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Dowser 精密で野蛮な音楽機械:長嶌寛幸インタビュー

「この作品(「テレコーマ」)で何がやりたいのかって考えたとき、まず〈魂がなくて精密で野蛮なもの〉がやりたいんだと思った」 「魂がなくて精密で野蛮な」音楽-破壊的であると同時にどこまでも明晰で、機械的であるとともに身体的なDowser =長嶌寛幸の音楽を、これ以上正確に形容する言葉は見当たらない。Dowser が作り出す音響世界では、人は記憶を喪失し、いかなる物語も意味も欠いたまま瞬間ごとに現れては消えてゆく音の鮮烈な軌跡を追うことしかできない。

Dowser は長嶌寛幸によるソロプロジェクトである。長嶌の名は、とりわけ石井聰互とのコラボレーション ––『エンジェル・ダスト』のサウンドトラックと1987年から 1995年にわたって行われた映画と音楽のライヴ上映の試み –– によって知られている。「ライヴ上映は僕が石井さんにテープ送ったのがきっかけで、大阪で上映会があったときに、一緒になんかやろうよということで始まったんです。『エンジェル・ダスト』のサウンドトラックのときは、用意してた曲が直前に全部ボツになって、時間もないので僕がスタジオで断片みたなものを急いで作り、それを映画用に切り出していったという感じでした。あの頃は街の持っているノイズみたいなものにはまってて、いかに音楽的でないマテリアルを使って音楽的なものをというか、音空間を成立させるかみたいなところで考えてましたね。」 長嶌が『エンジェル・ダスト』のために作った音は、シーンの意味を規定したり、登場人物の感情との同一化を促すような映画音楽でも、虚構の本当らしさに奉仕する効果音(SE)でもなかった。それは音楽でもSEでもない「音」であり、外部にある異物として映像に介入していた。このフィルムの音は登場人物の意識ではなく、不可視の無意識を物質的に形象化していたと言ってもよいだろう。

この音と無意識との結びつきは、Dowser =長嶌寛幸の音楽の作曲プロセスそのものにすでに埋め込まれているのかもしれない。「僕はコンピュータを使って音楽を作っていますが、僕にとってコンピュータというのは無意識の記憶装置というか、無意識の抽出機なんです。プレーヤー、つまり楽器ができる人の場合、意識-無意識の狭間でいろんなことができますよね。思わず弾いてしまったとか・・・。特にジャズのインプロヴィゼーションがそうですね。その場合、一音一音割り出していくと、それはその人の手癖とか、いままで聴いてきた音楽とかの積み上げであって、それが場合によっては軋んだりとか、うまく構築できたりとかするわけだけど、僕はまったく弾けない人間なんではじめからそういう演奏行為と切れているんです。僕はコンピュータが出てこないと音楽できなかった人間なんですよ。一番最初の楽器がシンセサイザーで、それも鍵盤を弾くというよりも、スイッチを連続して押していくっていう感覚です。それでコンピュータのいいところは、やったこと全部憶えてるってことなんです。だからとりあえず弾いていくと、機械がやったことすべて覚えてて、後からそのテンポを速くしたり、音色を変えたりすることができる。すると自分が弾いたつもりじゃないものがどんどん生まれてくるわけです。作曲のプロセスがたえずフィードバックされることによって曲の方向性もどんどん変わっていく。だから、エンターテイメント性に富んだチャンス・オペレーションとも言えますね。演奏者が時間の中で自分で音を記憶しているというのとは違って、一度コンピュータに全部落として、それをまたこちら側へフィードバックするという仕方で、意識と無意識との間、人間と機械との間をたえず行ったり来たりしながら作っていく。ただ、そういう作曲の作業をしていると、どんどん人間がコンピュータの方に近づいていって、マン・マシーン化していくっていうことはことはあるんじゃないかな。」

Dowser =長嶌寛幸のアルバム「テレコーマ」で聴くことができるのは、このマン・マシーンが弾き出す強靭かつ繊細な音の数々である。Dowser はジャンルの境界を疾走し、音楽とノイズのあいだを往復する-長嶌はそれを「巨像を盲人が撫でる音楽」と呼ぶ。「巨像というのはいままで存在してきた音楽のジャンルですね。しかも僕の中ではたぶん巨像の方には本質はない。巨像は表面だけ。その巨像を知ることが目的じゃなくて、触っていかにおもしろいか。」パンク、ロック、ジャズ、ファンク、テクノ、電子音楽-多様なジャンルのフィギュールが同じ平面上で重ねられ、音楽とノイズのあいだで「魂がなくて精密で野蛮な音」へと生成するのである。だが、「魂がない」とはどういうことなのだろうか。「魂がないっていうのはコンピュータで作ってるということじゃない。それは他人がいらない状態というか、一人で世界に立ち向かうぞっていう意志みたいなものなのかもしれない。」長嶌寛幸の音楽は、限りなく拡散していく音をかろうじてみずからの身体に繋ぎとめつつ、それを音が充満する世界なかで屹立させようとする。「僕の音楽はすごくいびつなんだと思う。だけどそのいびつな部分がたぶん音楽あるいは世界への愛だと思うんですよ。美学じゃなくてリアルで音楽を作ってるんです。」

「組んでみたい映画作家は?」という問いに、長嶌は「日本なら青山真治、海外ならラース・フォン・トリアー」と答えた。僕たちは近い未来に長嶌寛幸の音楽が世界と向かい合う映画作家たちの映像と遭遇することを待望しよう。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』No.25、勁草書房、1998年9月)

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