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映画を脅かす不可視の影
– スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』

生きながらすでに巨匠の名声を確固たるもとしていた芸術家には決して珍しいことではないのだが、キューブリックの遺作もまた、すでに彼の作品を細部にいたるまで味わい尽くす術を心得ていると信じていた観客たちを困惑のなかに取り残すことになった。筆者は残念ながらそうした彼のフィルムの良き観客の一人ではないのだが、彼らの困惑は理解できる。その困惑は、キューブリック自身がみずからの「最高傑作」だと語っているにもかかわらず、遺作に作家の徴 ––– 映像のフォルムと細部への異常なまでの執着、技術的な実験性、明晰極まりない狂気の造形化など ––– をみてとれないことにあるのだが、この困惑を否定して、「この作品はキューブリックの新作ではなく、何よりもまず、単純に偉大な映画なのだ」と開き直ってみせる批評よりは、困惑を隠さぬほうが誠実な態度であるには違いない。一本の作品が「映画」であるがゆえに偉大であると判定する批評は当然、「映画(であること)」をひとつの価値とみなしている。しかし、メディア・テクノロジーの進展によって映画の表象形式としての歴史性と限界が日々明らかになりつつある現在、映画という価値それ自体をその外部との関係性において問う作業を欠いては、批評はその価値の基礎をなす映画史へ無自覚に内属し、その結果、映画史そのものへの視点をも欠くことになるだろう。一方、『アイズ・ワイド・シャット』を前にして困惑した観客たちは、おそらく、彼らが愛してきたキューブリックの「映画」が、このフィルムにおいて脅かされていると感じていたのだ。そして、筆者の考えでは、そのとき彼らはキューブリックの新作の重要な部分に触れている。というのも、私には、キューブリックはこのフィルムにおいて、まさにこれまで「映画」を ––– さしあたり映画一般をではなく、彼の映画を ––– 脅かしてつづけてきたものと正面から向かい合っていると思えるからである。

映画の冒頭、タイトルとキャストの間に挿入されたショットは、何秒間続いたのだろうか。この短いショットにおいて、カメラに背を向けて立つ女は、赤いドレスだったように思うが衣服をはらりと床に脱ぎ捨て、見る者に一瞬、裸身をさらす。この映像は、その乾いた強度においてラストシーンで女が口にする「ファック(fuck)」という言葉と響きあっているのだが、それはまた、このフィルムでこれから起こる出来事を凝縮してもいる。

さきほど私は「見る者」と書いたが、いったいこの映像を見ているのは誰なのか。それは女の夫ビル(トム・クルーズ)であり、カメラの後ろに立つ映画作家であり、また、可能性としては、劇場でスクリーンを見つめている観客でもありうる。しかし、肝心なことは、見ているのはつねに男であるということだ(この意味では、女性の観客はこのフィルムに参画することを拒まれている)。というのも、キューブリックの映画とは男の映画であり、彼のフィルムを導くのはつねに男性の眼差しだからである。たとえば、男二人とコンピュータを載せた宇宙船が宇宙空間をさまよう『2001年宇宙の旅』や『フルメタルジャケット』のような戦争・軍隊映画を考えてみれば、そのことは明らかだろう。彼のフィルムがつねに男性を主人公にしていることは偶然ではないのだ。

