エリック・ロメールによる「テクストの撮影」
『O侯爵夫人』/『ペルスヴァル・ル・ガロワ 聖杯伝説』

『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』は、文学作品の映画化の大胆な試みである。文学作品を映画化することはその物語やテーマを映像によって再現することではなく、テクストをその物質的な厚みにおいて解明していくことであるということは、ストローブ=ユイレの『アメリカ』や『アンティゴネ』のような作品からから私たちが学んだことのひとつだ。たとえば、『アメリカ』では、カフカのテクストが、より厳密には一つ一つの文章の統辞構造が、精密かつ独特な仕方でいくつかのブロックに区切られ、さらにそれらの言葉のブロックが同様に精密な映像のフレーミングおよびモンタージュと組み合わせられることで、カフカのテクストを織りあげている諸力の関係(「階級関係」)や多義性が鮮明に浮かび上がってくる。ロメールの『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』は、その狙いは異なるとしても、映画と文学作品との関係において、ストローブ=ユイレの作品と通じ合っている。

つまり、ロメールもまた文学作品の映画化において、つねにテクストの近くにとどまろうとする。ロメールは『O侯爵夫人』について、「クライストとのテクストを一語一語追っていくことが、この映画化のライトモティーフである」と書き、シナリオはクライストのテクストを切り貼りして作ったと語っている。事実、たとえば、この作品の冒頭の料亭のシーンで男たちがO侯爵夫人について語り合うシーンは、クライストの原作の一節を、書き換えることなく何人かの登場人物に配分することで成り立っている。そして、テクストを尊重するロメールの姿勢は、みずからクレチアン・ド・トロワの中世フランス語を半現代語訳して登場人物たちにしゃべらせている『聖杯伝説』ではより鮮明になっているといえる。

だが、ともに原作のテクストをフィルムの最も重要な対象としているといっても、『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』とでは、テクストと映画との関係がはっきり異なっている。『O侯爵夫人』の場合、テクストがみずからのうちにすでに映画をはらんでいて、ロメールはクライストのテクストのなかにすでに潜在していた映画をただ現実化しているだけであるかのように事態は進行する。クライストのドイツ語の特徴の一つは、厳格であると同時にときには破格をも辞さない非常に入り組んだ複雑な文構造である。クライストのテクストでは、主文と副文がつくる大きな構文のあちこちにたくさんの挿入句や関係代名詞節が挟み込まれているため、一つの文章のなかで主格の数が増殖し、しばしば複数の出来事が同時進行するのである。このようなテクストの特徴を示す箇所は、『O侯爵夫人』の冒頭で、O侯爵夫人の住む城館が戦闘に巻き込まれる一連の場面である。銃声が鳴り響くなか、司令官が部屋に入ってきて、「私はこんな戦闘時には家族などいないかのように振る舞う!」と宣言して出ていく、と同時に砲撃で窓ガラスが割れ、女たちは逃げまどい、慌てて砲声の轟く前庭に逃げたO侯爵夫人たちにロシア兵が襲いかかる、すると突然背後から「犬どもめ!」という声がして伯爵がさっそうと登場する…。ここでは細かく検討する余裕はないが、ロメールはこれらのシーンではなにもクライストのテクストにつけ加えていないと主張することさえできただろう。

『聖杯伝説』では、クレチアン・ド・トロワのテクストは映画を--少なくともクライストのテクストに含まれていたような映画--を含んではいない。それゆえ、ロメールの演出も、テクストを尊重する限りにおいて、『O侯爵夫人』とはほとんど正反対のものにならざるを得ない。『O侯爵夫人』が蝋燭の光や自然光に照らされた室内空間の色彩の微妙なニュアンスを繊細に捉え、空間的な奥行きを活用していたとするなら、『聖杯伝説』では、色彩は平板化され、パースペクティヴは意図的に狂わされ、空間的な奥行きは徹底して廃棄される。安っぽい金色の、画一的にデザインされた「城」とブリキ製の木がまばらに並んだ「森」からなるこの作品の舞台装置は完全にレアリスムを排している –– テクストがまさにそれを要求しているのである。そして、この作品のテクストの扱いもまた、『O侯爵夫人』とは全く異なっている。『O侯爵夫人』では、間接話法で書かれた原作の台詞を直接話法に書き換えることによって、映画の台詞の多くが作られていたが、『聖杯伝説』では、ロメールはクレチアン・ド・トロワの半現代語訳されたテクストをほばそのまま登場人物にしゃべらせている。つまり、人物は自分のことを三人称で語るのである。愛の場面では、この方法は最大の異化効果をもたらす。主人公の一人ゴーヴァンは「彼は彼女にキスした。そして彼は彼女に永遠の愛を誓った」と言いながらある王の妹にキスし、妹は「彼女はそれを拒まなかった」と語りながら彼のキスに応えるのである。『聖杯伝説』では、テクストの流れは映像の流れと平行線を描き続ける。私たちは決して完全には一致しない二つの流れを追うのであり、一方でド・トロワのテクストを聞きながら、他方でロメールの映像を見続ける。つまり、言葉と映像とのあいだの翻訳の過程に立ち会うのである。

ロメールの文学的なテクストへのこのような姿勢は、アンドレ・バザンの教えの忠実な実践でもある。バザンはブレッソンの『田舎司祭の日記』をめぐる考察において、この映画にとっての二つの現実性 –– 俳優たちの顔という「撮られた現実性」とベルナノスのテクストという「書かれた現実性」–– を指摘した上で、後者について「この場合、現実性とはテクストの記述的、道徳的および知的な内容ではなく、まさにテクストそれ自体、あるいはより適切にはその文体(スティル)なのである」と書いていた。『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』というフィルムは、クライストとド・トロワのスティルを鮮明に形象化しているのである。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.26、勁草書房、1999年11月)

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