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テレポリスの五年間 / アルミーン・メドシュ+フローリアン・レツァー

翻訳:海老根剛

インターネットの五年間、誇大宣伝と暴落のあいだで

私たちが五年前〔1996年〕テレポリス(Telepolis)を始めたころ、ウェブは商業的なプラットフォームとしてはようやくその端緒についたところであった。一方ではそのころ、当時その規模においてほとんど予想しがたかったほどの誇大な宣伝が行われた。それはあたかも、その新しさとグローバルな性質だけですでにエル・ドラドになることが約束されていた新たな大陸が発見されたかのようであった。さしあたり大きな利益を約束していたビジネス・コンセプトに莫大な金がつぎ込まれた。列車に乗り遅れないためには、誰もがすばやく行動しなければならなかったのだ。

最初の出発点では、まだたいていの場合、ユートピア的な希望と富の約束とが奇妙に混ざり合っていたのが、その後世論はただ終わりなき成長と巨大なデパートをウェブのなかに見るようになっていった ––– ただし、人々はEコマースの顧客としては引き続き慎重な態度をとりつづけ、むしろ新たなそしていまなお魅力的なコミュニケーションと情報交換の可能性に惹かれているのだが。

政治もまたこの流れに呑みこまれ、あらゆる手段を用いてみずからの足場をヴァーチュアルなデパートの諸要求に適応させようと試みた。都市の中心部と同様にこのデパートの売り場にも安全を確保し、秩序を乱す要素を取り除くことがもとめられるとともに、市民は、消費者としてそこに登場することができるために、いち早くインターネットへのアクセスを確保しなければならなかった。知的所有権(精神的財産)をめぐる争いも始まったが、そこでは著作権保護だけではなく、個人情報の監視と収集の問題が争われている。インターネットの法整備が進められる一方で、ヴァーチャルな空間は犯罪とテロリズムと戦争の舞台としても発見されたのだ。

それ以前には経済や政治の関心をあまり惹くことのなかったかつての遊び場に、多くの変化が起こった。爆発的な成長のあったこの五年間を過ぎてなお、インターネットは決してその終わりにあるのではない。私たちはようやくネットワークによって開かれれたものの見方を実現し始めたところなのだ。そうはいっても、インターネットに莫大な利益を期待する時期はひとまず過ぎ去ったようにみえる。結局のところ、利益は市場でではなく株式証券取引所でのみ生み出されたのだという事実に目をつぶることはもはやできない。もし現在、ある種の醒めた感覚が漂い出し、金鉱採掘者たちが彼らの手早く建てられた採掘地を去っていくなら、それは決して悪いことではない。私たちは再びより力強くこのメディアの現実的な諸利点を発見することでき、近視眼的な経済的・政治的思惑から性急にそれらの利点を葬り去らずにすむのだから。少なくとも私たちは、新たな諸技術、とりわけインターネットとともにもたらされるあらゆる種類の興奮に対して、つねに冷静な眼差しを注ごうとつとめてきた。

ウェブジンの危機?

確かに少なくともアメリカのオンライン・メディアは困難に直面しているし、それはもちろん私たちにとって考えさせられる事実ではある。テレポリスは結局のところ、Wired(1993年)の成功に続くべく創刊されたいくつかのアメリカの「ウェブジン」の一年後にスタートしたのである。Feed、Slate、Inside、Word あるいは Salon などのウェブジンはみな1995年にスタートした。いかなる種類のものであれウェブジンは読者と金をみずからのもとへ引き寄せ、徐々に古いプリント・メディアを干上がらせるだろう、当時、未来はそのような方向に進むようにみえた。現在にいたる間に確かに古い時代の[プリント]メディアもインターネット時代にみずからを開き、ウェブを占拠しもした ––– ただし、ドイツではこのプロセスには時間がかかったし、いまだなお結局はプリント版の内容がそのままオンライン版の中心を占めているのだが。

