『EM EMBALMING』

『EUREKA』のラストでカメラが阿蘇の上空に舞い上がり旋回しながら広大なパースペクティヴを提示するとき、フィルムはあたかも世界の広がりをみずからのうちに閉じ込めようとしているかのようにみずからの輪郭を押し広げる。だが『EUREKA』というフィルムのスケールの大きさはもちろん突然変異的に獲得されたものではない。『EUREKA』の後半、中古のバスを買い込んだ沢井(役所広司)は、兄妹を乗せて行く先もわからぬ旅に出発する際に、沢井を連続通り魔事件の犯人ではないかといまだに疑っている刑事に向かって、「自分のやり方を見つけるのは時間がかかるんですね」というようなことを言うのだが、青山真治が『EUREKA』の方法を見出し、あのほとんど神々しいまでのラストシーンにたどり着くまでにも膨大な時間を必要とした。そして、––– これは『EUREKA』を見た後ではじめて言いえることなのだが –––『EM EMBALMIG』というフィルムは、この『EUREKA』への道程において重要な意味をもつ「実験」であった。

『EUREKA』には二本の小さなドキュメンタリー(『JUNE 12, 1998 ― at the edge of chaos カオスの縁』、『路地へ 中上健次の残したフィルム』)と一本のフィクション(『EM EMBALMIG』)が先行している。この三本のフィルムは、それぞれまったく異なる対象・主題を扱っていながらも、いずれも『EUREKA』に繋がる実験であったということができるだろう。

『カオスの縁』で私たちが見るものは、クリス・カトラーが楽器をセッティングする一連の作業であり、そのときセッティングされた楽器の配置が実際の演奏の中で絶えず変化していく様子である。カメラはセッティングの作業をも含めた演奏行為の中でいかに音が生み出されていくのかを注視する。その際、監督自身がインタビューで語っている通り、このフィルムはカトラーの演奏行為がはらんでいる不安定性を肯定し、受け入れる。それは一方ではフィルムの全体的な構成が無数の微細な出来事の集積のなかに失われる危険をはらんでいたのだが、他方では眼前の出来事にフィルムが限りなく接近するという幸運がそこに賭けられてもいたのである。

『カオスの縁』とは対照的に、青山真治は『路地へ』において、無限の距離に直面した。それはまず第一に空間的な距離として現れる。したがってこのフィルムはひとつの旅の記録となる(あのいつ終わるとも知れぬ移動撮影!)。しかしそれはまた時間的な距離でもある。『カオスの縁』ではカメラの前にカトラーがいて、そこで音楽が生み出されていたのだが、『路地へ』ではカメラの前には路地はなく、路地について語った作家もすでにこの世を去っている。だがこの時間的な距離は、中上が撮ったフィルムが挿入されるとき克服されるのではないだろうか? そこでは現在は失われた路地が再び私たちの眼前に現れているのではないだろうか? 『路地へ』の映画作家は中上の自筆原稿を撮影することでこの問いに答えている。時間的な距離はこのフィルムにおいて克服されない、それはもうひとつの、より克服しがたい距離 ––– つまり映像と言葉との間の絶対的な隔たり ––– に移行するだけなのだ。青山真治はこのフィルムで映像の永遠の他者として言葉を見出している。

『EM EMBALMING』というフィルムは、上述した二本のドキュメンタリーにおける方向性の異なる探求を映画についてのひとつの考察のなかに含んでいる。というのも、このフィルムはあるエンバーマーの物語であると同時に映画についての映画でもあるからである。フィルムの冒頭のナレーションにおいてエンバーミングの起源は古代エジプトのミイラ制作の技術であると語られるが、アンドレ・バザンの理論以来、映画映像はしばしばミイラ的なものであると指摘されてきた。バザンはドキュメンタリーを論じた小さなエッセイにおいて、「映画とは失われた時を見出してそれをよりよく失うための技術である」と書いていたが、これはこのフィルムにおけるエンバーミングの定義そのものである。事実、このフィルムにとって本質的なのはこの「技術」をめぐる問い、死の「演出」をめぐる問いである。エンバーマー村上美弥子(高島礼子)とビルから落ちて死んだ由樹(松尾政寿)の頭を持ち去った少女(三輪ひとみ)との対立は、演出する者とそれを拒む者との葛藤なのだ。したがって、このフィルムで死体がエンバーミング処理されるプロセスが詳細に描写されるのも、それが演出の作業である以上、当然である。このエンバーミング作業を描く一連のシーンは、出来事の推移を追う眼差しの執拗さにおいて『カオスの縁』に通じている。そして、この映画を映画についてのひとつの考察とみなすならば、ばらばらになった肉体の断片を継ぎ合わせてひとつの身体を作り直すエンバーミングの作業とは、イメージを結びつけてひとつの物語を語る映画作家の作業とみなすことも可能である。事実、アメリカ映画的なナレーションから始まるこの映画で際立っているのは、そのような語りへの志向でもある。

だが『EM EMBALMING』というフィルムが楕円であり、そこにはもうひとつ別の中心があることも見逃されてはならないだろう。ただしこの中心は映像によっては提示されえず、ただ言葉によって名指されることしかできない。つまり、このフィルムにおいて、エンバーミングという「演出」の技術は、つねに「永遠」と対置されているのである。『EM EMBALMING』の全体は、「演出」と「永遠」という両極の間に構成されている。美弥子はエンバーミングを死者を永遠に生前の姿に保つ技術だとみなす周囲の誤解を繰り返し訂正するが、「永遠」という概念を拒否してはいない。エンバーミングという「演出」の技術の目的は、「永遠」に到達することではない。「永遠」は「演出」の彼岸にとどまりつづける。ここでこのフィルムは『路地へ』において見出された踏破しがたい距離を再発見していると言えるだろう。

『EM EMBALMING』はそのフォルムと物語の両面において、映画における演出の作業を考察している。このフィルムに見出される物事の推移を詳細に描く演出の作業とそれでもなお到達しがたいものとの緊張関係が、『EUREKA』の全体を満たしていることは明らかだろう。その意味で、『EM EMBALMING』は『EUREKA』に直接結びつくささやかな、しかし重要な実験であったといえるのである。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.31、勁草書房、2001年2月)

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