しかし、キューブリックのフィルムが男性の視線によって導かれているということは、その作品世界から女性が排除されているということを意味しない。彼のフィルムには、女性はつねに登場する ––– 狂気にとらわれた夫によって一方的に迫害される『シャイニング』の妻の場合のように、男の行動の対象あるいは標的として。しかし、『シャイニング』において、そもそも男を狂気へと追いやったもの、すなわち建築物(ホテル)そのもののもつ陰惨な過去の記憶が、双子の姉妹のイメージに凝縮されていたように、『2001年宇宙の旅』においても、男たちの冒険は、有名なラストシーンを想起すれば疑いの余地のないことだが、むしろ女性的なもの(モノリスを人間に贈った存在)に挑発され、導かれていた。つまり、キューブリックのフィルムにおいては、つねに男は女に脅かされ、挑発されるがゆえに、女を捕捉しようと試みることになるのである。これがキューブリック的人物の冒険であり、『時計仕掛けのオレンジ』に登場する白塗りの女たちが家具調度となっているあのバーを満たしていたのが、キューブリック的男性のファンタスムである。そして、そのような数々の冒険のなかでも、『フルメタルジャケット』の最後にある戦闘シーンがとりわけ忘れがたいのは、それが女を捕捉することと撮影=映像化することとを内在的に結びつけていたからである。戦場に行ってから気が狂ったりしないようにあらかじめ狂気のシュミレーションを十分にこなしてきた兵士たちは、一人の女スナイパーによって生存を脅かされる。男たちはこの不可視の存在の居場所を突き止め、女の息の根を止めようとするのだが、ここでは不可視の女を映像として捕捉する瞬間は彼女を射殺する瞬間と正確に一致する。死に瀕した女はいまや息も絶え絶えに「私を射殺=撮影せよ(Shoot me! )」と繰り返すだろう。女の執拗な求めに屈して男が彼女に銃を乱射した後、それを見ていた兵士たちは口々に「ひでえ(hard-core)」と呟くのだが、このとき彼らはまさにキューブリックのフィルムの核心(hardcore) に触れていたといえる。

したがって、キューブリックが『アイズ・ワイド・シャット』の冒頭に置いたショットは、彼のフィルムの根底にある力学を形象化しているのであり、この力学そのものが、いまやフィルムの主題となっているのだ。キューブリックにとって、映画とは男性機械であり、女がこの機械の遂行する表象=映像化の対象なのだが、彼女はつねに表象機械を挑発しつつそれから逃れ去る存在であり続ける。そのことを、冒頭の、カメラに背を向けた女のショットは鮮やかに提示しているのである(ここでモノリスのことを想起してもよいだろう。未知の存在が送りつけたあの物体のなにものをも映し出すことのない黒い表面は映画にとっての異物、それによってはじめて映像が可能になるような非=映像そのものではないだろうか。映像ならざるものの影としてのモノリス)。

夢とも現実とも判別しかねる夫の異様な体験とともに、妻の夢をも同じ重みを持って詳細に語るシュニッツラーの原作とは対照的に、キューブリックはこのフィルムを一貫してビルの視点から構成している。というのも、このフィルムの主人公ビルは表象機械だからである。後に確認するように、このフィルムにおいて、映像はつねに彼を経由して私たちのもとに届くことになる。とりあえずこのフィルムの物語を最も簡潔に要約するならば、妻が他者として現れる、ということになるだろう。すべてはある夏の旅の記憶を語る妻の言葉から始まる。この言葉を聞きながら、ビルは自分の眼前にいる妻が突如他者として現れたことに衝撃を受ける。そして、彼の夜の彷徨が始まるのだが、このとき彼にとって問題なのは、自分がその記憶を共有していないある出来事のために、いままで明確な輪郭に収まっていた妻(女)の映像が失われたことであり、それによって彼の世界が解体の危機に瀕していることである。いまや彼は欠落した映像(実現しなかった妻の浮気の映像)を、そして失われた映像(かつての妻=女の映像)を取り戻そうとする。彼の彷徨は女の映像を探し求める旅となる。

私たちは、この彷徨の過程でビルが体験したことを見ることはできるが、アリス(ニコール・キッドマン)が彼女を魅了した男について想像したことや夢の中で体験したことは見ることはできない。それらはただ語られるだけだ。キューブリックが断固としてそれらを映像化することを拒んでいるのだ。したがって、アリスの体験に関して私たちが見ることができるのは、フラッシュバックによって示されるビルの想像した映像だけだということになるだろう。だが、私の考えでは、アリスの体験の映像化はじつはもうひとつある。アリスが語る乱交の夢は、ビルの仮装パーティーの体験を通して、ずらされつつ、映像化されていると考えることもできるからである。いずれにせよ、このフィルムにおいて、女(アリス)は言葉を操る存在であり、表象し映像化するのは男(ビル)でなければならないのだ。また、フラッシュバックによって示される映像の不完全さと凡庸さも、意図されたものである。というのも、まさに映像の不完全さと凡庸さが、女が映像=表象から逃れ去る存在であることを告げることになるのだから。

