美意識と不寛容

ヘルミニア・ツーア・ミューレン(Hermynia Zur Mühlen)の自伝的エッセイ “Ende und Anfang. Ein Lebensbuch” は、1928年11月から「フランクフルト新聞」に連載され、翌年フィッシャー社から書物として出版された。最近、この本を読んでいて、次のような一節に出会ったのでメモしておく。

Von allen Arten der Unduldsamkeit vermag man sich am allerschwersten von der ästhetischen, vielleicht der grausamsten von allen, zu befreien. Sie schafft Notwendigkeiten, ohne die man das Leben unmöglich findet, sie nährt die Feigheit, die einen die einzige unverzeihliche Sünde begehen läßt: der anerkannten Wahrheit widerstreben. Sie schafft Menschen, die ihrer Überzeugung zuliebe wohl einer großen Tat, vielleicht sogar der Aufopferung ihres Lebens fähig sind, die aber nicht imstande wären, ein “Rotes-Plüschmöbel-Dasein” zu ertragen. Wirklich gefährlich, eine wirkliche Fessel sind nur die kleinen Dinge des Lebens, sie haften wie Kletten und wollen sich nicht abschütteln lassen.

 

あらゆる種類の不寛容のなかで、身を振りほどくのがもっとも難しいのは、美的な不寛容である。これはひょっとしたら、もっとも残酷な不寛容かもしれない。美的な不寛容は、それなしでは生きられないと思わせるような諸々の必需品を作りだし、ある臆病さを生み育む。そしてこの臆病さが、公然たる真実に抵抗するという、許されないただひとつの罪をひとに犯させるのだ。美的な不寛容は、みずからの信念のためには偉大な行為を成し遂げることができ、そのためにならみずからの生命を犠牲にすることさえ厭わないのに、「赤いフラシ天の家具を好む人々」を許容することのできないような人間を生み出す。とても危険なことだ。本当にひとを縛りつけるのは生活の細々とした事柄である。それらは衣服にくっつく雑草の実のようにまとわりついて、振り払うことができないのだ。

Hermynia Zur Mühlen: Ende und Angang. Ein Lebensbuch. (1929) In: Werke Band 1. Erinnerungen und Romane. Wien, 2019, S. 108.

ヘルミニア・ツーア・ミューレンは 1883年12月12日にウィーンに生まれた作家で、出生名は Gräfin Herminie Isabella Marie Folliot-Crenneville de Poutet という。この恐ろしく長い名前からもわかる通り、彼女はオーストリア=ハンガリー帝国の由緒ある貴族の家系の一員だった。

父方のクレヌヴィル家はフランス革命のさいに国外に逃れたノルマンディー出身の亡命貴族で、ツーア・ミューレンの父ヴィクトール(Victor Folliot de Crenneville-Poutet)は外交官だった。ヴィクトールの母ヘルミニー(Herminie Chotek von Chotkowa und Wogin)は、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナントの妻になる Sophie Gräfin Chotek(後のホーエンベルク侯爵夫人)と親戚関係にあり、ヴィクトールの父フランツは、帝国の軍隊で高位にまで昇りつめ、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からハプスブルク家の美術宝飾品コレクションの管理を委ねられた人物だった。一方、母親のイザベラ(Isabella Luisa Alexandrina Maria)の家系はルーツがイギリスにあり、母親と疎遠だったツーア・ミューレンにとっては、トラウン湖畔のグムンデンに住んでいた祖母の伯爵夫人 Isabella Luise Gräfin von Wydenbruck が重要な人物だった。ちなみに彼女の姓(ツーア・ミューレン)は最初の結婚に由来し、相手はいまのエストニアに地所を持つドイツ系ロシア人の地方貴族の男だった。

“Ende und Anfang”(『終わりと始まり』)は、伯爵令嬢として育てられた著者が貴族の生活と決別し(夫とも別れ)、コミュニストの女性作家として生きることを決意するまでの日々を綴ったエッセイである。かつて確かに存在したオーストリア=ハンガリー帝国の貴族たちの世界(それを彼女は外界の喧騒から遮断された「適温に保たれた温室」と呼ぶ)の最期の日々を、そこで育った子どもの眼差しを通して描き出す魅力的な回想の文学になっている。

上に引用した一節は、直接にはツーア・ミューレンの母親についてのコメントである。彼女の母親は生活の全体を細部に至るまでみずからの美意識にもとづいて厳格に管理した人物として描かれている。邸宅の家具調度や身だしなみはもちろんのこと、花瓶に生けられる花はつねに壁紙の色と調和していなければならなかったし、日々の料理も完璧に調味され美しく盛りつけられている必要があった。目に入るものすべてが美しく整えられていなければならなかったのだ。そんな彼女は、年齢を重ねるという現実を受け入れることを拒否して、年長の夫を持つ若く美しい妻を演じ続けるために、人前で娘と一緒にいることを極度に嫌った。子育てにもほとんどタッチしなかった。娘同伴で旅行することに耐えがたい苦痛を感じる母の様子を、ツーア・ミューレンは回想している。

だがもちろん、この一節で語られているのはそれだけではない。というのも、1920年代末にこの言葉を書きつけているのは、みずからが生きる世界の公然たる真実、すなわち資本主義社会における労働者の搾取と不正義に正面から向き合い、みずからの生活の細部にまで浸透した美意識から身を振りほどくことで、現実の変革のために文学的実践を組織した作家であるからだ。この文章を書いたころ、ツーア・ミューレンは、ハンガリー出身の翻訳者であるパートナーと、フランクフルトに暮らしていた。すでに少女時代に、父親の書斎の書棚にあった思想や文学の書物を読みふけっていたときにツーア・ミューレンは社会主義の思想と出会っていたが、彼女をあらため感化したのは、後年、父親に付き添って北アフリカや中東やヨーロッパの各地を遍歴していたときに、ジュネーヴで出会ったロシア人の医学生ナターシャとの交流だった。その後、権威的で保守的な夫との生活に疲れ果てダヴォスで療養していたときにロシア革命の知らせを聞いたツーア・ミューレンは、生まれ育った「適温に保たれた温室の世界」と決別し、両親や夫からの財政的な支援も放棄し、労働者の闘いに参画すべく生きることを決意する。そして1919年にフランクフルトに移住し、経済的には過酷な条件のもと、新聞への寄稿やアプトン・シンクレアなどの翻訳で糊口をしのぎつつ、労働者を主人公とする政治性の強い小説や労働者の子どもたちのためのメルヒェン、さらには Lawrence H. Desberry というペンネームを用い、みずからは翻訳者を装って、資本主義批判的な視点を秘めた探偵小説を多数執筆した。当時のツーア・ミューレンの住居には、他の場所では居合わせることのないような多種多様な人々 –– 作家、労働者、革命家、フランクフルト在住の知識人や貴族たち –– が集い、あらゆる事柄について語り合っていたという。

ツーア・ミューレンは、労働者たちに言葉を届かせるために、みずからの深い教養と美意識を犠牲にすることも躊躇しなかった。彼女がみずから「プロパガンダ小説」と呼んだ作品を今日どのように評価すべきなのか。それらの小説は単に読者を扇動し思想を植え付けることを目的とした書物とは異なる質を備えている。2019年に選集が出版され、ようやくいま再評価の試みが始まりつつあるようだ。いずれにせよ、現時点ですでに(あるいはいまなお)確かな真実であるのは、私たちの現実が異なる美意識を持つ人々から構成されているということである。異なる美意識を持つ人々(私とは異なるものに美しさを感じる人々)を拒否することは、そのまま現実を拒否することにほかならない。

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