テクストとフィルム、密輸される心臓
『侵入者』を撮るにあたって、クレール・ドゥニは、ジャン=リュック・ナンシーによって書かれた同名のエッセイから着想を得たという。着想を得るとは、この場合、とても厳密な意味をもっている。つまりそれはただひとつの物体、つまり心臓を、テクストからフィルムに、言葉から映像に移すことである。しかし、そうは言っても、言葉と映像はふたりの人間の免疫系のように異質なものなので、そうした移植は必然的に不法な密輸取引となる。テクストからフィルムに密輸される心臓、それがドナーとレシピエントのように両者を結びつける。フィルムは国境検問所で密輸品の入った小包が摘発される場面とともに幕を開ける。
実際のところ、ドナーとレシピエントがそうであるように、同じ表題を持つテクストとフィルムのあいだには、この密輸される心臓を除けばほとんど共通点がない。形式においても内容においても、そうである。
一方には言葉だけがあり、他方にはもっぱら映像とノイズだけがある、言葉はほとんど存在しない。
ナンシーのテクストは、ただひたすら、言葉ならざるもの、言葉にならぬものの周囲を旋回する。それはたとえば、もはや「わたしのもの」とは言い難い身体、自己の境界の自明性を失い、数々の法的、医学的、技術的な装置が形作る連鎖の中に組み込まれた身体である。《わたしはガン細胞で移植臓器であり、わたしは免疫抑制剤でかつその緩和剤であり、わたしは自分の胸骨をとめる針金の切れ端であり、わたしは鎖骨の下に恒常的に縫い合わされた注入部分である》。また身体と精神がくぐり抜ける無数の苦痛もまた、そうしたものだ。そしてなによりもまず、それらの苦痛を通して、それでもなお、身体の内奥にある空虚な《難攻不落の巣》からくり返し立ち現れることをやめぬ「わたし」の異様さ。ナンシーのテクストは、言葉と言葉ならざるものとの境界領域で、《なんと異様なわたしであることか!》という唯一の叫びを変奏しつづける。
それにたいして、ドゥニのフィルムは、ただひたすら映像ならざるものの周囲を旋回しつづける。ドゥニは非常に美しい1場面で、それがなんであるのかを明らかにしている。心臓移植を終えた男(ミシェル・シュボール)は、韓国の港湾都市のホテルの1室でベッドに横たわっている。すると盲目の女性がひとり、彼の部屋に入ってくる。彼女は上着を脱ぎ、無言のまま、ベッドに横たわる男のもとに近づき、彼の背中をマッサージし始める。やがて彼女の注意深い指先は、男の胸に刻まれた大きな傷痕に触れることになるだろう。ナンシーのテクストでは、医師団による監視や医療機器との接合が、他者の心臓を受け入れた男を救うべく待ち受けていたのにたいして、ドゥニのもとでは、盲目の女性の指先が、疵の癒合をもたらすのである。この接触の瞬間、女性は驚いて手を止め、男は小さな叫びをあげる。フィルムの中心にあるのは、この盲目の接触と言葉にならぬ小さな叫びである。ドゥニのフィルムは、映像ならざるものを、つまり盲目の女性の指先と男の皮膚が感じたものを、映像へともたらそうとする。フィルムがその周囲をめぐりつづける映像の他者とは、触れることを通してのみ探究されうる身体なのだ。それは読まれるべきものではなく、感じられるべきものだ。したがって、このフィルムはまるでサイレント映画のようであり、台詞や文字はほんのわずかしか用いられていない。
ナンシーは言葉ならざるものにむけて言葉を研ぎ澄まし、ドゥニは映像ならざるもののために目を凝らし耳を澄ませる。ここでも、よそ者 ––– 密輸される心臓 ––– をみずからのうちに迎え入れる《試練》が、テクストとフィルムを結びつける。そしてドゥニの映画において、それは物語世界にも深く浸透している。盲目の女性が異国から来た男の肌に触れること。このイメージは、ドゥニの映画作りをつねに導いている二重の探究の親密なつながりを、見事に要約しているのだ。つまり、映画における触覚的なものや匂いや味わうことの探求と異なる文化的背景をもつ人間たちが混じりあう世界の探求が、彼女の映画ではつねに同時になされるのである。