しかし、今年に入ってからは、オンライン版もまた干上がりつつあるようにみえる。Slate のように株式市場に上場したオンライン・メディアの株式は、好意的に言っても、著しくその価値を下げているし、すでにそれ以前には、オンライン版の読者にも新聞の定期購読者と同様に購読料を支払わせようとした New York Times や Slate の試みが失敗に終わっている。他所ではすべてが無料で手に入るのだから、読者数はたちまち激減し、それらのオンライン・メディアは再びすべての読者に門戸を開くことを余儀なくされた。しかしまた、将来はオンライン広告によって収入を得ることができるだろうという期待も、少なくともこれまでのところ満たされていない。しばしば将来の利益を当てこんで大規模に編成されていた編集部門は、ドットコム企業の没落とともに、完全に解体されるのではない場合にも、大幅な縮小を余儀なくされた。New York Times は人員の17パーセントを解雇し、CNN は130のポストを廃止した。The Street.com は、Salon や NBC と同様に、オンライン版の人員を20パーセント削減し、Murdochs News Corp では200のポストが廃止されている。

オンライン・メディアはポストを減らすだけではなく、再び印刷物の世界に足場を築こうと試みてもいる。つまり、オンライン・メディアは、本来そこから去ったはずの「古い世界」にまた戻っていくのである。たとえば、Inside.com は、目標とした有料定期購読者3万人の獲得が失敗に終わった後に、プリント・メディアをスタートさせることに決めた。Slate も同じような仕方で利益を得ようと試みている。いくつかのオンライン・メディアはラジオやテレビの番組を用いて「古い世界」に軸足を置こう試みている。これらすべては、オンライン・メディアには未来がないということを意味しているのではない。未来に到達するにはもう少し時間がかかるということなのだ。根気強く待たねばならない。オンライン・メディアは、とりあえず現在のところは、商業的な分野に根を下ろした場合、付加的な商品なのである。

テレポリスが1996年にスタートしたとき、私たちも出版社も、すぐに利益を得られるようになるなどとは考えていなかった。その予想がまったくリアリスティックであったことは明白である。だが、あらゆるオンライン・メディアが資金面で困難に直面している一方で、それらのメディアが成功しているのも確かだ。なぜなら、オンライン・メディアは ––– もちろんテレポリスもだが ––– ますます多くの読者に受け入れられているからである。ひょっとしたら現時点における、直接的な資金の再調達に関わる大きな問題はまた、インターネットの世界は全体として別のエコノミー(経済)にしたがうのではないかというという問題なのかもしれない。

コミュニケーションと交換:新たな経済?

ウェブはなによりもまず通信販売の電子的なプラットフォームとしての利用に適しており、ユーザーはあらゆる形態のEビジネスに熱狂的に殺到するだろうという仮定はおそらく、ユーザーの実態についての具体的な調査にではなく、むしろ急速に成長しつつあったEコマース帝国[=企業]の願望によって規定されていたのである。

いく人かの失望したEコマースのグルたちがくだす「ウェブはうまく機能しなかった」(The Bandwidth Dilemma)という結論も同様に誤りである。うまく機能しなかったのはウェブではなく、ウェブにかけられたいくつかの期待とある特定のウェブの活用・利用の仕方である。そのことを確認するにはいくつかの簡単な比較で十分だ。たとえば、[メディア技術の]「収束・集中化」(Konvergenz / convergence)というテーマ ––– そこで問題になっていたのはたいていの場合、テレコミュニケーションとテレビとの融合だったのだが ––– に関する出版物や会議の数を、大多数のユーザーがアンケートで最も重要かつ最も活用しているインターネットの利用方法としていまも頑固に「Eメール」を挙げているという事情と対照してみるといいだろう。モデムを使って56kの通信速度でネットのなかを動いているならば、Eメールは明らかに、帯域幅を食いつぶすテレビに似た実験に較べて、ずっとスマートなテクノロジーである。この種の錯誤はインターネットの受容史の全体を満たしている。あまりにもしばしば見過ごされてきたのは、WWW(World Wide Web)以前にすでに存在したインターネットの諸機能が現在もどれほど好まれているかということである。チャット(IRC)、ニュースグループそしてメーリングリストは実際にお金がかからず、つねに人気を博してきた。

