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肌をめぐる変奏
モーリス・ピアラのために

映画 / 織物 / 肌

「僕だよ!」 そう叫びながら部屋へ駆け込んでくるアントワーヌ(アントワーヌ・ピアラ)のショットとともに、モーリス・ピアラの最後のフィルム、『パパと呼ばないで』(95)は幕を開ける。そして、私たちは、この単純極まりないショットによって、一瞬にしてピアラの映画づくりの直中へと引きずり込まれる。カメラの背後では父親と彼とともに脚本を執筆した母親が、息子を見つめる。ピアラの息子アントワーヌが母親ソフィーを演じるジェラルディヌ・パイアスの横たわるベッドへと、ソフィーの息子アントワーヌとして走り込んでくる。この最初のショットの前、映画冒頭のタイトルロールでは、背後でアントワーヌが「ママ」と話す声が響く。ママは言う ––「ママはいないの」、「隠れなきゃ」。これは推測だが、声から判断するにここで語っているのはソフィーではなく、ピアラの妻のシルヴィだろう。だとすると、最初のイメージは人生と映画とを結びつける薄い透過膜なのだ。タイトルロールの背後で語られた変身のお話 –– アントワーヌがクマさんになり、ママはアザラシさんになる –– が、アントワーヌとソフィーの間では、ふたりがカウボーイになるお話として繰り返される。映画は人生と折り重なり、ひとつの肌に、刺青を施された肌になる。ピアラはみずからの身体の表層に映画の皮膜をまとうのだ。

このようにして、ひとつの映画が動き始める。現実と虚構、ドキュメンタリーとフィクションをめぐる不毛な議論は省略しよう。そもそも、いったいどうやって、いま部屋に駆け込んできたアントワーヌをふたつに –– ピアラの息子とソフィーの息子に –– 分割できるというのだろうか。私たちは別の仕方でピアラのフィルムに近づかねばならない。

アントワーヌのような存在が住み着くピアラの映画は何に譬えるのが良いだろう? たとえピアラがヌーヴェルヴァーグの映画狂的な戯れを唾棄する映画作家だったとしても、彼の映画を外部へ開かれた窓と比較するのは正確さに欠ける。それはむしろ複数の経糸と偉糸から織り上げられた織物として理解されるべきだろう。あるいは、刺青を施された肌として。映画作家の身体と俳優の身体、書かれた言葉と発せられる言葉、さまざまな場所と時間の記憶と経験、それらからなる複雑極まりないひとつの織物。あるいは、映画作家の加工された身体の表層、生が刻み込んだ数々の痕跡のあいだに薄い皮膜が縫い込まれた皮膚。刺青を肌から隔離することなどできはしないのと同様に、織物を前にして、それを経糸と偉糸により分け、解こうとするなら、その表面にあった像もまた失われてしまう。『パパと呼ばないで』のアントワーヌは、そんな壊れやすい像のひとつだ。そしてそれは彼に限らない。ジェラール(ジェラール・ドパルデュー)、ソフィー、ジェラールの父親(クロード・デヴィ)、そしてパリのカフェやオーヴェルニュ地方のキュナの町と自然にいたるまで、このフィルムの多くの要素には、ピアラと彼の愛した人々そして彼らの生きたいくつもの場所が織り込まれている。

