京都のE9で田中功起の『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』を見る。
E9は劇場なので厳密には映画館ではないけれども、今回の上映のフォーマットは完全に映画館と同じだった。大きなスクリーンがあり、それに向き合うかたちで階段状に座席が並べられ、完全に暗転された状態で他のお客さんといっしょに同じ映像の投影を見つめる。完全に映画である。にもかかわらず、この作品からはまったく「映画」の匂いがしなかった。作家もこの作品を「映画」と呼び、クレジットでも「A Film by …」と書かれているにもかかわらず、「映画」を見ているという感触が皆無だったのである。じつは今回、作品の内容以前にもっとも衝撃的だったのは、このことだった。映像を見ながら、ずっとこの感覚がどこから来るのかを考えていた。映画館が映画作品の上映と鑑賞の特権的な場でなくなって久しいが、この作品は、そうした現在の条件のもとで「映画」を定義するものは何なのかを考えるのに格好の素材を提供している。この点はじっくり考えてみたい。
ここではそれとは別のことを考えてみる。田中功起の近年の作品を見ているときにいつも感じるある種の「居心地の悪さ」についてである。
田中功起は国際的に活躍しているアーティストなので、現代美術の動向を熱心にフォローしているわけではない私でも、比較的多くの作品を見ている。2019年のあいちトリエンナーレの展示はすでに閉鎖済みだったが、「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭 2015」での《一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946年~52年占領期と1970年人間と物質」》、同じ年にベルリンの Deutsche Bank KunstHalle で開催された個展「Koki Tanaka – A Vulnerable Narrator」、それに2017年のミュンスター彫刻プロジェクトの展示 “Provisional Studies: Workshop #7 How to Live Together and Sharing the Unknown” も現地で見ている。『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』はミュンスターのプロジェクトと主題的な繋がりが深く、私たちの社会における分断の現状と、文化的なバックグラウンドや感受性の異なる他者たちと経験を共有する可能性が探求されている。
田中功起を「映像作家」として見た場合、その美的なスタイルには明瞭な作家性がある。クリアーにしてクリーン。一言で言うとそうなる。コントラストやや低め、明度やや高めの映像、協働する人々を示すときのスローなカメラの移動と固定ショットの組み合わせ、明晰な構成、プロトコルに沿ったアクションの反復。声を荒げたり、荒々しい振る舞いをする人物は決して登場せず、意味不明なノイズが紛れ込んだり、カメラが予想外の急な動きをすることもない。
こうした美的スタイルの厳格さと首尾一貫性は、それ自体、批判されるべきものではない。アートが鑑賞者の日常的な感受性を組み換えて再配置することを目指すなら、視聴覚的な記号の現れに対する厳密さは不可欠である。田中功起の作品の場合、クリアーでクリーンな映像の美学は、カメラの前でうまくいかないかもしれない協働に参加するというリスクを引き受けた人々を守り、プレカリアスなコミュニティの探求を可能にする、一連の作業の不可欠の構成要素であるはずだ。異なる文化的バックグランドと美意識を持つ美容師たちや詩人たちが協働してひとつの制作物を作り上げるとき、そこにはつかの間の脆弱なコミュニティが成立する。その意味で、それらの作品における映像の美学は、包摂の美学だった。
ところが、近年の作品、特にミュンスター彫刻プロジェクトの “Provisional Studies: Workshop #7 How to Live Together and Sharing the Unknown” と『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』では、映像の美的スタイルはほとんど変化していないにもかかわらず、その機能が180度変わってしまったように思える。包摂の美学だったものがいつの間にか排除の美学になってしまったのである。あるいは、かつては意識されなかった排除の力学が前景化していると言うべきか。
田中功起が Socially Engaged Art に接近するにつれて、それまでの作品ではほとんど意識されることのなかったフレームの外部がその存在を主張し始めた。このフレーム外にいるのは、撮影スタッフやアーティスト本人ではない(こうした「裏方」の映像を挿入することはこれまでもあった)。そうではなく、そこにいるのは田中功起の作品から排除された者たちである。ミュンスターの作品であれば、ペギーダ(PEGIDA「西欧のイスラム化に反対する欧州愛国主義者」)のデモに参加する排外主義的な市民たちや右派政党 AFD(Alternative für Deutschland)の支持者たち、『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』であれば在特会の連中である。彼らはフレーム内の人々が憂慮のまなざしを向ける「愚か者たち」である。田中功起の作品がアクチュアリティを増したのは、まさしくこうした愚か者たちが無視しえない存在になったからだが、そのことが逆に田中功起の作品でそれまで意識の外に追いやられていたフレーム外を鑑賞者にいやおうなく意識させることになったのである。
ミュンスターの作品でも、田中は多様な文化的バックグランドを持ち、異なる社会階層に属する人々を引き合わせてプレカリアスなコミュニティの可能性を探求している。しかし、そこに参加している市民たちも、彼らのやり取りを見ている鑑賞者も、じつはそこにいない人々、あの「愚か者たち」のことを考えているし、考えざるをえない。その結果、かつては包摂的ななものにみえたプレカリアスなコミュニティが、排除のうえに成り立っていることが明らかになってしまうのである。
同じことが『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』でも起こっていて、2人の若者の対話を見て、彼らの言葉に耳を傾けながら、私たちはフレームの外部に留められている愚か者たちのことを考えざるをえない。もちろんこの映画で問題になっている差別は社会の隅々にまで行き渡っていて、マジョリティ社会の一員なら誰もが加担しているものであるが、田中功起の作品を見る人々の大多数は、YouTubeで在特会のヘイトデモの映像を見るクリスチャンと同様に、憂慮する側に自分を位置づけることになるだろう。愚か者たちはラップトップの画面のフレームのなかに押し込められていて、映画のなかで生じるプレカリアスなコミュニティ(2人の若者のあいだのそれ)の外部であり続けている。彼らの映像が作品全体の映像の美的スタイルを脅かすことは決してない。
田中功起の作品が試みるプレカリアスなコミュニティの外部が意識されることで、かつて包摂の美学だったものが、排除の美学であるように感じられることになる。そして、これらの作品を見ながら、私たち観客(の大多数)はそこに登場する憂慮する市民たちの側に自分を位置づけることになるのだが、それは田中功起の作品に登場する人々のうちに、自分自身の自画像を見ることにほかならない。『可傷的な歴史(ロードムーヴィー)』の最後のパートで、田中功起が在特会の連中との共生などありうるのかと尋ねるクリスチャンに煮え切らない応答をしているのを見るとき、私たちはとても居心地の悪い思いをする。というのも、そこで口ごもるアーティストの姿は私たち自身の姿でもあるからである。田中功起はみずからの作品の限界を取り繕うことなく提示している。私たちがすべきなのは、アーティストを詰問することではなく、私たち自身で答えを探すことなのだろう。