しばしば歴史上もっとも巨大な広場(=市場)として賞賛されてきたインターネットは、ひょっとしたら、広場になるというこの約束を実現しているのかもしれない ––– しかしながら、それはマーケティング部門の人間の参加なしに、そして金銭が交換されることなくなされたのである。一般に「贈与経済」と呼ばれるもの、それがインターネットの最大の成功要因の一つであることが明らかになったとおそらくいえるのだろうが、それはしかし現金という形態をとりがたいものなのだ。いかなる対価の支払いも受けずに、また別の形での直接的な報酬を得ることもなく、コミュニケーションのさまざまな形態とアイデアの交換に多くの時間と労力を注ぎ込むことを、多くの人々が大いに好んでいるようにみえる。そこで交換されているのが高度に学術的なテーマであろうとまったくとるにたりない事柄だろうと、インターネットは事実一種の広場(=市場)なのだ。そこではしかしながら、現金の支払いなしにアイデアが取引されるのであり、レンタビリティ(採算性)は、それが可能だとしての話だが、ただ間接的な形でのみ生じうるのである。

もしそこでこのおしゃべりと交換への熱狂から経済的利益を引き出そうという試みがなされると、それはたいていの場合、あたかも自由なコミュニケーションに鎖をかけようとしているかのようにみえるのであり、ユーザーたちはやって来たときと同じ素早さで去っていくのである。このような事情のアクチュアルな具体例を提供しているのは、たとえば、Napster から有料の交換市場を作り出そうという試みである。すでにその試みの初期段階において明らかに多くのユーザーが別の同種の Peer-to-Peer システムへ移動しており、Napster で交換されるファイルの総量はすでに従来の半分に落ち込んでいる。 私たちもまた結局のところ私たちの活動によって収入を得なければならないのだから、そのような事態の推移にたいして密かに他人の不幸を喜ぶような態度をとるのは適切ではない。だがはっきりしているのは、活況を呈している贈与経済を用いてお金を生み出すことを可能にする賢者の石はいまだ見つかっていないということであり、それはまたおそらく、あらゆる活動に適用可能であるようないわゆるビジネス・モデルとしては決して見出されえないだろうということである。そして、もしこの問題の解決がそもそも可能であるとしたら、それは頑強なかなてこを用いることによってではなく、ただインターネットが可能にしまた促進する発展に沿った形でのみ可能だということもまた、そろそろ認識されてしかるべきだろう。つまり、ネットの諸特性に逆らってではなく、それらの諸特性とともに考えるべきなのだ。それによって、いくつかの利便性(usability)についての研究と実際のアクセス数と売上の少なさにたいする失望を省くことができる。

この錯誤にはもうひとつの錯誤が結びついている。つまり、ネットの贈与経済はクリエイティヴな人々の利益を脅かすだろうという、繰り返し主張されている錯誤である。この神話は、なによりもまず、これまで古いシステムのもと他人のクリエイティヴィティによってもっともいい思いをしてきた人々 ––– すなわち、音楽・出版業界そしてその他の大企業として結託した権利所有者たちである ––– によって捏造され、維持されているのだ。これらの人々はみずからの基盤が脅かさているのを目の当たりにしている。というのも、彼らはいまだパラダイムの転換をともに成し遂げていないからである。そしてそうであるかぎり、彼らはまた正当にも脅かされていると感じるべきなのだ。

ところで、この単純な両極化、つまりネット上にある音楽がネットの外でなされる音楽制作を抹殺するだろうという ––– 文学や他の文化形態にも適用されうる ––– 考え方は、思考の短絡である。先日掲載された哲学者ミシェル・セールについての記事[インタヴュー]でも触れられているとおり(Der Pirat des Wissen ist ein guter Pirat)、ネット上のエクリチュールは、単に書籍印刷にとってかわるのではなく、エクリチュールの生産に単純にもうひとつ新たな次元を ––– 電子的な書かれた言葉という次元を ––– つけ加えるのだと仮定することは本質的により意味深いことである。たとえば、書物がそのような新たなエクリチュールの登場によって苦境に陥るだろうということではないのだ。それどころか、電子的なテクストが長期的には書物を救うということさえありうるだろう。これはテレポリスが実践的に支持しているテーゼでもある。というのも、私たちは最近また書物を出版しているからである。

