自然の文化史 − 文化学の一領域
(ハルトムート・ベーメ 著)

 なぜ文化学は自然を対象領域のひとつとすべきなのだろうか? 古代ギリシア以来、「おのずからそこにあり、成長するもの」(physis)は、「みずからの存在を他の存在に負っているもの、この他の存在によって<措定される>もの」(thesei)から区別されてこなかっただろうか? 文化学と自然科学との近代的な区分は、自然と文化とを概念的に区別することによって準備されたのではなかったか? 文化学は自然を、それと物質的に関わりをもつ者たちに、つまり、自然科学者や技術者や農民たち等々にゆだねるべきではないだろうか? 科学の美徳である経済性という観点からいっても、文化学をこの自然という領域から解放し、負担を軽減してやることが賢明とはいえないだろうか?

 いくつかの理由からそうすることは不可能である。 文化学と自然とのあいだにはいかなる関係も存在しないと仮に言うことができるとすれば、それは私たちが自然を、永遠の法則にしたがって統御され、<外部にある>、歴史を欠いたものとして理解する場合だけであろう。この<外部にある自然>にたいして私たちができることは、せいぜい、自然科学によってそれを認識することであり、技術を用いてそれを操作し、利用するか、それに対して私たちを保護することだけであると語る人物は、そのとき、たとえば<自然それ自体>(Natur an sich)に言及しているわけではない。 そうではなく、その人物は自然についてのある歴史的な理解にしたがっているのである。そして、その理解は近世に特有のものである。それが妥当なものとされ たのはせいぜいイマヌエル・カントまでであり、近代においても、古代や中世においても受け入れられてはいない。 もし文化についての諸学問が(部分的には今日なお)自然はみずからの対象領域に属していないとみなすならば、そのときそれらの諸学問は、17・18世紀に(天文)物理学が主導科学として果たした絶大な役割に由来する自然概念、しかしながら、ヨーロッパにおいてはただ挿話的な意味しか持たない自然概念の陰に身を潜めることになるのである。

 それにたいして、今日では次のような前提から出発することができる。つまり、自然は内在的および外在的な歴史を持つ、ということである。 内在的とはすなわち、自然はいついかなる時も同じままではないということであり、進化するということであ る。自然はしたがって、時間的に考えられうる。いわゆる法則とされるものの非常に多くは、普遍的に通用するのではなく、ただ地域的かつ/あるいは時間的な限定のもとでのみ妥当性を持つ。 すなわち、宇宙の特定の地域においてのみ妥当したり(たとえば、地球上では通用するが他の星雲ではそうではない場合)、あるいは、 宇宙の発展のある特定の<年代>にのみ妥当したりするのである(たとえば、200 万年前には有効であるが、今日ではそうではない場合)。普遍的な妥当性を持つ<法則>はごく僅かである。自然が物質の時空間的かつ動的な連関であるならば、それにしたがって自然が組織される諸規則もまた、時空間的かつ動的に発展する。

 それにたいして、自然の外在的な歴史が意味するのはつぎのような事柄である。自然認識の歴史を通して、人間たちは、自分たちが自然について知っていることは、決して自然それ自身と完全には一致しないということを学んできた。そして、このことからつぎのような帰結が導きだされる。すなわち、自然とは原則的に<それ自体>(an sich)として接近可能なものではなく、私たちはつねに認識の諸形式と関わっているということである。私たちが自然を対象化し、実践的・技術 的に操作するのは、私たちの認識の諸形式を通してなのである。そして、自然と同様に、これらの諸形式もまた、安定し時間を欠いたものではなく、ひとつの歴史を持っている。このことが意味するのは、自然とは、人間がとりわけ認識的、技術 的、美学的、宗教的な諸モデルにもとづいて、まさに自然として構想してきたものの歴史である、ということである。手短かに言えば、自然としてみなされるものは、それ[=自然]に関して思考され、知られるものなのである。そして、自然に関して<思考され>、<知られ>てきたものは、たいていの場合、ひとが自然とともに[自然を用いて]実践的に<行い=作る>(machen)ことができた事柄であり、行い、作ろうと欲した事柄であった。

 時間性のこの二重の指標は二つの帰結をもたらす。 第一に、自然は歴史(生成、進化そしてひょっとしたら終焉)を持つということであり、この歴史は自然史(Naturgeschichte)と呼ばれる。 第二に、すべてのものは、したがって、自然についての科学的認識もまた、歴史を持つということであり、こちらは自然についての知の歴史あるいは科学史と呼ばれることになる。そして、これらの歴史的な指標こそは、自然という問題が文化史の対象領域に属する理由である。なぜなら、私たちが自然について知り、それとともに[それを用いて]行いうることのすべては、様々な文化的活動の効果だからである。したがって、あらゆる自然認識は文化の標を帯びることになる。すなわち、自然科学もまたそれ自身ひとつの文化的実践なのである。このような意味で、私たちは自然の文化史について語ることができる。そのとき文化はひとつの枠組みを構成するのであり、自然がそもそも姿を現し接近可能になるのは、この文化という枠組みの内部においてなのである。自然についての知および自然との[実践的な]関わりの歴史的な諸形式を通してのみ、自然への接近は可能である。 しかしまた逆 に、自然史はあらゆる文化よりも古く、したがって、その内部ではじめて諸文化が共進化的にみずからを形作ることになる枠組みを構成している。この相互関係は、<自然の文化史>のあらゆる段階において考慮されねばならない。

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