10月 292019
 

2019年7月7日(日)に京都大学で開催された第14回表象文化論学会でのパネル発表「ベルリン、大都市のポリフォニー──群衆の夢/個の記憶」の報告が掲載されています。私はコメンテーターとして参加しました。報告は山口庸子先生(名古屋大学)が執筆しています。

パネル報告「ベルリン、大都市のポリフォニー──群衆の夢/個の記憶」

ご覧ください。

9月 082018
 

sousho102015年度に開催された大阪市立大学国際学術シンポジウム「文化接触のコンテクストとコンフリクト EU諸地域における環境・生活圏・都市」の発表と議論をもとにした論集が刊行されました。

本書では、トランスナショナルな人・モノ・情報の移動が常態化した世界のなかで、人々が場所と取り結ぶ関係が複雑化・複層化し、コミュニティが断片化していくとき、いかなる共生の可能性をなお見出すことができるのかを、「共同生活圏」という概念を切り口にして、歴史的な視野から考察しています。

私は第1部に収録されたヨアヒム・ラートカウ氏の講演「古い都市と森林 持続可能性の隠された諸起源」の翻訳と、第2部「〈合同生活圏〉 共生か敵対か?」の解題執筆を担当しています。

出版社ウェブサイト

ご関心のおありの方はお手に取っていただけると幸いです。

 

4月 202018
 

このたび標題のタイトルを持つ論文を執筆しました。本論文は大阪市立大学都市文化研究センターによる研究プロジェクト「伝統芸能の近代化とメディア環境」の成果物です。

「弁天座の谷崎潤一郎 昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論」(PDF)

私は5年ほど前から、現在のメディア環境の中にある人形浄瑠璃のあり方に関心を持ち、少しずつですが研究を進めてきました。私の人形浄瑠璃への関心は、大きく言うと二つの問いに分けられます。ひとつは、今日のメディア環境に慣れ親しんだ観客に対して、現在の文楽専門劇場で上演される人形浄瑠璃は、いかなる視聴覚的経験を提供しているのかという問いであり、人形浄瑠璃という語り物の劇の視聴覚的構造をめぐるメディア美学的考察です。そして、もうひとつの問いは、そうした近代以降の視聴覚的メディア環境に慣れ親しんだ(そして義太夫の音曲的側面には疎遠な)観客の出現をめぐる歴史的考察であり、とりわけ近代の大都市とメディアの経験によって形作られる感受性(モダニティの感受性)を内面化した「新しい(無知な)観客」と人形浄瑠璃の出会いを跡づけることを試みています。

今回の論文は後者の問題関心に根ざした試論で、御霊文楽座焼失と四ツ橋文楽座の開場のあいだ、道頓堀の弁天座で文楽座が興行した昭和初年の数年間を、人形浄瑠璃の近代における重要な移行期とみなし、その当時姿を現しつつあった「新しい観客」と人形浄瑠璃との出会いをモダニティの観点から考察しています。本論では谷崎潤一郎を弁天座時代に人形浄瑠璃を発見した「新しい観客」の(必ずしも典型的ではない)一事例として検討しています。(ちなみに前者の問題関心に根ざした論文は、現在、適当な発表媒体を探し中です。)

追記 ファイルへのリンクを機関リポジトリに変更しました。(2018年6月6日)

3月 192018
 

大阪大学美学研究室が出している雑誌『a+a 美学研究』(第12号)に論文を寄稿しました。本号の『a+a 美学研究』では、「シアトロクラシー 観客の美学と政治学」という標題のもと、思想、演劇、オペラ、映画、アートにおける観客の問題を考察する刺激的な論考が集められています。

「観客の支配」を意味する「シアトロクラシー」(テアトロクラティア)という言葉は、もともと古代ギリシアの歌舞において、古くから伝承された決まりが守られるべきか、それとも観客大衆の楽しみを優先して新たな実験がなされるべきかという争いのなかで生まれた。哲学者プラトンは、歌舞における伝統の否定としての「シアトロクラシー」から、政治における権威の否定としての「デモクラシー」が生まれたと論じている。つまり「シアトロクラシー」とは「観客」という集合的存在を通じて芸術と政治とを架橋する概念であり、近代において、ルソー、ニーチェ、ベンヤミンらのテクストのなかで潜在的・顕在的に重要な役割を果たし、現代の哲学者たちによってあらためて注目されている。はたして「観客」であるということは、幻影に惑わされ無力化されることを意味するのか、それとも「観客」であることのうちには自由へのポテンシャルが含まれるのか、ということがこの言葉によって問われている。(