メディアの収斂のかわりに拡散が生じている

私たちは今日おそらく、[メディアの]収斂化(Konvergenz / convergence)ではなく、むしろ分岐・拡散(Divergenz / divergence)を、つまりメディアとそこに見出された利益 ––– 利用者に実際に受け入れられた様々な利用方法 ––– との新たなしばしば驚くべき諸結合をこそ祝わねばならないのだ。たとえば、それぞれ3つの文字が割り当てられた小さなボタン用いてメッセージを入力し、それをおたがいに送信しあって何時間も過ごすことが、携帯電話ユーザーのお気に入りの作業になるなどということを誰が五年前に予言しただろうか。そこでは驚くほど創造的な仕方で省略記号や句読点が感情の表現として用いられている。そのようにして、テクスター[TEXTER 携帯電話を用いてテクストを書いている人々]のあいだで、新たな言語が生まれつつあるのだ。

それとともに指摘されるべきなのは、インターネットは今後、過去五年間とは異なったものになるだろうということである。インターネットの機能はますます多くの機器のなかに組み込まれていくだろう。ある者はひょっとしたらもっぱらゲーム・コンソールを介してネットを利用するのだろうし、またある者はセットトップ・ボックスの提供するインタラクティヴな機能で満足し、そしてまた別の者はワイアレス革命につねに帯同し、インターネットをモバイルで体験することを最も好むことだろう。ひょっとしたら、オフィスの灰色の四角いコンピューターが、そのデスクトップの隠喩系とタイプライター型キーボードそして「マウス」もろとも、過去千年に由来する恐竜のように見えるまでに、それほど長い時間はかからないのかもしれない。

だが私たちは、あるひとつの利用方法が他の利用方法に完全にとってかわると予言するような誤りを犯したくはない。はるかにありうることは、それらすべての利用方法が、まったく分岐・拡散という意味で、隣合って存続しつづけ、それぞれファンと敵を持ち、またそれぞれ問題点と長所を持つだろうということだ。私たちが最初から取り組んできたテーマ ––– たとえば、プライヴァシーに関わる情報の保護、匿名によるコミュニケーションの権利、権力者たちのいっそうの透明性と参加に対する義務など ––– は、そのような発展によって消滅することなどなく、むしろつねに新たな形をとって現れ、新たな重要性を獲得するだろう。

ほぼ、デジタル革命

私たちはすでに初めから注意力・注意深さ(Aufmerksamkeit)というものに着目し、注意力の経済およびショックの文化についての考察をとり入れようとしてきたし、なによりもまず、知的所有権(精神的財産)に関わる諸テーマに大きな注意を払おうとつとめてきた。たとえば、つい最近イェルク・アルプレヒトが Zeit [ツァイト:ドイツの週刊新聞]にひとつ記事を書いているが、そのタイトルは現在の惨状を説明することをみずから買って出る –––「精神はいかにして犠牲になるのか。インターネットが文化市場を破壊する。音楽、文学、知 ––– 他人の創造したものをインターネットは贈与する。そして作者が大きな自由の代償を払うことになる」。

責められているのはしたがって、なんらかの仕方でインターネットの実質をなし、交換市場やニュースグループあるいはチャットルームという形でいまなお繁栄している文化が ––– 少なくとも簡単には ––– 従来のビジネス・モデルと両立しがたいようにみえるということなのだろう。最終的にインターネットを破壊しないですむような説得力のある解決策はいまだ見つかっていない。だがそのことは、いまやインターネットの初期とは正反対の極へ針が振れつつあるということを意味するのではないだろう。当時いく人かのインターネット預言者たちが、[ネットの持つ]技術的な可能性はすでにただそれだけで現実世界の構造をも変えることになるだろうと主張したとするなら、現在顕著になりつつあるのはむしろ、インターネットを政治的、法的、文化的そして経済的に、既存の構造に服従させようとする態度であるように思える。テクノロジーはつねに人類の歴史を(他の諸要素とともに)形作ってきた、しかし、おそらくそれはたいていの場合、人間が思い描き、望んだのとは別のかたちでそうしてきたのだ。

