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野生の映画/映画の野生

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C’est complètement sauvage.­­ ––– これは『レネットとミラベルの四つの冒険』(1986年)の最初のエピソード(「青の時間」)の冒頭で、古い納屋を改造したレネット(ジョエル・ミケル)の部屋に案内されたミラベル(ジェシカ・フォード)が、窓から見える景色にちらりと視線を投げながら口にする台詞である。日本語字幕では「完全に野生のまま」と訳されている。この場面で sauvage という言葉で形容されているのは、さしあたり、パリ暮らしのミラベルにとって新鮮な田舎の自然であろう。だが、この形容詞の適用範囲を、ここではさらに広げてみることも十分に可能である。なぜなら、ミラベルは、単なる都会の女の子として、この映画に登場するわけではないからだ。彼女は民族学を学ぶ大学生という設定なのである。この点に注目して映画の冒頭を見直してみるならば、あの御都合主義の極みのような出会いの場面は、二つの異なる文化に属する人間の遭遇を、大げさに言えば、文明人と未開人との遭遇を、描いていると言えるだろう。

実際、レネットが案内する自宅のキッチンの質素さは驚くばかりであり、彼女の暮らしぶりは、パリの都会生活を基準にすれば、ほとんどプリミティヴと言ってもいいくらいだ。また黒で固めたミラベルのファッショナブルな装いも、モードと一切無縁のレネットの身なりと著しいコントラストをなしている。自分の部屋に入るなりレネットは、名前を訊くよりも先に「いまなにしてるの?」とミラベルにたずねる。ミラベルはそれに対して「民族学を学んでるの」と答えるのだが、レネットには「民族」(ethnie)という言葉の意味がわからない。そこでミラベルは、ギリシア語の語源に遡って言葉の意味を説明してあげるのだ。そして、きわめつけは、レネットの描いている絵である。彼女の絵を見たミラベルは「シュルレアリスム風なのね」と感想を述べるが、レネットはシュルレアリスムのことなど全く聞いたことがないので、ただ戸惑ってしまう。20世紀もあと十数年を残すのみとなったこの時期に、シュルレアリスムを一切知らずにシュルレアリスム風絵画を堂々と描いているレネットは、その基本的教養の完全なる欠如ゆえに、「野蛮な」存在だと言えるだろう。この映画の冒頭で発せられたsauvageという言葉は、こうして映画の全体に波及していくことになる。もちろんレネットの絵は、たとえそれが「野蛮な」ものであろうとも、魅力を持たないわけではないし、映画の最後のエピソードでも描かれているように、無価値なものでもない。同様に、『レネットとミラベルの四つの冒険』におけるレネットの「野蛮さ」は、ときに不可解に見えるとしても、それ固有の思考とモラルと魅力を備えており、残り三つのエピソードでは、そんなレネットがパリに移り住むことで引き起こされる騒動が、二人の少女の冒険として描かれている。

