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『復活』
タヴィアーニ兄弟による愛の新世紀

開巻冒頭、ほとんど雲のない青空を映し出したカメラはゆっくりとしたティルトから右方向へのパンへ移行し、量感のある殺風景な監獄の壁を映し出す。監獄はおそらく河岸に建っているのだろう、その壁には川面に反射されたと思われる光がほの明るく揺れているのだが、その灰色の石の塊にぽっかりと開いた窓のひとつへとカメラがズームしていくと、一匹の蝶がひらひらと羽をはためかせながらその空洞へと彷徨いこむのが見える。次に場面が監獄内に移ると、そこではクレーン撮影の揺れながらもどこまでも滑らかに動くカメラが、あたかもひらひらと飛び回る蝶の視点ショットのように空中を舞いながら、監獄に暮らす女囚たちを映し出す。ほとんど半裸で呆然と一点を見つめつづける者、ベッドに横になる妊婦、手を繋ぎあって遊ぶ子供達。小さな娘の身を引き寄せ、病床に臥せっている女が、蝶を見つける。すると他の女囚たちはいっせいに蝶を捕まえようし、獄中は大変な騒ぎになる。しかし、結局、蝶は入ってきた時と同様の軽やかさで再び監獄の窓から外の世界へと飛び去っていってしまい、後には女囚たちが暗い監獄に取り残されるのだった。

この騒ぎのなか、毒殺の容疑で収監されていたカチューシャはひとりタバコを吹かし、無関心を決め込んでいたのだが、看守に呼ばれ法廷に出廷するために監獄の外へと連れ出される。久しぶりの戸外の空気と日の光とを感じつつ舗道を歩む彼女は、黄色に塗られた壁をもつ家の傍らを通り過ぎる。ここでカメラは監獄のときと同様に、パンしながらその家の窓のひとつを映し出すのだが、そこには金属の見事な装飾が施されている。続いて場面は再び室内に移り、移動ショットの連鎖によって、お茶とお菓子を載せて運ばれていくお盆、整然と並べられた靴とシャツ、時計やカフスボタンのコレクションが示され、それらコレクションからひとつを選び集めて行く何者かの手が映される。そしてこの一連のショットの最後で私たちが見出すことになるのは、濃紺のガウンに身を包み、ごてごてとしたカーテンが掛かった明るい部屋で、大きな緞帳付きベッドに横たわるネフリュードフの姿である。

『復活』の冒頭に置かれ、相対応するショット構成をもつこれら二つのシークエンスは、監禁状態にある二人の人物をフィルムに導入する。一見、何不自由ない生活を送っているようにみえるネフリュードフは、有り余る財産(高価な家具調度)にとりかこまれ、モードと礼節の規則を尊重し(上質な衣類、靴、装身具)、享楽に耽り(高級な食器に載ったお茶とケーキ)、社交と雑事に日々を追われている(時計)。一方、カチューシャは、財産の管理とも社交とも礼節とも縁はないが、そのかわりに無為と文字通りの不自由のなかで生きることを強制されており、彼女にはあの蝶が持つような軽やかな自由は許されていない。もちろん、このフィルムの冒頭では、ネフリュードフはまだ彼の属する上流社会の生活を監獄のようには感じていない。自分の生活と周囲の人々を見る彼の眼差しが変わり、彼がそれらをみずからを閉じ込め堕落させる監獄のように感じ始めるのは、彼が陪審席で、娼婦へと身をやつし、いまや殺人犯として告訴されるにいたったカチューシャの姿を目の当たりにした時である。冒頭の二つのシークエンスを繋ぐものが、二人の兵士によって法廷へとカチューシャが護送されるというシーンであったことを思い出せば、このフィルムで最初に二人を結びつけるものが、市民社会の官僚的法秩序(監獄および司法制度)であったことがわかるはずだ。このようにして、トルストイの原作のもつ基本構造がほぼ正確にフィルムにも導入される。というのも、トルストイの『復活』とは、恋愛小説である前に、「脱出」(exodus)の物語であったからである。ありうべき「復活」のときはこの「脱出」の成就によってはじめて訪れる。上流階級の堕落した世界からの脱出、そして、監獄と娼婦という存在からの脱出、この二つの脱出の軌跡を、『復活』は描き出す。そのさい、男はみずからが犯した罪を償い、貴族的生活を捨て去るために女を必要とし、女は不当にも強制された監獄生活と自らの売春婦としての過去からの解放のために男を必要とする。こうしてふたつの脱出の物語はひとつに絡み合う。

