空族の映画の力は世界を理解しないことにある。空族にとって、このクソのような世界を「理解する」ことは、それ自体ですでに「同意する」ことを意味しており、断じて受け入れることのできない事柄である。「グローバル化した現代世界は理解するのが難しい。普通の人々にも理解できるように、エリートは平明な言葉でグローバル化の恩恵を説明すべきだ」。世界各地でポピュリズムが台頭するのを目の当たりにして、多くの人々がそう語っている。しかし事実はまったく逆なのだ。私たちはあまりにも簡単にすべてを理解してしまう。そして理解することで、同意を与えてしてしまう。この世界がクソであることの原因の一端は、私たちがあまりに「物分かりがよい」ことにある。だとすれば、「世界を理解しない力」を獲得することは、このクソである世界を変える第一歩になるはずだ。何事も140字もあれば説明可能だとみなされている現代では、世界を理解しないことのほうがはるかに難しい。世界を理解しないでいること。それは怠惰であるどころか、途方もない量の労働と、思考のエネルギーを必要とする。空族の実践が示しているのはそのことである。
たとえば、空族のトレードマークとも言える集団制作の方法論や、ソフト化やストリーミングを拒み続ける時代錯誤も甚だしい上映実践のことを考えてみる。こうした空族の映画作りの特徴はすべて、現にあるこの世界(支配的な映画産業の仕組み)を理解することの拒否、それに同意を与えることの拒否に根ざしている。彼らが日本の映画産業の「事情」を少しでも理解してしまったら、そしてそれに同意してしまったら、彼らがいま作っているような映画は決して生まれ得ないだろう。
あるいは空族の映画に登場する人々のことを考えてみてもいい。空族が魅了され、カメラを向けるのは、きまって自分たちの置かれた苦境の全体を理解できていない人々である。このことはおそらく偶然ではない。『国道20号線』に登場するヤンキーあがりの若者たち。『サウダーヂ』で描かれる地方都市在住のブラジル移民や土方たち。『バンコクナイツ』の舞台である日本人相手の歓楽街で働く娼婦たち。彼らはみな、それぞれに深刻な苦境に直面し、もがき苦しんでもいるが、誰一人として自分たちが置かれた状況の全体を理解していない。みずからの苦境の本当の原因がどこにあり、真の敵は誰なのか、彼らはわからずにいる。自分たちが放り込まれた世界に対する理解を決定的に欠いたまま、行き場のない怒りだけが鬱積していく。
世界がいまあるような世界でしかないことに対する行き場のない怒り。空族のすべての映画の根底には、この怒りがある。たとえば『国道20号線』のラストで、ヒサシがバイクで夜の国道をゆくあてもなく走り続けるとき、私たち観客を射抜く感情。それがその怒りである。だがそれにしても、あのラストシーンがあれほどまでに切迫していたのはなぜなのか? それは第一に、あのときヒサシが世界に対する理解を完全に失っていたからだ。彼にとって、あのとき世界はひとつの巨大な闇でしかなかった。もし世界を少しでも理解していたなら、彼にはどこか行き先があったはずである。しかし、ヒサシのバイクにはもはや行き先は一切存在しなかった。だが他方ではまた、あの場面があれほどまでに切迫したものになったのは、空族がヒサシの生きる現在に徹底して内在し、世界に対する理解の欠如を彼と完全に共有することで、行き場を失った怒りの中に生の内実をつかみ取ろうとしていたからである。この作品で空族は、ヒサシのような人々の「問題」を理解しようとはしていないし、その理解を観客と共有しようともしていない。観客に対してヒサシたちの苦境の原因がどこにあり、真の敵は誰なのかを説明したりもしない。もしそんなことをしていたら、空族は彼らの世界の外側に立ち、観察者然として振る舞っていたことになるだろう。しかし空族にとって重要だったのは、彼らの理解を欠いた怒りにどこまでも内在することであり、そうすることで、彼らの行き場のない怒りのうちに「この世界を理解しない力」を、すなわち「この世界への同意を拒否する力」を探り当てることだったのだ。