触れること / 出来事 / 感情

ピアラの映画を肌に譬えるとき、私たちは、彼の多くのフィルムにとって、事物との、他者の身体との接触の場である肌こそが本来の出来事の場であったことに気がつく。彼の長編処女作のタイトル『裸の幼年時代(L’enfance nue)』(69)に、「裸の」(nue)という形容詞が含まれていたのは偶然ではないのだ。このフィルムの主人公フランソワは無防備な肌の持ち主だった。彼は身を守る術もなく、周囲の大人たちの恣意的な欲望にさらされ、ひとつの家庭から別の家庭へと引き渡されていく。彼が盗んだ時計を使いもせずにトイレで壁にこすりつけ、足で踏みつけ、最後には便器に流してしまうのも、里親の娘ジョゼット(ピエレット・ドゥプランク)の猫をアパートの階段から突き落とし、その後猫を引取り、ミルクを与え、世話をするものつかの間、その死体を裏庭のごみの山に投げ捨ててしまうのも、さらには、ティエリー夫妻のもとに引き取られた後、もうひとりの里子ラウル(アンリ・ピュフ)と楽しくふざけあったその晩に、部屋の扉が開いているのを不審に思い廊下へ出てきたラウルに向かって彼がナイフを投げつけるのも、単にすべての子供がもつあの致命的な好奇心、みずからの生という謎の答えを見つけるために、昆虫や小動物を殺し、玩具を破壊する子供の好奇心ゆえではない。それはなによりもまず、世界のすべての事物、すべての生命が、フランソワにとって、恐ろしく不確かなものとして現われるからであり、彼が出会い、触れることのできるすべてのものが、次の瞬間には自分の手の届かぬところに逃れ去っていくようにみえるからである。フランソワがどれほどそのことに自覚的であったかは、彼が最初の里親のもとを離れる朝、彼が寝ている間に父親がこっそりポケットに突っ込んだお金で母親へのスカーフを買うところで示されている。それは彼の金ではないのだ。里親の家を離れる車の窓越しに、フランソワは彼を追い払った母親を冷徹に見つめつづける。里親からパリの施設へ送り返される列車の車窓からアントワーヌが見つめつづける風景のように、あるいは、彼が高架から見おろす走り去る自動車のように、彼が愛することができるかもしれぬすべての事物と人々は、彼の眼前を猛スピードで離れ去っていくようにみえる。それらに触れるためには、素早く行動しなければならない。素早く手を伸ばさねばならない。しかし、それでもなおそれらが逃れ去っていくならば、それを防ぐ唯一確実な方法はひとつしかない。対象に触れたその瞬間に、そして再び失われるその前に、みずからそれを破壊することだ。こうしてフランソワは愛情と破壊衝動とのあいだを性急に揺れつづける。

肌と肌が触れ合うとき、そこで何が起こるのか、それを予期することは誰にもできない。触れる者にも触れられる者にもそこで起こることをコントロールすることはできないのだ。触れられることで肌は柔らかくなり、他者の身体を受け入れるかもしれない。しかし、また肌は硬くなり、装甲と化し、無感覚にもなりうる。『一緒に老けるわけじゃない』(72)では、愛を求める男の手が女の身体に優しく触れる。しかし、彼女の肌は愛撫を受け入れることなく無感覚な表面へと変容し、男の手を撥ねかえす。主人公ジャン(ジャン・ヤンヌ)の失望と怒りは、カトリーヌ(マルレーヌ・ジョベール)の口にする拒否の言葉でではなく、そのような不幸な肌の接触によって爆発するのだ。愛は一瞬にして暴力へと変貌し、愛撫する指先は肌を引き裂く鉤爪となる。ジャンはカトリーヌの白いシャツを引きちぎり、憤慨して部屋を出て行くことになるだろう。『ルル』(80)の恋人たちはどうだろう。彼らを結びつけていたのは、なによりもまず肌と肌との絶対的な近さ、そして肌が触れ合うときにのみ生まれるひとつの感情 ––– いまここで本当に同じ時間と場所を、「ひとつの」生を、生きているのだという感情 ––– だった。ホテルで彼らが過ごす幸福な時間はこの瞬間的な感情によって満たされている。ネリー(イザベル・ユペール)は信じがたい自然さで、ルル(ドパルデュー)の巨体と広げられた腕の間に広がる空間に滑り込む。ふたつの身体はそこでぴったりと重なり合う。しかし、そんな彼らがホテル暮らしをやめ、自分たちの部屋へ移り住むと、ただちにそれまで排除していたものすべてが、友人、家族、仕事、将来の計画が、文字通り、ふたりの間に割り込んでくることになるだろう。

身体が触れあう瞬間とそこで生まれるいくつもの感情 ––– これがピアラのフィルムをつくり上げる。映画をひとつながりの物語としてではなく、いくつもの出来事のブロックからなるモザイクとして組織するピアラのモンタージュは、そのような瞬間と絶えず流動し急転する感情の動きを映画に注ぎ込むために選ばれた手段だ。そして、そのような出来事のモザイクとともにカップルの時間、そして家族の時間が映画に導入される。というのも、カップルも家族も、決して静止し、安定することのない感情の流れのなかにあるからである。愛する者たちは絶えずおたがいをそれぞれの中心から逸脱させつづけるのだ。