a+a12私の論文(「大衆をほぐす」− シアトロクラシーと映画(館))では、従来、演劇との関係で議論されることの多かったシアトロクラシーの問いを、映画(館)とその観客をめぐる考察に導入することが試みられています。クリストフ・メンケによるシアトロクラシーと(政治の)美学化をめぐる議論を確認したのち、ユリアーネ・レーベンティッシュが提起した「美学化批判の批判」あるいは「シアトロクラシーの批判的擁護」を取り上げ、その議論に含まれる観客の概念を明確化します。そのうえで、本論では、ヴァルター・ベンヤミンとミリアム・ハンセンによる映画館とその観客の考察を検討することで、映画の観客に備わる政治的ポテンシャルについて考えています。

目次はこちら

この雑誌は一般書店で販売されています(たとえば、紀伊国屋書店)ので、お手にとっていただけると幸いです。

5月 172017
 

このたび大学の紀要に「群集の行動とディスポゼッションの理論 −ヴァイマル共和国時代の群集表象の批判的再検討にむけて−」というタイトルの論文(研究報告)を執筆しました。これは私が従来から取り組んでいるヴァイマル共和国時代の群集をめぐる言説史的研究に関連し、その理論的枠組をアップデートするために書かれたものです。近年、世界各地の都市で展開した新しいタイプの抗議運動を背景として、人々の「共同行動」や集団のパフォーマンスをめぐる理論的考察が活性化していますが、この論考ではそうした近年の理論的動向から特にジュディス・バトラーの「集会」(assembly)と「蜂起」(uprising)をめぐる考察を取り上げ、そこで提出されている理論的枠組や視座が、ヴァイマル共和国時代の群集をめぐる言説の分析にいかなる寄与をなしうるのかを検討しています。

あくまでも予備的な考察という位置づけの論考ですが、ご笑覧いただけると幸いです。

群集の行動とディスポゼッションの理論(機関リポジトリ)  

4月 012015
 

本論文では、スペインの映画作家ペドロ・アルモドバルの二本の初期作品に描かれる都市の表象を「映画都市」(cinematic city)の観点から考察しています。「映画都市」とは、映画における都市表象の研究において、特に2000 年以降盛んに議論されるようになった概念ですが、映画と都市との多面的な結びつきを考えるにあたって有益な観点を提出しています。この論文ではまずアルモドバルとマドリードの関係を概観した後に、映画都市の概念を検討し、それをアルモドバルの初期作品に登場する都市の表象の分析に援用することによって、それらの作品に見られる映画と都市経験の結びつきを具体的に考察することを試みています。『表現文化』第9号所収、36-67頁、2015年。

〈映画都市〉としてのマドリード −アルモドバルの初期作品における都市表象をめぐって−(PDF)

3月 312015
 

このたび『都市文化研究』第17号に標題のようなタイトルの論文が掲載されました。これは大阪市立大学文学部創立60周年記念シンポジウム「市大文学部と〈都市文化研究〉再考」で行った発表をベースにした論考です。大阪市立大学文学研究科(文学部)における「都市文化研究」への重点化の歩みをグローバルに進行する高等教育の構造変化と人文学の危機という文脈の中で考察しています。「エクセレンスの大学」(ビル・レディングズ)、日本とドイツにおけるエクセレンスの追求の政策的展開、人文学の危機と「リスクをはらんだ思考」(ハンス・ウルリヒ・グンブレヒト)といった論点を扱っていますので、ご関心をお持ちの方はご一読いただけると光栄です。

エクセレンスの大学、人文学、都市(PDF)

追記 2018年6月18日 リンク先を機関リポジトリに変更しました。

12月 272014
 

大学の授業で用いる教材として、アドルノの英語論文 "On Popular Music" を訳出しました。この論文はStudies in Philosophy and Social Science に1941年に発表された論文ですが、成立時期が『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章に近く、そこで論じられている主題の多くがここでも扱われています。しかもそれらの主題が特定の対象(「ポピュラー音楽」)に即してかなり具体的かつ詳細に論じられているので、『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章よりもアドルノの考えを理解しやすくなっています。さらに元々英語で発表されたためか、アドルノの文章としては異例なほど平明で、ストレートに書かれています。こうした点から学部生が文化産業論を学ぶには好適な文章です。(実はもうひとつアドルノが晩年に書いたRésumé über Kulturindustrie という文章もあるのですが未邦訳です。こちらもいずれ時間があれば訳出したいと考えています。)