手元の辞書によれば、sauvage には「野生の、未開の、荒涼とした、非社交的な、粗野な、残酷な、自然発生的な、無秩序な」などの意味があるとされる。都会人の現代的な風俗を軽妙かつ洗練されたタッチで描き出す映画作家というイメージの強いエリック・ロメールの作品に、sauvage なものの跋扈を見いだそうとするのは見当違いな試みだろうか? しかし、上述の『レネットとミラベル』のエピソード以外にも、少なくともいくつかの作品で、sauvage なものが重要な役割を果たしていることは紛れもない事実だ。その最たるものは、おそらく、『クレールの膝』で主人公を魅了した、少女の剥き出しの膝小僧だろう。この映画で主人公の男を魅惑したのは、あの年齢の少女の身体にだけ宿る無意識的な野生の美ではなかったか。また、そこに描かれたものの「野蛮さ」が問題になり、大いに論じられた作品として、『グレースと公爵』をあげることができる。この作品でロメールは、パリの街頭をうごめく群集を、栄光ある革命の担い手(歴史の主体)とはほど遠い、「野蛮で」「粗野な」烏合の衆として描いている。この映画で描かれるパリはまさに「野蛮なもの」の跋扈する「無秩序な」空間であり、それが主人公のイギリス人女性を脅かすのだ。だが、ロメールの映画において sauvage なものの力に脅かされる女性は、彼女だけではなかった。「荒涼とした」荒々しい自然と観光地で出会う人々の空虚で「粗野な」言葉の群れが、『緑の光線』の主人公マリーを脅かしていたことを思い出そう。他方、『聖杯伝説』では、最初、主人公がほとんど野蛮人同然の状態で登場してくる。この映画の冒頭、ファブリス・ルキーニ演じる青年は、森で初めて騎士の一団に出会ったさい、そのリーダーを神だと勘違いしてしまう。彼は相手の問いには耳を貸さず、不作法にも騎士の槍や鎧に手を伸ばし、「これは何か?」と問いかける。その後自分も騎士になるべく母親のもとを離れた青年は、教会だと勘違いして他人の天幕に侵入し、そこにいた少女に乱暴して指輪まで奪ってしまう。しかも彼は、みずからの犯したそのような不正を、全く自覚していないのだ。この青年は、それほどまでに野蛮なのである。映画は、この無知で粗野な青年が一人前の騎士へと成長する過程を描き出すことになるだろう。このエッセイでは、このように sauvage なもので結ばれた三つの作品 –––『聖杯伝説』、『緑の光線』、『グレースと公爵』––– を手短に考察してみたい。これら三つの作品は、sauvage なものの文化的世界への侵入によって引き起こされる動揺を描いているだけなのだろうか? むしろ映画それ自体が、これらの作品のなかで、飼いならされざる映画の野生に突き動かされているのではないだろうか?

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1978年に発表された『聖杯伝説』は、周知のように、12世紀の韻文物語作家クレチアン・ド・トロワによる未完の作品『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』の映画化である。クレチアン・ド・トロワの物語が描くのは、神秘に満ちた世界だ。王様がいて、お姫様がいて、騎士が活躍するだけではない。何もなかったところに突然城が出現したり、死んだはずの人物が再び姿を現したり、聖杯が何に照らされることもなく謎めいた光を放ったりする世界である。エリック・ロメールはそうした原作の物語世界を映画に翻訳しようとするのだが、そのさいロメールの関心を惹いているのは、単に不思議な物語それ自体ではない。ロメールが映画によって提示しようとしているもの、それは何よりもまず、クレチアン・ド・トロワの物語の根底にある「世界の見方」なのである。しかし、過ぎ去った時代に固有の「世界の見方」は、物語に物質的な形を与える媒介物の中にしか、探り当てることができない。ロメールが『聖杯伝説』を撮るにあたって、台詞の面では原作の言語を最大限に尊重し、映像面では中世のタペストリーや細密画に範を求めたのはそのためである。過ぎ去った時代の作品に描かれた世界を映画で再現することは、その時代に固有の世界への眼差しを再現することであり、したがって、直接対象に向かうのではなく、当時の人々の眼差しを保存したメディア(言語や絵画)から出発しなければならない。こうしたロメールの方法論は、『O侯爵夫人』や『グレースと公爵』でも不変である。

ではそうした作業によってどんな映画が生まれるのか。印象的な場面をひとつだけ取り上げてみよう。ペルスヴァル(ファブリス・ルキーニ)が一日森を歩いたあと、川辺で船に乗った漁夫王に出会い、夕食に招かれ、はじめて聖杯を目撃するくだりである。馬に乗ったペルスヴァルが青い背景の円形セットのなかを進んでいく。彼が通りすぎる「森」は、ブリキ製のように見える様式化されたデザインの「木」が並べられたものだ。岩に上がって漁夫王の言った方向を見ても城が見えなかったので降りようとしたとき、不意に金色の「城」が姿を現す。これらの「森」や「木」や「城」は、中世絵画に描かれたそれらと同様に、現実の空間に存在する対象を描写したものではなく、様式化され、慣習化された記号である。そして、「城」の出現は、途方もなく単純なディゾルブで表現されている。