距離 / 繊細さ / 危機

『パパと呼ばないで』の冒頭、妻へのプレゼントにスーツを購入したジェラールは、彼女と息子の暮らす部屋を訪れる。彼から贈られたスーツを試着しに姿を消したソフィーが戻ってくると、ジェラールは彼女の姿を眺め、抱擁しようと彼女に近づく。しかし、彼女の肩に触れ、頬を彼女の顔に近づけたそのとき、一瞬、彼は抱擁を中断する。彼女を見つめ、彼女の身体の反応を手で慎重に確かめながら、ようやくジェラールはゆっくりとソフィーを抱きしめるのだ。

ピアラの遺作を満たしているのも、他のフィルムと同様、他者の身体に触れるという経験とそのとき生まれる感情の流れである。ジェラールは彼の愛するふたりの人物、ソフィーとアントワーヌのもとを離れることができない。彼の喜びも苦痛もすべて彼らとともにいることから生じるのだ。しかし、このフィルムの主調をなすのはジャンの怒りと暴力でも、ネリーとルルの身体の無媒介的な近さによる幸福でもない。いま触れたジェラールとソフィーの場面が示すとおり、ここにあるのは、暴力的な離別や距離の廃棄とは異なる何か、それら両極の間に広がる中間地帯で展開する、ある途方もなく微妙で慎重なゲーム、ともに生きることを可能にするための困難な距離の測定、他者の欲望の繊細な探索なのである。直接性と自発性の –– つまり若さの –– 喪失? 確かにそうだ。しかしそれはまた、他者とみずからの身体への注意深さの獲得でもある。ジェラールの失望も幸福も、いまやこの中間地帯に固有の失望と幸福であり、それらはジャンやネリーやルルの感情よりもはるかに微妙で危ういものだ。

モーリス島でのバカンスの夜、窓越しに見え隠れする木々が魂を持つ存在へと変貌し、アントワーヌに語りかける。眠れなくなったアントワーヌは、様子を見に来たジェラールに言う。「お化けがいるの。木に化けているんだ。」ジェラールはアントワーヌを抱きあげ、木々が揺れる窓辺へとゆっくりと近づく。「あれはなんだ?」しかし、そうアントワーヌに語りかけながら、ジェラールは彼に「お化け」の不在を証明すべく窓辺へ近づいていくのではない。そうするかわりに、彼はある決定的な地点で立ち止まり、自分も怖がるふりをしながらまたゆっくりと後ずさりを始めるのである。ジェラールは、アントワーヌの世界を織り上げるベールを引き裂くのではなく、それを優しく揺らしてみせるのだ。あるいはまた、ジェラールがソフィーのもとを訪ねた夜、彼女が見ているテレビからG・W・パプストの『アトランティード』(32)のワンシーンが流れてくる。「アンティネアー!」そうブラウン管の中の男は叫ぶ。隣の部屋にいたジェラールがそれを模倣する。するとたちまち彼の身体は信じがたい軽さを獲得し、彼はソフィーのもとへと軽やかな身振りで近づき、彼女の腰のあたりに顔をうずめる。「パリ!」という叫びとともに、背後でフレンチ・カンカンが流れ出す。彼の導きに応じてふたりは一緒に踊りだす。ついにはソフィーをジェラールが抱き上げ、ふたりはゆっくりと唇を重ねることになる。ふたりは演じることを通して愛することへと到達する。「演じられた自発性」が彼らを結びつけるのだ。このフィルムにおける幸福な瞬間がそのようなものだとすれば、ジェラールを苦しめる瞬間は、彼が性急に他者に手を伸ばすときに訪れる。それはたとえば、モーリス島の浜辺で肩車されて波打ち際をゆくアントワーヌをジェラールが追いかけ、呼びかけるとき、アントワーヌが警笛を吹き鳴らすことでそれに応える瞬間であり、パリの路上でジャノ(ドミニク・ロシュトー)とアントワーヌを見かけた彼が、カフェのガラス越しにピンボールで遊ぶふたりを見るだけでは我慢できず、彼らに近づき、アントワーヌに煙たがられる瞬間である。

