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『自然と権力』について

このたびヨアヒム・ラートカウの主著を日本の読者のみなさんに紹介することができて、とても嬉しく思います。ラートカウは、おそらく、いまドイツで最もユニークな仕事をしている歴史家の一人だと言えるでしょう。彼の仕事のユニークさは、歴史学における既存の専門領域の枠組みにとらわれない分野横断的な多面性に表れています。『自然と権力』に先立つキャリアのなかで、ラートカウは政治史、経済史、技術史、森林史、心性史といった分野で研究を行い、徹底した史料調査と理論的観点を兼ね備えた優れた著作を発表してきました。それらの著作で扱われたテーマは多岐にわたります。アメリカの欧州政策に対するドイツ人亡命者の影響、ドイツにおける産業界と政治権力の結びつき、戦後ドイツにおける原子力産業の形成と反原発運動の誕生、「木の時代」(16〜18世紀)のヨーロッパ社会における技術文化、そして20世紀始めにドイツ社会を席巻した神経過敏をめぐる言説の広がりといったテーマに、ラートカウは取り組んできました。また、『自然と権力』の発表後は、マックス・ヴェーバーについてのユニークな伝記的研究や、世界各地で1970年代以降に展開した環境運動の歴史を論じた大著を発表しています。

そういうわけで、ラートカウの仕事は歴史学の特定の専門分野やひとつの主題に限定することができず、領域横断的な様相を呈しているのですが、まさしくそうした多彩で、一見したところ支離滅裂にすら見えかねないラートカウの仕事の中核をなすのが、今回訳出した『自然と権力』という著作です。ラートカウがそれまでに行ってきた多彩な探求は、この著作においてはじめてひとつの大きな流れに合流し、大胆な環境の世界史の試みとして実を結んだのです。ラートカウにとって、環境史とは、歴史学の特殊な一部門ではありません。それはむしろ、歴史学の諸部門が合流する「全体史」の要として理解されています。そこでは、これまで政治史や経済史、社会史や心性史、技術史や文化史で論じられてきた諸テーマが、環境との関わりにおいて捉え直され、新たな視点から検討されることになるのです。

本書においてラートカウは、多数の事例研究を参照しつつ、様々な歴史的状況のもとで環境を形作ってきた諸要因を慎重に比較検討しています。ラートカウが試みるグローバルな比較は、地域的・歴史的な多様性を消し去るのではなく、むしろそれを際立たせることによって、一般化された説明図式や性急な価値判断を退け、私たちの環境に対する眼差しを刷新し、思考を柔軟かつ複眼的にしてくれます。『自然と権力』は、いまや空虚なスローガンと化している「持続可能性」が歴史のなかで帯びてきた多様な意味合いを明らかにし、環境をめぐる諸利害の調整に関与する「権力」の様々な機能ぶりを浮かび上がらせることで、現在の環境政策に歴史的な奥行きを与えることに成功していると言えるでしょう。

ところで、エコ(環境)をめぐる諸問題は、原子力や気候変動がそうであるように、一義的な因果関係の立証を困難にするリスクの見通しがたい性質ゆえに、しばしば対立する立場の間の激しい論争にさらされています。また、エコに関わる政策や、人々がエコなトピックに対して示す反応も、つねに矛盾に満ちています(たとえば純然たる大企業向けの消費刺激策でしかないエコカーやエコ家電の優遇措置を考えてみればいいでしょう)。したがって、エコなテーマについて、ひとは実に容易に批判を浴びせかけることが可能です。しかし、エコな人々とアンチ・エコな人々との激しい対立は、「ある特定の歴史的状況のなかで人間にふさわしい条件のもと生き延びていくこと」という共通の利害を見えなくさせてしまう点で、不幸なものだと言えるのではないでしょうか。

ラートカウは、本書の日本語版のために新たに書き下ろされた「フクシマの事故の後に考えたこと、そしていくつかの個人的告白」と題された文章のなかで、自身の原子力論争の経験を振り返りつつ、「原子力エネルギーに批判的な書物は、どのみちすでに原子力技術に反対である人々にしか読まれないのであれば、たいして役には立たないのだ」と述べています。実際、原子力施設の安全性を確保するには、そして、廃炉まで含めた脱原発の実行を確実にするためにも、電力業界や原子力技術の専門家との協力関係は不可欠です。したがって、対立だけでは原子力の問題を解決することはできないのです。異なる諸利害と行動のオプションを明示する公共的な議論の設定が必要になります。「原子力ムラ」が批判されねばならないのは、原発推進の立場ゆえではなく、そうした公共的議論を封殺する仕組みとして機能しているからでしょう。

原子力問題を論じる書物に言えることは、環境問題を扱う書物にも当てはまります。ラートカウが『自然と権力』で試みていることのひとつは、意外性に富んだ発見と洞察をふんだんに提供することによって、思考を硬直させる紋切り型(それはエコロジストの側にもアンチエコロジストの側にも見出されます)を突き崩し、環境というテーマをめぐって対立する人々の間に対話を準備することです。それは環境政策の議論のために風通しの良い場所を用意することを意味します。環境史研究は環境政策にいかなる寄与をなしうるのかという問いは、終章で詳しく論じられていますが、本書の全体を貫く問いかけでもあるのです。かつてニクラス・ルーマンは、学問の機能は複雑性を縮減することにではなく、むしろそれを生産することにあると述べました。問題に対して直ちに解答を与えてしまうことで諸関係の固定化に寄与するのではなく、変化のポテンシャルを見出すために、世界(とその認識)を複雑化すること。本書は確かに環境問題の解決策を集めたハンドブックではありません。しかし、より良い解決策を見出すための前提となる複雑性の生産(変化のポテンシャルの認識)という作業を環境史において行っているのです。訳者としては、この書物が、環境問題を憂慮する人々と環境というテーマに懐疑的な人々の思考を等しく挑発し、活発な議論の糸口となることを期待しています。

最後にもうひとつ、この書物の魅力に触れておきましょう。ひょっとしたら、本書の最大の魅力は、ラートカウの「放浪する眼差し」が誘う諸時代と諸地域の遍歴にあると言えるかもしれません。ラートカウの環境史を読み進める読者は、膨大な文献を使いこなす著者の導きで、遠い過去の諸時代へ、また未知の景観へと誘われます。そして、そのときに読者はまた、そうした景観のなかを進む旅人ラートカウの歩みと眼差しをも行間に感じとらずにはいられないのです。あるインタビューでラートカウは、1996年にインドとネパールの森林史の書物をリュックサックに入れてヒマラヤを旅していたときに、『自然と権力』の執筆を決意したと語っています。ラートカウの環境史の魅力の根底には、おそらく史料批判と旅の経験の幸福な融合が見出されるのです。

なお本書はドイツでもアメリカでも、これまでに高い評価を得ています。ドイツでは多数の書評で絶賛され、『政治的エコロジー』誌によって、2000年の「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれています。2008年に翻訳が出たアメリカでは、世界史協会(World History Association)が本書の英語版に著作賞を与えています。また、アメリカ社会科学史学会(Social Science History Association)は、本書を特集した特別号を近々刊行予定とのことです。

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