こうした場面に出くわす観客は、ひどく困惑すると同時に深く魅了されずにはいない。というのも、それらの「木」や「城」は全くの作り物にしか見えず、そこに本当らしさは微塵も感じられないのだが、それにもかかわらず、その作り物っぽさに失望するまさに同じ瞬間に強力な幻想が生み出されていることも、認めざるを得ないからである。ファブリス・ルキーニが馬に跨がり、数個の「木」のオブジェの傍らを進んでいく。カメラはゆっくりとパンしながらその姿を追い、「騎士は休みなしに森を進む/一日中進んだが誰にも会わなかった」という歌声が、そこに重ねられる。このとき私たち観客は、スタジオセットの中を10メーターほど進むファブリス・ルキーニの姿が10秒足らずのパンショットによって提示されているのを意識するのだが、同時にまた、そのパンショットの10秒間がここでは一日に相当する時間の経過を意味しており、ひとつのパンの運動が森を抜けて歩む騎士の長い道程を描き出していることを知り、驚くのである。それが10秒/10メートルでしかないことを意識すればするほど、そこに生み出される一日/数キロメートルという幻想が、強烈なものとなる。このような映像の力は、映画がまだシネマ(モンタージュと物語を備えた映画)になる以前、シネマトグラフ(タブローの映画)と呼ばれていた時代に持っていた力に通じている。かつてトム・ガニングが指摘したように、リュミエールのラシオタ駅に到着する列車の映像に驚いた観客は、素朴に映像と現実を取り違えたのではなかった。それが映像でしかないことを知っていたがゆえに、それにもかかわらず生み出される運動のイリュージョンに驚愕したのである。ロメールがこの映画で、メリエスを思い起こさせるプリミティヴなトリック撮影を活用しているのは、おそらく偶然ではない。『聖杯伝説』は、中世騎士物語の世界を、シネマトグラフ的な幻想の力にもとづいて描き出しているのである。

言葉の面に眼を向けると、ロメールは韻文で書かれた中世フランス語のテクストにみずから手を入れ、韻文のリズムを尊重しながら現代語訳し、それをもとに台詞を作っている。漁夫王の城での晩餐の場面は、ロメールが原作に対して行った作業を垣間見させてくれる。クレチアン・ド・トロワの原文には会話はなく、すべて語り手の地の文によって語られている。それに対してロメールは、この場面で、ド・トロワのテクストを三つの声に割り振っている。男性のナレーション、女性のナレーション、そしてファブリス・ルキーニの台詞の三つである。男性のナレーションが原作の語り手による出来事の描写を担当しているのに対して、女性のナレーションは原作の中で語り手が描写の手を休め、出来事の進行に主観的なコメントを加える箇所で用いられている。そして、原作の語り手が主人公の心理を描写するところでは、ファブリス・ルキーニがその言葉を口にする。このことからわかるのは、『聖杯伝説』でロメールが行っている作業が、『O侯爵夫人』の作業とは全く異なっているということである。『O侯爵夫人』では、原作の間接話法を直接話法に書き換えることによって台詞が作られていた。それに対して、『聖杯伝説』の台詞は、厳密に言えば台詞ではなく、原作の語り手の視点の変化を際立たせる手段のひとつなのである。その点で、ナレーションと台詞に本質的な違いはない。結果として、ファブリス・ルキーニは、自分のことを三人称で語ることになる。『聖杯伝説』では、言葉と俳優、言葉と映像が分離されており、それらは距離を介して作用しあう。そして、それによって、上述した映像の力が、さらに増幅されるのである。

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ロメールのフィルモグラフィーのなかで『聖杯伝説』の対極に位置する作品は、『緑の光線』(1986年)だろう。両作品はいくつもの点で実に対照的である。『聖杯伝説』が比較的高額な予算で制作され、当然脚本もあり、リハーサルによって入念に準備され、すべてスタジオで撮影された作品だったのに対して、『緑の光線』にはあらかじめ書かれた台詞も台本も絵コンテもなく(ただしシーンの構成を書いたノートはあった)、ロメール自身も含めてわずか4人の技術スタッフによって、順撮り、同時録音、オールロケで撮影された。また、プロの俳優を使って撮影された『聖杯伝説』とは異なり、ロメールは『緑の光線』で多数の素人俳優を起用し、即興的な演出を試みている。さらに言えば、遠く過ぎ去った中世の物語世界を撮るにあたって対象とカメラの間にメディアを置き、そこから出発した『聖杯伝説』に対して、『緑の光線』は対象とカメラの間に入り込む媒介物をぎりぎりまで取り除き、〈いま〉の直接性に肉薄せんとしているようにみえる。だが、そのように対極的な両作品であるにもかかわらず、それらは、おそらくある一点で密接に結びついている。それは、シネマトグラフ的な映像の力の横溢という点である。『聖杯伝説』ではそれがメリエス的な幻想の力として現れていたとするなら、『緑の光線』ではカメラの前の生の律動を直截に記録するリュミエール的な映像の力が、あらゆる瞬間を満たしていたのだ。