しかし、そのような距離と欲望のレッスン、他者の身体との微妙で、しばしば困難な駆け引きが要求する肌の敏感さは、ときに耐えがたいまでに鋭くなることがありうる。そのようなとき、ひとは、苦痛からみずからを守るため、肌に装甲をまとい、感受性を麻痺させ、世界に対して身体を閉ざす。事物と生命のあらゆるニュアンスは失われ、世界は恐ろしく単調になる。ジャノやキャスィー(ファビエンヌ・バーブ)、ソフィーとともに、ジェラールが浜辺のホテルに滞在した夜、彼はそのような危機の直中にいたのだ。彼らの脇のダンスフロアで踊るマヌカン風の女性たちの豊かな肉体も、キャスィーの求愛も、幻滅した彼には吐き気を催させるだけだ。深夜部屋に戻ったジェラールは、寝息をたてて眠るソフィーを騒々しい機械でも扱うように手荒に叩き起こすだろう。

3人の息子たち、そして家族

死を前にした父の枕もとでジェラールは跪き父の手を握り締める。愛する者の手から力と温もりが不意に失われ、無感覚の領域が広がりだす、そんな経験以上にひとを揺さぶる経験があるだろうか。たとえそのような死の瞬間に立ち会うことがなかったとしても、愛する者の死は、私たちを時間の流れの外へと放り出さずにはおかない。父の死によってジェラールもまた、宙吊りの時間のなかへ投げ出される。父親の死後、ジェラールがソフィーと故郷の森を散歩する途上で立ち止まる川岸の静止した水面のように、日々の日課に追われる時間の流れはせき止められ、異なる時間が –– 円環を描く時間が –– 広がりだす。木々を見上げながらジェラールは呟く。「僕たちは昨日は生きてた。僕は故郷を知らずに終わる。もう二度と戻ることはない」。この言葉を口にしながら、彼は父の死のなかにみずからの死を見つめている。ジェラールがいつか彼の父親の地点に辿り着くように、アントワーヌもまたいつか彼が今いる場所に立つことになる。ジェラールの父、ジェラール、アントワーヌの3人の息子たち(Garçus)は、そのようにしてひとつの円環を形づくり、フィルムは人生の3つの時間 –– 子供時代、中年期、晩年 –– の共存をつくりだす。しかし、この3人の息子たちの結びつきは、ジェラールとソフィーとアントワーヌの関係のように、危うく壊れやすいものだ。ジェラールには、もはや宗教的な儀式の支えも、よりどころとなる故郷もない。葬儀屋が棺を部屋に運び込むと、ジェラールたちのとなりで、修道女たちが突然歌いだす。ジェラールも滑稽とは思いながらも一度はともに歌おうと試みるが、彼女たちの落ち着ききった歌声と葬儀屋の手馴れた仕事ぶりに耐え切れず、部屋を出て行かずにはいられない。

フィルムの最後、レストランでの夕食後のシーンで、私たちはジェラール、ソフィー、アントワーヌの3人を再び見出す –– 一緒にいると同時にはなればなれの彼らの姿を。ジェラールは席を立ち、カウンターにあるハムを切る機械で遊んでいるアントワーヌに声をかける。「パパに大きなハムを切ってくれよ」。アントワーヌの手からハムを食べたジェラールは、店の外に出て、今度はガラス越しにアントワーヌが差し出すハムを食べる真似をしてみせる。このフィルムの最初のイメージであった人生とフィルムとの透過膜がこうしてガラス窓として回帰する。店内に戻ってきたジェラールは、少し距離を置いてソフィーの隣に腰掛ける。静かに涙をハンカチで拭うソフィーをとらえるショットのフレームの左端では、タバコを持ったジェラールの指先がかすかに動く。アントワーヌはフレームの外だ。このラストショットにおいて、3人の関係はその脆弱さの極に達するように思える。しかし、ピアラはここでも、彼がいつもそうしたように、登場人物の行く末を暗示することを断固拒みつづける。

(初出:nobody #8、 2003年7月)

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