夜の彷徨においてビルを待ち受けているもの、それはつねに女性である。彼は出会う女性たちをそのつど鮮明な映像として捕捉しようとする。ところが、彼女たちはつねに彼にとって不透明な存在でありつづけ、逆に彼に対して、自分たちが彼の想像しているものとは異なる存在であることを、つまり彼がつねに女性を捕捉し損なっていることを暴露する。あの邸宅での謎の仮装パーティーでは、参加者全員が着けている仮面のせいで人物は不透明な存在となる。にもかかわらず、ビルには女性たちの正体を見極めることができないのに、彼の正体はひとりの女性に簡単に見破られてしまう。ビルは彼を助けようとするこの女性に仮面を取り、正体を明かすように頼むが断られ、結局逆に彼自身が仮面を脱ぐ羽目になる(ちなみに、このパーティーの儀式のシーンにおいて、キューブリックのフィルムに特有の滑るようなカメラの移動、あの目的地を欠いた迷宮の軌跡をえがく運動が純粋な円運動として実現されている)。だが、不透明なのは仮装パーティーで乱交に溺れる女たちだけではない。患者の家では父親の死の床のまえで娘に突然言い寄られ、貸衣装屋ではガラスの向こう側に、少女と女装趣味の東洋人が現れる。ビルは衣装を返すときに、例の少女がいまや父親公認の売春婦となって働いていることを知って言葉を失う。また、ビルが街角で拾ったある娼婦はHIV感染者であったのだが、彼はそれに気づかず、後でそれを彼女の友人から聞いて胸をなでおろすことになるだろう。つまり、ビルには女性が見えていないのだ。男性=表象機械は女性の前に敗北しつづけるのである。

キューブリックは、このフィルムにおいて、おそらくこれまでのすべての作品の負の中心をなしてきたもの、彼の映画の対象であるとともにつねに他者でありつづけたものを、作品の中心に置いた。それはこれまで、女性的なものの圏内に属する様々な形象によって、隠喩的に提示されてきたものであるが、本来、映画という、キューブリックにとっては男性的な表象のシステムから逃れ去る「他なるもの」であり、「不可視の影」(ハイデガー)として映像に纏いつき表象のシステムを脅かすものだ。『アイズ・ワイド・シャット』はもはやこの他なるものを映像化しようとはしない。これまでのフィルムにおいて、キューブリック的男性たちは、ある時にはこの不可視の他なるものを求めて宇宙の果てまで乗り出して行き、またある時には生存を脅かすこの存在を血眼になって探し出そうとし、さらにはその呪縛から逃れるために洗脳までも試みさえした。そして、キューブリック自身もまた、それを対象として捕捉するために、撮影技術の絶えざる革新に没頭したのだった。ところが、このフィルムにおいては、この「他なるもの」はフィルムの最後に、簡潔に女(アリス)によって名指されるだけである。「ファック」(Fuck)––– これがキューブリックがみずからの映画の負の中心に見出したものである。「ファック」とはもちろん愛に満ちたセックスではないし(この言葉は、ビルが再び幸福な家族という失われた映画=フィクションを思い出しながら口にする「永遠」という言葉を拒絶しつつ語られるのだ)、官能的なセックスのことですらないのだろう(私たちがこのフィルムで見ることになるセックスは官能性を削ぎ落とされている)。そもそも妻に別の男と寝ることを夢見させたものもまた「ファック」なのだから、アリスの言葉は夫婦関係の修復を約束するものでもない。それはあらゆるファンタスムの彼方にある、醒めきった、ひょっとしたら恐ろしく散文的ななにかなのかもしれない。いずれにせよ、キューブリックはこの凡庸な夫婦の物語を撮ることによって、「不可視の影」としてみずからのフィルムを脅かし続けてきた「他なるもの」に最後のフィルムを捧げたのであり、映画という眼差しがみずからのうちに孕む明察と盲目の弁証法をそのタイトルによって指し示すこのフィルムによって、みずからのフィルモグラフィーに欠けていた終章を見事に書き上たのである。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.29、勁草書房、2000年1月)

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