しかし、トルストイの原作では、二人の脱出の道程において、監獄と司法制度に対する闘争が彼らの関係の進展と同等かそれ以上の重みを持っており、そこにあらゆる権力による秩序を疑問に付す人間社会についてのラディカルな問い ––– たんなる被造物にすぎぬ人間が同じ人間を裁き罰するなどということがそもそもいかにして可能なのか? 人間同士を結びつけ、社会秩序を築くものは何か、法と刑罰による暴力か、あるいは愛か? ––– が結びついていたとするなら、タヴィアーニ兄弟の『復活』は、原作のこの問いかけに関わる部分をほぼ捨て去り、ネフリュードフとカチューシャとの関係をフィルムの中心に据える。このフィルムで切り返しショットの様々な変奏とその機能転換がになう演出上の重要な意義もそのようなタヴィアーニ兄弟の選択にもとづいている。彼らはそれらの手段を用いて、ネフリュードフとカチューシャとの間の距離の変容を明晰に描き出すことに成功している。

ここでは詳細に触れることはできないが、フィルムの前半にあるネフリュードフとカチューシャの対話場面では、切り返しは両者の心理的・身体的接近ではなく、もっぱら拒絶の身振りを示す手段として用いられている。たとえば、二人の最初の監獄での面会が「偽善者!」というカチューシャの叫びにいたる一連の切り返しで締めくくられていたことや、カチューシャがネフリュードフの尽力によって病院で働くことになったのち、彼が彼女のもとを訪れるシーンに見出されるズームと併用された切り返しショットを思い出せばよいだろう。後者では、接近の運動はカチューシャの「ありがとう。さようなら。」という台詞によってただちに失望へと導かれる。それにたいして、フィルムの後半では、そのような切り返しの機能が変容することになるのだが、タヴィアーニ兄弟はこの重要な演出上かつ物語上の転回点を、フィルムの中ほどにある面会シーンで的確に演出している。それは監獄病院での面会の場面で、その直前でカチューシャはある医者に強引に体を求められ、それを拒んだ結果ふたたび監房での生活に戻されてしまう。一方、ネフリュードフは、カチューシャが医者を誘惑しようとしたという噂を聞き、失望して面会にやってくる。そのさい、この切り返しショットの連鎖から構成されたシーンは、その冒頭と中ほどに挿入される、金網で区切られた通路を挟んで向かい合うカチューシャとネフリュードフの視線をとらえる二つの素早いパンによって二つの部分に分けられる。そして、その前半部分では、淫売婦を演じるカチューシャと冷淡さを誇示しつつけるネフリュードフとの間の距離が広がりつづけるのにたいして、後半部分ではパンに続く切り返しショットの連鎖のなかで、両者の距離は崩壊し、二人は演技を捨て去りそれぞれの真情を相手に告げることになる。カチューシャはネフリュードフへの愛ゆえの断念を語り、ネフリュードフはカチューシャへのかぎりない献身と贖罪の意志を伝える。こうしてひとつのシーンのなかで生起する切り返しショットの機能転換とともに、タヴィアーニ兄弟による『復活』がその輪郭をくっきりと示し始める。つまり、罪を償うことと愛することをめぐる物語はついにトルストイを離れ、独自の軌道を描き始めるのだ。

映画の終盤、駅のホームでカチューシャはネフリュードフに、彼の結婚の申し出を断り、彼のもとを去ることへの許しとそれまでの援助への感謝を述べる。ネフリュードフの助力無しには彼女は監獄を去り、ついには無実を勝ち取ることもできなかったが、彼の贖罪の試み ––– 彼女との結婚 ––– はまた彼女を過去の羞恥へといつまでも結びつける。ネフリュードフは罪を償うことと愛することとを混同しているのだ。カチューシャは彼のもとを去り、彼の贖罪の試みに終止符を打つことで、彼をこの混同から救い出そうとする。愛は贖罪が終わるところにのみ始まる。一人残されたネフリュードフはモスクワ行きの列車を待つものの、彼が脱出することを望んだ世界へと舞い戻ることを拒否し、駅を離れ一人雪原へと踏み出していく。20世紀の始まりを祝おうと村人たちの集まる小屋に招かれたネフリュードフは、口々に新しい世紀への希望を唱える村人たちの一人に、彼の希望を訪ねられる。「愛する人との幸せを」 ––– そう彼は答えるのだが、まさにこの瞬間にはじめて、彼はみずからの混同に気がつき、愛することを学び始める。カチューシャを失ったときにはじめて、この喪失の痛みとともに彼は愛することを理解するのだ。希望を口にするネフリュードフのカットに、列車の窓から外の暗闇を見つめるカチューシャのカットが続き、一種の想像的な切り返しショットが成立し、最後に、雪原を走り去る列車のショットに、「20世紀」という字幕が重ねられる。こうして提示されるタヴィアーニ兄弟の「愛の新世紀」がはなはだ曖昧模糊としたものにとどまるのは確かだとしても、『復活』を甘い悲恋の物語としてではなく、愛することへと到達する過酷な道のりとして映像化したタヴィアーニ兄弟の功績は認められるべきだろう。

(初出:『映画芸術』、405号、編集プロダクション映芸、2003年10月。本稿では若干の変更が加えられています。)

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