群集と〈交通〉
ヴァイマル共和国中期における群集論の変容

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1. 1923/24 年 ––– 群集をめぐる言説の転回点

 ヴァイマル共和国についての歴史記述では、1923年末から1924年初頭の時期に共和国の政治的・経済的・社会的発展における重要な節目をみることが、ほぼ定説となっている。第一次世界大戦直後に起こったドイツ革命(1918年11月)とその後の混乱、新憲法の発布(1919年)、義勇軍(Freikorps)と当時呼ばれた反革命武装組織のメンバーによる元財務大臣マティアス・エルツベガー(1921 年)および外務大臣ヴァルター・ラーテナウ(1922 年)の暗殺、さらにフランス・ベルギー軍によるルール占領(1923年1月)とその後の「受動的抵抗」政策によって引き起こされた想像を絶するインフレーション(通貨危機)にいたるまで、1918年から1923年にかけてドイツ社会は政治的、経済的に激しく揺さぶられ続け、過激化した共産党(KPD)と極右勢力によって議会制民主主義は危機に晒されつづけた。そんな状況の中、1923年11月、バイエルンの右翼勢力が画策していた「ベルリン進軍」(Marsch auf Berlin)から国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が排除されていることに気がついたヒトラーは、機先を制して暴動を起こす(Hitler-Putsch)。しかし、結果的には、この試みがあっけなく失敗に終わったことにより、NSDAPは最後まで許容されていたバイエルン州でもついに禁止され、これを機に右翼の反共和制運動は一時的に勢力を失うことになった。また他方では、同じ1923年11月に導入されたレンテンマルク(Rentenmark)によって、インフレーションも急速に終息にむかい始める。そして、1924年4月に発表され、8月末に議会で承認されたドーズ・プランは、賠償金の支払いをドイツの経済的発展と連動させることによってアメリカからの大量の投資資金流入を促進し、以後経済復興が急速に進むことになる。このような事態の推移を考慮するとき、1923/24年の冬を境にヴァイマル共和国は最大の危機を乗り切り、つかの間の、そしてうわべだけの安定期に入ったとみることは、十分可能であろう。(1)

 興味深いことに、群集(Masse)(2) をめぐる言説においても、このような社会状況の変化にほぼ対応する形で、言説の理論的な枠組みの変容が見出される。しかしながら、共和国初期の数年間に書かれたテクストと1920 年代半ば以降のそれとの間に見出される理論的布置の変化は、科学史の分野で用いられる「パラダイム・チェンジ」という概念で規定できるほど、首尾一貫した、根底的なものではない。新即物主義文学を論じた著作の中でヘルムート・レーテンは、「〔ヴァイマル〕共和国の十年間は、その枠組みのうちで均質的なイメージが成立しうるような完結した地平を有してはいない」と述べ、1920年代の言説空間を「混合空間」(Mischraum)として特徴づけているが、(3) 群集をめぐる20年代の言説においてもこのことが当てはまる。つまり、ここで問題になっているのは、ある一時期に生み出される言説のさまざまな理論的選択肢それ自体を規定するパラダイムの根底的な変化というよりはむしろ、群集をめぐる思考のいくつかの側面のうち、ある部分が1920年代半ばを境に背景に退き、別の部分が前景化してくるという事態である。言いかえれば、ヴァイマル共和国の初期には群集をめぐる考察の中心を占めていた群集体験の一側面が、20 年代半ばには背景に退き、別の側面が群集の考察を規定するようになるのである。しかし、その場合にも、初期の言説の問題設定は背景にとどまりつづけており、完全に姿を消してしまったわけではない。その証拠に、ヴァイマル共和国末期には、初期の言説と中期の言説の理論的枠組みと問題設定をもう一度とりあげ、その両者をともに脱構築しようと目論む新たな言説が登場することになる。

 以上の点を踏まえて、1920年代中頃に生じたと思われる群集をめぐる言説の理論的枠組みの変容を簡潔に特徴づけるならば、それは「革命的・忘我的群集」(revolutionär-ekstatische Masse)から「技術的・機能的群集」(technisch-funktionale Masse)への群集概念の変容と呼ぶことができる。エルンスト・トラーの戯曲『群集 人間 Masse Mensch』(1920)、パウル・ティリヒの哲学的論考「精神と群集 Geist und Masse」(1922)、ヘルマン・ブロッホのエッセイ「街路 Die Straße」(1918)、さらにはテオドール・ガイガーの社会学的著作『群集とその行動 Die Masse und ihre Aktion』(1926)などのテクストの根底には、ドイツ革命の日々に出現した群集の体験が根底にあり、それらの言説においては、その理論的アプローチの違いにもかかわらず、群集はつねに既存の秩序の破壊を志向するがゆえに革命的であるだけなく、同時にまた忘我体験(Ekstase)がなされる場でもあるとされた。(4) そこで忘我あるいはエクスタシーと呼ばれた経験の核心は、のちにカネッティが正確に指摘したように、群集のなかで「私」と「他者」との間の距離と境界が消滅することにある。(5) そして、そのような群集体験においては、他者との境界とともにすべての社会的分化(soziale Ausdifferenzierung)もまた消滅するがゆえに、群集体験は既存の秩序を揺るがす革命的な体験でもありえたのだった。たとえば、パウル・ティリヒはいま言及した論考の中で、「大衆の深淵において蠢いているのは、すべての形式に先行する魂の生の予感である」と指摘し、この予感は「忘我的であり革命的だ」と述べている。(6)

