の生きる世界との懸隔が解消されることもない。この事実をアーデは誤解の余地のない仕方で観客に示している。イネスがマッキンゼーに転職し、シンガポールに移住する予定であることを、私たちは映画の最後で知るのである。
ここにいたって私たちは、『ありがとう、トニ・エルドマン』のもうひとつの容赦のなさに触れることになる。すなわち、父と娘の関係を見つめるマーレン・アーデの眼差しの容赦のなさに。父と娘の人生は、二人の人間の別々の人生であり、父親が何を望もうと勝手だが、それで娘の人生を変えることなどできはしない。父と娘が選びとったそれぞれの人生の軌跡がいつしか乖離し、二人の生きる世界が隔絶してしまうとき、彼らにできるのは、その事実を肯定することでしかない。父親が娘に与えたものがあり、娘が父親に与えたものもある。父と娘はそれを携えながら、それぞれの人生を歩むしかない。

有料のウェブマガジンの記事ではありますが、ご一読いただけると嬉しいです。

ちなみに同じ号に掲載されている青山真治監督の連載日記「宝ヶ池の沈まぬ亀」が素晴らしい読みごたえです。この日記を読むためだけでも十分に講読の価値があると思います。是非。

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4月 212017
 

表象文化論学会の学会誌『表象』11号に書評を寄稿しました。竹峰義和氏の著書『〈救済〉のメーディウム––ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)の内容を紹介しつつ、若干のコメントを加えています。(学会誌の書評ということで、少し生真面目に書きすぎたかな・・・という気も。)

本書はフランクフルト学派の展開を思想家の系譜(ベンヤミン、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、ハバーマス、ホネット等)に基づいて概観する従来のアプローチとは明確に一線を画し、ベンヤミン、アドルノ、クルーゲが形作る−−思想史と映画史の境界を横断する−−布置のもとで、フランクフルト学派の思考のアクチュアリティを探求しています。なぜひとはアドルノの文化産業論に今なおムキになって反論せずにはいられないのかという問題をアドルノのテクストに仕組まれたレトリカルな戦略の分析を通して考察する一章も痛快ですが、個人的には、ベンヤミンの複製技術論文の緻密な読解に大いに刺激を受けました。 repre11

また現在も精力的に活動を継続している映画作家アレクサンダー・クルーゲの広範な仕事についての議論を日本語環境に本格的に導入した点も、本書の功績に挙げられるでしょう。同様に重要かつユニークなドイツの映画作家ハルーン・ファロッキの仕事は、日本でもそこそこ紹介されていますが、クルーゲの多面的な活動の全貌はいまだ未知の大陸にとどまっています。この本をきっかけにして、日本でもクルーゲの仕事への関心が高まり、作品を見ることのできる機会が増えていくと良いと思います。

なお今号の『表象』から、私も編集委員の一人として編集作業に関わっています。特集から投稿論文、書評まで、非常に中身の濃い充実した内容になっていますので、お手にとっていただけると幸いです。

3月 182017
 

このたび boid マガジンに空族の最新作『バンコクナイツ』(富田克也監督)のレビューを寄稿しました。 少し風変わりなタイトルですが、「理解すること」の問題性、「理解しないこと」のポテンシャルという観点からこの作品を考察しています。

空族の映画の力は世界を理解しないことにある。空族にとって、このクソのような世界を「理解する」ことは、それ自体ですでに「同意する」ことを意味しており、断じて受け入れることのできない事柄である。「グローバル化した現代世界は理解するのが難しい。普通の人々にも理解できるように、エリートは平明な言葉でグローバル化の恩恵を説明すべきだ」。世界各地でポピュリズムが台頭するのを目の当たりにして、多くの人々がそう語っている。しかし事実はまったく逆なのだ。私たちはあまりにも簡単にすべてを理解してしまう。そして理解することで、同意を与えてしてしまう。この世界がクソであることの原因の一端は、私たちがあまりに「物分かりがよい」ことにある。だとすれば、「世界を理解しない力」を獲得することは、このクソである世界を変える第一歩になるはずだ。何事も140字もあれば説明可能だとみなされている現代では、世界を理解しないことのほうがはるかに難しい。世界を理解しないでいること。それは怠惰であるどころか、途方もない量の労働と、思考のエネルギーを必要とする。空族の実践が示しているのはそのことである。

このレビューでは空族の映画実践への私なりの見方も示していますので、空族論としても読めると思います。関西圏での公開はこれからになります。ぜひ映画館でご覧になっていただきたい作品です。有料のウェブマガジンの配信記事となりますが、ご一読いただけると嬉しいです。ちなみにboid マガジンには空族の『バンコクナイツ』撮影日誌「潜行一千里」(全44回)も連載されていますので、そちらもぜひ。

5月 302016
 

東京でエリック・ロメール監督の特集上映「ロメールと女たち」が始まりました。
今回上映されるのは『コレクションする女』、『モード家の一夜』、『クレールの膝』、『海辺のポーリーヌ』、『満月の夜』、『緑の光線』、『レネットとミラベル/四つの冒険』、『友達の恋人』の6本で、このうち5本は大阪、京都、神戸でも上映予定があるようです。

というわけで2010年に執筆したロメール作品についての論考を蔵出しします。

野生の映画/映画の野生

ここでは今回上映される『レネットとミラベル/四つの冒険』と『緑の光線』を含む4作品について「野生」という切り口から考察しています。ちなみにこの論考が掲載されたnobody33号では、『ハッピーアワー』の濱口竜介監督をはじめ多彩な書き手がロメール作品を論じていますので、今回の特集の副読本にちょうどいいかもしれません。ジャン=マルク・ラランヌの講演も再録されてます。

6月にはアンスティチュ・フランスの特集上映でもロメール作品が数本上映されるようですし、新しい観客がロメール映画の魅力を発見する機会になればよいですねー。  

1月 152016
 

nobody2016東京では昨年末に公開され、関西ではこれから公開になるアルノー・デプレシャンの新作『あの頃エッフェル塔の下で』について、批評的な文章(「美しき廃墟の前で」)を雑誌『nobody』最新号に寄稿しました。

この作品は国内外の映画批評家が選ぶ2015年のベストテンにもたびたび登場した秀作ですが、デプレシャンのこれまでの映画作りのエッセンスを凝縮したような、とても魅力的な作品になっています。私の論考ではデプレシャンの初期作品(特に『魂を救え!』と『そして僕は恋をする』)と関係づけならが、この作品が描き出す豊かな時間のイメージを考察しています。

なお今号のnobodyではデプレシャンの新作とならんで、濱口竜介監督の『ハッピーアワー』、鈴木卓爾監督の『ジョギング渡り鳥』、そして21世紀のマノエル・ド・オリヴェリラ作品(『アンジェリカの微笑み』ほか)が特集されています。いずれも関西では現在上映中、またはこれから公開の作品ばかりです。まだすべて読んだわけではありませんが、読みどころの多い充実した記事がならんでいます。 ぜひ鑑賞のお供にお手にとっていただけると幸いです。

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