知的所有権(精神的財産)の確保と情報の自由な流通とのあいだにあるような様々な葛藤は、確かに新しいメディアにおいて、しばしばただ再び、新たなそしてより先鋭化した形で認識されるのであり、それらは今後も引き続き私たちについてまわるだろう。そしてそのような葛藤はまた、新たなモデルの発展に導くこともありうるだろう。新たなモデルの発展はつねに古いモデルの破壊とともに進行する。まさにこの点が、インターネットを ––– 長い間、たとえば Wired によって呼び覚まさされた「デジタル革命」の基盤として ––– 政治から私的なコミュニケーションにいたるあらゆるレベルで興味深いものにしてきたのであった。すでにこの理由からだけでも、インターネットが引き起こしまた可能にした様々な変容を、ともかくもすでに五年間にわたってウェブジンという形で批判的にかつ好奇心をもって注視してきたということ、そしてこれからも引き続き先入観にとらわれることなく注視していけるということは、素晴らしいことである。私たちはその際、直接的にはネット文化に属していないがこの文化に影響を与えている領域をもつねに取り扱ってきた。最後に、1996年以来この五年間で見過ごしがたく明らかになった点を指摘するなら、それは、インターネットは古い現実の外部にある新たな現実ではないということ、そうではなく、インターネットはこの古い現実のなかに侵入し、それを根底的に変容させ、さらに現実のネットワーク化とともにみずからも変化していくのだということである。

Armin Medosch, Florian Rötzer: 5 Jahre Telepolis. 19.03.200 1in Telepolis.
Copyright 1996-2001 All Rights Reserved. Alle Rechte vorbehalten. Verlag Heinz Heise, Hannover.

〔訳者付記〕本稿は2001年3月19日、創刊五周年を期にドイツのウェブ・マガジン テレポリス TELEPOLIS に掲載された創設者自身による記事の翻訳である(記事原文)。メディア理論およびネット文化に関心のある読者の間では「テレポリス」はすでに広く知られており、また本稿でも同誌の基本的な立場ははっきりと触れられているのであらためて詳細な紹介をする必要はないと思うが、はじめて同誌のことを知る読者のためにごく簡単な紹介文を記しておきたい。

本稿の著者たちによって五年前に創設されたテレポリスは「ネット文化のウェブジン」として、ハノーファーの出版社 Heinz Heise の支援のもと、創刊以来今日まで活発な活動を続けている。多彩な執筆陣を擁し、毎日平均6〜8つの記事 –––1日に10以上の記事が更新されることも珍しくない ––– が新たに掲載される「テレポリス」の活動をバックアップしている出版社 Heise (ハイゼ)は、おもにコンピュータ技術に関わる書籍・雑誌を出版しており、とりわけ同社の運営するポータル Heise Online −−コンピュータに関わる最新情報が日々提供されている−−とともに二つの雑誌 ––– C’t および iX ––– はドイツを代表するコンピュータ雑誌として広く知られている。C’t は「コンピュータ技術のための雑誌」としてコンピュータを使う幅広いユーザーを読者層として想定しているのにたいして、iX は「プロフェッショナルな情報技術のための雑誌」として、システム・エンジニアやソフトウェア開発者のあいだで広く読まれている。いずれの雑誌にも共通しているのは、ハードウェアおよびソフトウェアの技術的な細部にまでわたる詳細な分析と、セキュリティ、暗号化技術やファイル・シェアリング、知的所有権問題など技術がもつ社会的側面への批判的な関心の高さである。ちなみに、「テレポリス」の執筆者の何人かは両誌にも記事を定期的に寄稿している。

「テレポリス」自身について言えば、同誌の特徴のひとつとして、その関心領域の幅広さがあげられる。 「ネット文化のウェブジン」という肩書きから、コンピュータ技術とインターネットそれにサイエンス・フィクションを中心とするいわゆる「サイバー・カルチャ−」についてのオンライン・マガジンを想像する人も多いと思うが、本稿で筆者自身も触れているとおり、「テレポリス」のカバーする領域はそれらの分野に限られていない。ネットが物質的な現実の外部にある自律した空間ではなく、現実を構成するネットワークの一部である以上、ネット文化はコンピュータの世界を越えて、現実の多様な諸側面と接触することになる。このことはたとえば、9月11日以後世界中で起こったさまざまな出来事 ––– たとえば、ウェブサイトとニュースグループを舞台に展開した激しい情報戦、市民の自由とプライバシーに対する規制の強化、さらにはインターネットに対する監視の強化とFBIの擬似ウィルス「マジック・ランタン」に代表される新たなネット監視技術の登場とそれに対する対抗策の開発 ––– があらためて証明したといえるだろう。