数々の侵入、物語ではなくパッチワークのように
スイスとフランスとの国境検問所。1台の車が入ってくる。主人公の息子の妻(フロランス・ロワレ)が車に近づき、犬を運転席へと嗾ける。犬はいたるところを嗅ぎ回り、鼻面をあらゆる事物に擦りつける。やがてダッシュボードに置かれたひとつの小包に、犬は夢中になる。密輸品だ。ちょうど心臓が入りそうなくらいの大きさである。のちに主人公の夢の中で、彼の身体に移植されるべくロシア人の女(カテリーナ・ゴルベワ)が運んでいた心臓が、犬に咥えられて持ち去られるとき、私たちはこの小包のイメージに送り返されることになる。
カメラがアパルトマンの壁を映し出す。パンによって結びつけられるふたつの窓。子どもの世話をする若い男(グレゴワール・コラン)の姿が、現れては消える。場面は室内に移り、壁にはさまれたふたつの部屋が横長のシネスコの画面に映し出され、男がふたつの部屋を行き来する。こうして室内空間もまた国境地帯に変貌する。帰宅した国境警備隊員の妻に、男は皮肉に問いかける。「なにか申請するものはありませんか?」 キッチンに立つ妻の背後に腰かけた男は、暗い森の情景を語りながら、やがて彼女に背後からぴったりと寄り添う。衣服が脱がされてゆくのを感じながら、彼女は彼に身をゆだねる。ゆっくりと、彼女の身体は、彼の下半身のうえに滑り落ちていく。
夜、暗い森のなか。いくつも影が木々のあいだを横切っていく。影は素早く、くり返し、急な斜面を駆けおりる。監視の目は存在せず、したがって、銃声が暗い森に轟くこともない。ただ終わることのない境界侵犯が起こりつづける。のちに主人公が他人の心臓を手に入れるために森を離れるときにも、彼らはまだ森を横切りつづけているだろう。
こうして映画は冒頭から、いくつもの侵入の瞬間を連ねていく。不法に持ち込まれようとする荷物。女の身体に挿入される男の性器。国境地帯の森のなかで蠢く密入国者たち。数々の、多様な侵入のイメージが、いたるところで、思いがけない回路を開く。いま触れたいくつかの場面の連鎖がすでに明らかにしているように、それらの侵入には、物語上のつながりはまったくといっていいほど存在しない。侵入者の物語を語るかわりに、ドゥニは数々の侵入の瞬間からなるパッチワークを作りだしてみせる。侵入の身体的な感覚だけが、それらのイメージを結びつける。国境の検問所で違法な包みの侵入を防ぐのは、あらゆる事物に押しつけられた犬の鼻面であり、キッチンでのセックスは視線の交わりなしに触れ合う身体を重ね合わせ、密入国者たちは、彼らの侵入の恒常性において、あたかも国家の身体に住み着いたパラサイトのようだ。
主人公の身体によそ者の心臓が侵入するまえに、まず彼自身の心臓がよそ者になる。侵入者はまず内部に出現するのだ。湖で泳いでいるとき、突然、発作に襲われた彼は、どうにか岸辺にたどり着き、大地になすすべもなく身を横たえる。あらゆる抵抗を放棄し、よそ者の侵入に身をゆだねること。新たにイメージの回路が開かれる。しかし、侵入者に身をゆだねるこの身振りは、彼の息子である若い男の妻の同じ身振りとは正反対の感覚に結びついている。それはもはやエクスタシーの瞬間ではなく、苦痛と惨めさに彩られているからだ。その後の男の歩みは、いわば、この無抵抗に横たわることに対する、不断の、絶望的な反抗だ。彼はくりかえし身を起こそうと試み、そのたびに結局また、横たわらざるをえなくなる。ある夜、愛人(バンブ)とのセックスの途中でベッドを立ち去った彼は、若い心臓を手に入れることを決意する。そして、みずからもまた侵入者となり、韓国へ、さらにタヒチへと遍歴する。しかし、タヒチの小さな島の小屋で、彼はまたなすすべもなく横たわり、ふたたび病院のベッドに寝かされた自分を発見することになる。映画のラストシーンで私たちが目にすることになるのも、甲板で半ば身を起こす彼の姿である。
世界と身体、ふたつの辺境