 それにたいして、1920年代の半ば以降に支配的になる群集をめぐる言説 ––– その代表はクラカウアー、ヤスパース、ハイデガー、デーブリーンらの著作である ––– においては、20年代の「安定期」に開花した大都市文化とマスメディアの経験がその根底にある。そこにおいては、群集はむしろ非政治的な存在であり、近代技術やマスメディアの機能的なシステムと深い親和性を持つものとして理解される。「革命的・忘我的群集」の言説において、群集にはつねに否定的な集団的意志が、つまり行動の集団的主体というステータスが付与されていたのにたいして、「技術的・機能的群集」の言説は群集のうちにいかなる集団的意志も、したがってまた、いかなる主体性も認めることはない。また前者の言説が、群集体験の忘我的性格ゆえに群集を非合理的なもの、ときには、未開状態への退行とさえみなしていたとするなら、後者の言説においては、群集はむしろ技術的合理性(technische Rationalität)によって特徴づけられることになる。

 筆者はすでに前者のタイプの言説については別の機会に詳しく論じているので、(7) 本論では後者のタイプの言説に焦点を絞り、いくつかの具体例の分析を通してその諸特徴の考察を試みたい。そのさい、本論では「技術的・機能的大衆」をめぐる言説に共通する(社会的現実の)知覚モデルとして、〈交通〉(Verkehr)に注目することになる。


(1) ヴァイマル共和国の代表的な歴史記述としては、たとえば、次を参照。Hans Mommsen: Aufstieg und Untergang der Republik von Weimar. 1918-1933. München: Econ Ullstein 2001. S. 219ff.

(2) 本論では、若干の紛らわしさはあるものの、ドイツ語圏の群集論の特徴である Masse と Menge という概念の厳格な区別と『大辞林 第二版』(三省堂)における定義を考慮し、一貫して Masse を「群集」(「社会学・心理学では、共通の関心と 目的のもとに(不特定多数の人間が)一時的・非組織的に集合した集団で、日常の行動規範からはずれた行動をとりやすいものをいう。」)と表記し、Menge を「群衆」(「むらがり集まった多くの人々。」)と表記することにする。また、Masse の語 源および概念史については、次を参照のこと。„Masse“ In: Deutsches Wörterbuch von Jakob Grimm u. Peter Grimm. Zwölfter Band 1. Abteilung. Leipzig (Verlag von S. Hirzel), 1956. E. Pankoke: „Masse Massen“. In: Historisches Wörterbuch der Philosophie, hrsg. von Joachim Ritter u. Karlfried Gründer. Basel Stuttgart (Schwabe & Co AG.), 1980, S. 826ff. Johannes Chr. Papalekas: „Masse“ in: Handwörterbuch der Sozialwissenschaften, Göttingen (Vandenhoeck & Ruprecht) u.a., 1961, S. 220ff.

(3) Helmut Lethen: Verhaltenslehre der Kälte. Lebensversuche zwischen den Kriegen. Frankfurt am Main: Suhrkamp 1994. S. 49.

(4) このタイプの群集をめぐる言説のより詳細な分析としては、次の拙論を参照のこと。Takeshi Ebine: Ekstasis. Zum Massendiskurs in der Weimarer Republik. In: Neue Beiträge zur Germanistik, Band 3 Heft1. München (Indicium Verlag) 2004, S. 164-182.

(5) Vgl. Elias Canetti: Masse und Macht. Frankfurt am Main (Fischer Taschenbuch) 1980, S. 16.

(6) Paul Tillich: Masse und Geist. Studien zur Phisolophie der Masse. In: Writings in Social Philosophy and Ethics. Berlin u. New York / Stuttgart (de Gruyter/ Evangelisches Verlagswerk) 1988, S. 55.

(7) Vgl. Takeshi Ebine: Ekstasis. Zum Massendiskurs in der Weimarer Republik.


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