「テレポリス」のカバーする領域をごく大雑把に知るには、同誌が Special という枠にリストアップしているテーマを一瞥するのがいいかもしれない。 Spielplatz(「遊び場」:コンピュータ・ゲームの歴史) 、 Zeitmaschine(「タイム・マシーン」:メディアと集団的記憶の歴史)、 Informationsfreiheit(「情報の自由」:情報社会における市民の基本的権利としての情報の自由と官庁書類の公開性、権力の市民に対する透明性の確保)、 Digitale Städte(「デジタル都市」:ネットワークの中の都市)、 Libertäre Ideologie(「アナーキー自由主義イデオロギー」:このイデオロギーとインターネット技術・文化との関係性)、 echelon(アメリカの主導によって開発されたグローバルな情報監視・盗聴システム echelon について ––– 「テレポリス」はこのシステムの存在が公になるにあたって大きな役割を果たし一躍有名になった)、Biotechnik(「バイオテクノロジー」:学術誌 Nature などに掲載される最新の研究成果の紹介や研究者へのインタビュー)、Game(コンピュータ・ゲームの紹介)、 Aufmerksamkeit(「注意力・注意深さ」:本稿でも触れられている「注意力の経済」についての分析、スペクタクル社会分析にも通じるが生物学・生理学的的知見をも導入する)、Infowar(「情報戦争」:戦争、テロ、革命と情報技術、ネットワーク)、Weltraum(「宇宙空間」:天文学および宇宙開発プロジェクトの動向のフォロー)、Evoltuion der Kreativität(「創造力の進化」:物理学者チャールズ・ラムデンによる論考)が現在のところリストアップされている。この他にも定期的に更新される枠組みとして、「書物」「映画」「音楽」そして「オンライン出版」、「科学」などがあり、また本稿の執筆者のひとりであるアルミン・メドシュはネット・アートのオンライン展覧会 Shopping Windows を企画している。狭義の「文化」の枠組みをはるかに超え、政治、経済からナノテクノロジー・遺伝子学などの最先端の自然科学までをカバーしつつ、それら諸領域間の多様な関係性を追跡する「テレポリス」のスタンスは、数あるネット・マガジンのなかでもきわめて独自なものだといえるだろう。

そして、これも本稿で触れられているが、「テレポリス」はまた書物も出版している。これまでのところ、”EXE ungelöst: Die Axel-Files”(インターネットに関わる諸現象についてのエッセイ)、”Netzpiraten”(「ネットの海賊たち」:ハッカー、ウィルス、違法コピー、サイバー・テロリズムをめぐる論考集)、”Vom Ende der Anonymität”(「匿名性の終焉」:さまざまな情報デヴァイスの監視技術の進展について)が出版されている。いずれも「テレポリス」の記事を元にしつつも、全面的に書き直され、さらに外部の専門家・研究者による記事を追加し、たんなるネットのプリント版ではない、独立した書物となっている。

そして最後に触れられるべきは、このように幅広い関心領域を扱うウェブジンに、きわめて批判的な眼差しをもって伴走する読者層の存在であろう。実際のところ、各記事の下部に用意されたフォーラムでのやりとりに代表される読者の積極的な参加は「テレポリス」にとって不可欠な構成要素となっている。ここではウェブジンの技術的な側面(テクストの読みやすさ、有益なリンクの使用、レイアウトの柔軟さ、操作性の良さ、複数のアクセス方法の確保、ダウンロード機能など)もまた大きな役割を果たしている。

最後に本稿の翻訳掲載を快く承諾してくれた Florian Rötzer 氏とテレポリス編集部への感謝を記しておきたい。

(初出:boid.net、2001年4月)

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