よそ者による無数の侵入に晒されつづける場所は、辺境と呼ばれる。『侵入者』は、スイスとフランスの国境地帯の山のなかで始まり、他人の心臓を移植された主人公にしたがって、スイスから韓国へ、さらに韓国から大洋を渡ってタヒチにまで舞台を移す。ヨーロッパの内なる辺境からヨーロッパにとっての世界の辺境への男の旅。それがこの映画の描くものである。だがそれだけではない。というのも、この映画における辺境は、つねに二重だからである。主人公が世界の辺境へと旅するだけではなく、彼の身体そのものが、いまやひとつの辺境になってしまったのだ。
彼の身体は、3つの意味で、辺境になってしまった。よそ者の心臓、しかし、まさにそれによって彼自身が生き延びている心臓の侵入によって、彼の身体は、自己と他者が解きほぐしがたく絡み合う場となってしまった。そして、それはまた、そこで身体の未来が決せられようとしている、生命科学と医療技術のフロンティアでもある。最後に、彼の身体は、彼を延命させながら衰弱させるよそ者の侵入が穿つ空虚によって、たえず生と死が触れ合う辺境地帯になってしまった。彼は《生きた死人》のようなものになってしまったのである。
主人公は、旅の途上で、くりかえし、胸の傷痕にそって指先を滑らせる。このたったひとつのささやかな身振りが、映画のなかで、世界と身体というふたつの辺境をくりかえし結び合わせる。彼はその身振りを、あの盲目の女性から学んだのである。胸の傷痕をなぞる彼の指先が描く軌跡は、辺境から辺境にいたる彼の旅の道程を身体の表層に描き出す。見ることは触れること。ドゥニの映画を導く確信が、こうしてひとつのイメージに結実する。
辺境の遍歴、ジャンルの侵入
『侵入者』の主人公は、内と外のふたつの辺境を遍歴しつづける。そして、そのような辺境の遍歴は、ほとんど必然的に西部劇というジャンルを招き寄せる。というのも、西部劇の主題とはつねに、辺境とそこで起こる様々な侵入だからである。ハワード・ホークスはかつて、西部劇には2種類しかないと語ったことがある。開拓者の物語と保安官の物語である。前者においては、開拓者たちが西部の荒野に侵入していく。そこで彼らを待ちうけるのは、インディアンの襲撃である。後者においては、いまだ完全には法の力が及ばない辺境の町で、保安官が無法者の支配に直面している。ある日、その町にどこからともなくよそ者がやって来る。この侵入者は、ときには保安官に協力し(あるいは、みずから保安官になり)、ときには保安官とは無関係に、無法者を葬り去り、またどこか別の場所へ旅立っていく。開拓者の物語にせよ保安官の物語にせよ、西部劇とはつねに侵入者の物語なのである。
ドゥニのフィルムへのジャンルの侵入は、シネマスコープの使用や主人公が旅の途上でかぶるカウボーイ・ハットに形の似た帽子にとどまらない。それはいたるところに見出される。たとえば、スイスとフランスの国境地帯の山林とそこに暮らす人物たちの設定は、西部劇の諸要素の大胆な翻訳にもとづいている。制服に身を固め、ピストルを腰に下げ、国境の通行を監視する女(息子の妻)は保安官であり、グラマラスな胸を強調した革の衣装に身を包み、思いのままに犬ぞりで雪原を疾走する謎の女(ベアトリス・ダル)は、法の庇護や干渉を受けずに、自分の力だけで土地を守る牧場主だ。ただし、彼女の牧場で飼われているのは、牛や馬ではなく、獰猛な犬たちなのであるが。そして、2頭の犬と暮らす主人公自身もまた、ロシアから流れてきたよそ者であり、心臓移植を受けるため、ロシアのパスポートを暖炉に投げ入れ、ふたたび旅立っていく。彼の小屋がある山間の土地は、『ペイルライダー』(85)の砂金掘りたちが暮らす谷のようだ。そして、タヒチの街に着いた主人公が路上にたむろする若者たちと交わす視線のやりとりもまた、そうしたジャンルの侵入の瞬間である。
映画の前半部分で辺境を支配するのは、したがって、女たちである。だからこそ、すでに触れた冒頭のアパルトマンの場面で、主人公の息子は、あたかも囚人のように、小部屋に閉じ込められた存在として示されていたのである。彼と妻とのあいだに生まれた赤ん坊もまた、侵入者にほかならない。この侵入者によって、彼はますます家族の日常に縛りつけられる。柵で囲まれた斜面を家族で散歩しながら、彼は自分の身体にバンドで結わえつけられた赤ん坊を見つめつづける。かすかに微笑を投げかける赤ん坊の長いクロース・アップが不意に断ち切られ、切り返しショットが続くとき、私たちは、赤ん坊を睨みつける、彼の恐ろしい眼差しに撃ち抜かれるだろう。