周知の通り、この論文についてはすでに平凡社から翻訳が出ています。ただ残念ながら、そこでは非常に込み入った訳文になっており、原文の平明さが失われてしまっています。そこで今回、授業用に訳出する時間ができましたので、ここに公開する次第です。おそらく全国の大学には文化産業論やポピュラー音楽を講じる先生や、それについて学びたい学生がかなりいるのではないかと思い、ウェブ公開することにしました。ただし、著作権的に問題ありなのは明らかですので、著作権者から抗議があれば、公開は中止します。なお英語原文はこのサイトで全文公開されています。

ウェブ版ではアドルノが言及している音楽について、YouYube の動画へのリンクを埋め込んでいます。アドルノがこの論考を執筆したとき、どんな音楽が鳴っていたのかを垣間見れると思います。PDF版にはリンクはありません。
<追記>一部の楽曲へのリンク切れを修正しました。(2016. 01. 10)
<追記>訳文を一部手直ししました。(2016. 11. 14)
<追記>楽曲へのリンク切れを修復しました。(2018.11.13)

「ポピュラー音楽について」(ウェブ版、2016年11月14日一部修正)

「ポピュラー音楽について」(PDF版、2016年11月14日一部修正)  

1月 302014
 

私が運営に関わっている研究&若手派遣プログラムで研究会を企画しました。
ご関心をお持ちの方はお気軽にご参加ください。

第4回「合同生活圏研究会」セミナー

移動とアイデンティティ: 「移民文学」とトランスローカルな経験の諸相

日時:2014年2月22日(土)14時〜17時
場所:大阪市立大学文学部棟1階128室
※申込不要、入場無料

<プログラム概要>TranslocalImage 21世紀に入りますます進展するグローバル化とともに、かつて自明であった文化と場所との一義的な結びつきは急速に失われつつあります。ますます多くの人々が日々の生活のなかで「複数の場所との結婚」(ウルリヒ・ベック)を遂行し、多くの場所を移動しながら生活しています。そうした複数の場所との結びつきが生み出す対立や葛藤、アイデンティティの複雑化は、これまで移民文学の伝統的な主題でした。しかし、いまやそれが多くの人々によって共有される経験となる状況が生まれていると言えるでしょう。また他方では、グローバル化の進展がもたらした国民国家や国民文学という枠組みの相対化は、移民文学それ自体のあり方にも大きな変化を生じさせています。今回のセミナーでは、ドイツ語圏およびフランス語圏の移民文学を研究されているお二人の優れた研究者をお招きし、今日の移民文学が描き出すトランスカルチュラルな経験の諸相を議論します。

《続きを読む》

7月 062012
 

自然と権力このたびドイツの環境史家ヨアヒム・ラートカウの『自然と権力』をみすず書房から翻訳出版しました。ドイツ近代史家の森田直子さんとの共訳です。この日本語版では、ドイツ語初版(2000年)を底本にしつつ、英語版(2008年)でなされた主要な改訂も反映し、さらに日本の環境史を論じた一節と序言、あとがきを書き下ろしで収録しています。したがって、ほとんど改訂版に近い内容です。

"原子力、気候変動、食の不安、生殖のテクノロジー・・・。現在、いたるところで環境が政治の課題となり、人間の自然との関わりが権力の行使と結びついている。だが、自然と権力の結びつきは20世紀後半に初めて成立したのではない。本書は、多様な地域と時代をめぐり、グローバルな構造とローカルな特異性を照らし合わせながら、自然と権力の関係の歴史的展開を論じている。人間と自然のハイブリッドな諸結合の組織化、解体の過程を緻密に描き出し、環境への眼差を一新する環境史の試みである。"(裏表紙より)

エコロジストとアンチ・エコロジストを等しく挑発するラートカウの環境史を、ひとりでも多くの読者に味わっていただきたいと思います。

目次などの書籍情報はみすず書房のサイトをご覧ください。

本書を紹介する小文を以下に掲載します。ほぼ同じものが出版社のサイト(上記)にも掲載されています。

続きを読む