いくつか場面を取り上げてみよう。ロメールの映画は、基本的に比較的短いショットをテンポよく連ねる編集の映画だが、『緑の光線』では例外的に、非常に長いワンシーン・ワンショットがいくつも見出される。そのなかで特に印象的なのは、友人に誘われて海岸の別荘に行ったデルフィーヌ(マリー・リヴィエール)が、そこに来ていた女の子に根掘り葉掘り詮索される場面である。デルフィーヌと女の子はカメラの正面を向いて並び立ち、カシスの実をつまんでいる。画面の上部には植物の枝が落ちかかり、まるでアーチのようである。そこで少女はデルフィーヌに向かって「彼氏いる?」、「なんで来ないの?」、「なんて名前?」、「いつか一緒に住むつもりなの?」と矢継ぎ早に質問を浴びせかけ、彼氏がいるかのように装うデルフィーヌを苛立たせるのだが、その合間にも少女は「ああ、虫に刺された!」と言っては顔をしかめ、時折カメラの方に視線を投げかけるのだ。また、風が吹くと周囲の植物の枝が激しく揺れて、二人の姿を隠してしまうこともある。

二人の人物を真正面からとらえたこの長いフィックスショットは、もちろん演出されている。構図はしっかり選ばれているし、その場面の主題や少女がする質問の内容も、かなりの程度まで決められていたはずだ。だが、それにもかかわらず、ここで映画作家は、カメラの前で起こる出来事をコントロールできる立場にいない。女の子がどんな間合いで、どんな口調で質問するのか、マリー・リヴィエールの答えに彼女はどう反応するのか、風がどのように木々を揺らし、光がどのように変化するのか、一言で言えば、カメラの前で何が起こるのか。この点に関するかぎり、映画作家は、観客に対してほんのわずかな優位性しか持っていない。映画作家は観客と無知を共有し、注意深く事態の推移を見つめるのである。そして、まさにそれゆえに、このショットはとても開放的なものになる。観客が何かを見るように強制されることはない。私たちはカシスの実を探す女の子の動きを追うこともできれば、だんだん余裕をなくしていくデルフィーヌの表情の変化を見ることもできるし、また風に揺れる緑色の葉を眺めることも許されている。リュミエール兄弟の映画でも、撮影者は構図を厳密に決めることができたし、実際に決めていた。しかし、それにもかかわらず、撮影者はカメラの前で起こることを完全にコントロールすることも予想することもできなかった。リュミエールの映像は、そのときカメラの前で生起した出来事を記録するだけだ。『緑の光線』のいま取り上げた場面では、そうしたリュミエール的な映像の力が、フィクションの中に回帰しているのである。カメラの前で、生の律動の直中から、フィクションが出来事として立ち上がる。『緑の光線』は、〈フィクションのドキュメンタリー〉である。女の子がカメラを何度直視しようとも映画がいささかも動揺しないのは、そのためだ。

もちろん『緑の光線』は、ワンシーン・ワンショットだけで出来ている映画ではない。むしろ『緑の光線』もまたモンタージュの映画であることを確認しておく必要がある。いま言及した場面の少し後にあるデルフィーヌの散歩の場面は、この映画全体を凝縮している。デルフィーヌは、どこというあてもなく道なりに歩いていくのだが、繰り返し行き止まりに突き当たってしまう。方向を変え、別の道に入っていっても、しばらく行くと柵で道が塞がれるのだ。この歩みは、一人のバカンスをパリで過ごすことから逃れるためにあちこち出かけていくものの、どこにいっても居場所を見つけられず、しばらくするとまたパリに舞い戻ってしまうデルフィーヌの行動そのものである。三度目に行き止まりに突き当たったとき、風の音が不意に大きくなる。柵の向こうの原っぱを示すデルフィーヌの視点ショットに続いて、揺れる木々、枝先、花々を示す断片的かつ不連続なショットが続く。もはやどこに行ってよいかわからず、立ち止まり、純粋に見て聴く存在となったデルフィーヌは、周囲の世界の荒涼としたざわめきと無秩序に脅かされ、涙を流す。この場面で私たちが見るのは、典型的にロッセリーニ的なモンタージュである。『緑の光線』はロメールの撮った最もロッセリーニ的な作品であるが、ロッセリーニのネオリアリズムは、モンタージュの拒否ではなく、映像のつなぎ間違いによってリュミエール的な映像の力を取り戻そうとしたのであった。