だが、西部劇におけるもっとも重要な侵入者を忘れてはならない。それは主人公の身体に撃ちこまれる銃弾である。その銃弾は「わたし」の身体に侵入する死にほかならない。ドゥニのフィルムがジャンルともっとも深い結びつきを見出すのも、この点においてである。このフィルムの主人公は、西部劇における《生きた死人》の系譜に連なっている。彼は銃弾=死という侵入者とともに生きることを選んだ者たちのひとりなのだ。『侵入者』というフィルムは、『デッドマン』(95)(ウィリアム・ブレイク/ジョニー・デップ)、『ペイルライダー』(プリーチャー/クリント・イーストウッド)を経由して、『エル・ドラド』(66)(コール・ソーントン/ジョン・ウェイン)に通じている。
海と肌、記憶そして未来
ドゥニとアニエス・ゴダールは、身体を風景のように撮影し、風景を身体のように撮影する。
数々の接触、くりかえされる愛撫や殴打、苦痛と悦び、そして汗や涙の流れは、身体の表層にいくつもの、幾重にも折り重なった敏感さのゾーンを作り出し、肌に無数の轍を残す。こうして身体は斑になり、縦横に走る小径を穿たれ、さまざまに彩られた部分からなるパッチワークのようなものになる。つまり、ひとつの風景になるのだ。ある夜、ミシェル・シュボールとバンブの、ほくろやしみや皺の鏤められた身体が触れ合うとき、私たちは、そのようなふたつの風景を見つめている。しかしまた、ドゥニ/ゴダールのカメラが、色づいた木々が風に揺れる草原、霧に煙る山林、深い水色を湛えた湖、真白に輝く雪原、そして緩やかに、大きくうねる外洋の海原を映し出すとき、それらの風景はすべて、まるで呼吸する身体のようだ。とりわけ忘れがたいのは、あの韓国の港での進水式の場面、すべてが明るくゆっくりと揺れ動くあの途方もなく夢幻的な場面である。ぴかぴかのスクリューや緩やかな曲線を描く舳先の優美なライン、ひるがえる色とりどりの紙テープ。巨大な船体は官能的な肉体に変貌する。これは現実の光景なのだろうか、それとも若い心臓を手に入れ、新たな旅に乗り出そうとする主人公の幻覚なのだろうか? それらのイメージは、風景と身体との中間領域をいつまでも漂い続けている。
身体の表層に形作られる風景、それは同時に歴史でもある。なぜなら、身体はすべての接触と出会いを、その表層を過ぎていったあらゆる恐怖と快楽を記憶しているからである。だからこそ、主人公が船で外洋に乗り出すとき、それはみずからの過去への旅になるのである。旅の途上で、彼は胸の傷痕にそって指先を滑らせる。身体の辺境と世界の辺境が、彼の指先で交わり、過去が現在に侵入する。それはよそ者のきわめて物質的な侵入である。というのも、過去は、他人によって撮られたフィルム –––『引き潮』(ポール・ジェゴフ監督、1965年)––– の断片として、つまりドゥニの映画にとってのよそ者として、現在に侵入するからである。彼はかつて島を訪れた当時に現地の女性とのあいだに生まれた息子を訪ねるが、面会を拒否される。侵入者の突然の来訪に困惑した村人たちは、頭を悩ませた挙句、別の若者をひとり選んで息子としてプレゼントするというユニークなアイデアを思いつく。侵入者との友情の徴として、彼に侵入者を贈与するというユーモア。他人の心臓と他人の息子 ––– ふたつの侵入者とともに、主人公は島を離れる(もちろん、このとき私たちは、彼自身の息子の死のうちに示されたドゥニのモラルをも見落とすべきではない)。未知への航海はまだ始まったばかりだ。だが、彼には海図がある ––– 彼自身の身体が。
【註】引用はすべてジャン=リュック・ナンシー著「侵入者」(『侵入者 いま<生命>はどこに?』所収、西谷修 訳編、以文社)より。
(初出:nobody #17、2005年)