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最後に2001年に公開された『グレースと公爵』にもごく簡単に触れておこう。すでに最初に述べたように、この作品は公開されるや否や、その革命の描き方ゆえに物議を醸した。だが、この作品の真にスキャンダラスな点はそこにはない。革命的群集の描き方をめぐる論争は、おそらくフランス革命という出来事が ––– それを賛美するにせよ弾劾するにせよ ––– いまだ多くのフランス人にとって国民的アイデンティティの根幹をなす出来事であり続けており、フランソワ・フュレが30年以上前に述べていたように、「異邦人の目で革命を眺めることなど不可能である」ということを示すに過ぎない。だが、『グレースと公爵』が少なからぬ観客を深く動揺させたのは、その点ではなかった。その動揺は、ジャック・ランシエールが指摘したように、よりによってヌーヴェル・ヴァーグの巨匠がそこで映画のモデルニテと決別しているように見えたことに由来していた。『聖杯伝説』と『緑の光線』のなかに、シネマが飼いならすことに成功したかにみえる映画の野生 ––– シネマトグラフの力 ––– のはたらきを見出してきた私たちは、この点についてどんなことが言えるだろうか。

最初に確認できるのは、『グレースと公爵』が確かに『聖杯伝説』や『O公爵夫人』の系譜に連なる作品だということである。過去の世界を再現することは、過ぎ去った時代に固有の「世界の見方」を復元することであり、したがって、当時の人々の眼差しを保存したメディア ––– ここでは革命期の絵画 ––– が基礎に置かれねばならないという方法論は、『グレースと公爵』でも変化していないようにみえる。また、「原作がすでにシナリオのように書かれていた」というインタビューでのロメールの発言は、『O公爵夫人』の映画化のさいにクライストのテクストについて語られていた事柄と酷似してもいる。したがって、『グレースと公爵』のなかに変わらぬロメールの姿勢を見出すことは、可能である。

しかし、より厳密に考えるならば、『グレースと公爵』でロメールが行ったことと『聖杯伝説』でなされたことは、やはり異質である。というのも、『グレースと公爵』の戸外の場面で試みられているのは、『聖杯伝説』の場合のように絵画を参照して(非現実的な)セットを組み、その前で演技する俳優を撮影するということではなく、背景のないスタジオで撮影した俳優の動きを事後的に絵画的なデジタルイメージと合成することだからである。『聖杯伝説』では参照されたメディアと映画との間に存在していた距離が、ここでは消滅している。『グレースと公爵』の映像の多くは、撮影の段階では完成していない。それは事後的にモニター上で背景と合成されて初めて完成するのである。そのとき、俳優の写真的映像は、背景画像と同様のデジタルデータとして扱われ、いくらでも修正可能なものとなるのは言うまでもない。ロメールが『グレースと公爵』で行った実験は、デジタル映像をベースにした映画と絵画の再統合であり、レフ・マノヴィッチの言う「映画-眼から映画-筆」への移行だと言ってよい。しかし、ここでもやはり興味深いのは、ロメールが、デジタルイメージのメディア性を消去するのではなく、むしろそれを際立たせていることである。現在ハリウッドではまったく現実的な光景をデジタル合成することが一般化しているが、ロメールはそれとは別のデジタル映画の可能性を示唆している。ひょっとしたら私たちは、いままさに生まれつつある映画の野生の息遣いを、『グレースと公爵』のなかに感じとるべきなのかもしれない。

初出:nobody #33(2010)

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