したがって、空族の映画の力は内在からもたらされる。空族は彼らがカメラを向ける人々の生活に徹底して内在しようとする。空族は人々が暮らす場所に赴き、そこで生活し、彼らとともに飲み、食い、語り、遊ぶ。カメラを回し始める前に膨大な時間を費やして、まず彼らの仲間になる。それは彼らの感覚と思考を共有することにほかならない。そうすることで空族は彼らの生活の共犯者になり、彼らも空族の映画の共犯者になる。この時間をかけて醸成される、映画と生活が見分けがたいほどに混ざり合った共犯関係こそが、空族の映画に登場する人々の「演技」に特別な質を付与しているのだ。
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しかし「世界を理解しない力」を獲得するということは、単に世界に対する無知を決め込むということではない。人々の理解を欠いた怒りに深く内在し、そこから「この世界への同意を拒否する力」を引き出すには、彼らの無知を共有するだけではまったく不十分なのだ。むしろすでに冒頭で述べた通り、いまや本当の無知など存在せず、空族自身も、彼らの被写体となる人々も、そしてもちろん観客である私たちも、誰もがこの世界について幾ばくかのお手軽な理解を持ち合わせている。だからまずはその理解を砕かねばならない。空族の映画作りのもうひとつのトレードマークである徹底したリサーチの意味はここにある。空族は歴史や政治や社会についての本を読み、資料を集め、さまざまな場所を訪問し、文学や映画や音楽を漁る。つまり彼らがカメラを向ける人々が必ずしも所有していない知識を貪欲に吸収する。だがそれは世界を理解するためではない。むしろ理解から解放されるためである。暴力と抵抗の記憶にアクセスすることで、そこから「この世界への同意を拒否する力」を得るためである。この徹底したリサーチの作業を経ることではじめて、彼らの被写体となる人々の怒りを、あれやこれやの直接的な原因から切り離し、「世界がいまあるような世界でしかないことへの怒り」へと変換することが可能になる。
被写体となる人々の現在への内在と暴力と抵抗の記憶を探る徹底したリサーチ。空族の映画作りを構成する二つの側面の間の微妙な力学は、相澤監督の『バビロン』シリーズに最も鮮明に現われている。『花物語(BABYLON)』と『バビロン2 -THE OZAWA-』で何よりも唖然とさせられるのは、映像と字幕(英語ナレーション)の圧倒的なバランスの悪さである。どちらの作品も主人公は若い男で、個人的な事情から東南アジアの旅に出る。私たちが見るのは、いかにもバックパッカーが撮影したような8ミリの映像である。ケシの花や村の風景や現地の子供たちを示す映像は旅行者の眼差しそのもので、現地の人々との深い交流が生まれたりはしはない。しかし、そうしたプライベートな映像の連なりは、唐突に膨大な量の字幕(ナレーション)によって中断される。スクリーンを埋めつくす文字(声)が語るのは、ベトナム、ラオス、タイを舞台に西洋諸国、日本、中国、アメリカが繰り広げた麻薬と戦争の血塗られた歴史である。物語(映像)は歴史(言葉)の暴力的な介入によってくり返し中断され、決して滑らかに流れることがない。そのさい圧倒的なのは、「参考文献」(リサーチ)から引用される言葉のほうであり、旅の映像は言葉の物量の前にほとんど霞んでしまう。
なぜそれほどまでに大量の言葉が必要とされるのか? それは「映像に映らないもの」があるからである。旅先の映像に映らないもの、それは「歴史」であり、「地政学的空間の広がり」である。だとすると、言葉はそこで映像の欠落を埋める役割を果たしているのだろうか? 映像と言葉が補い合うことで、歴史に対する観客の理解が深められているのだろうか? 答えはノーである。『バビロン』シリーズの最大の魅力は、言葉と映像が支え合うのではなく、互いの足場を掘り崩すように作用する点にある。錯綜した歴史を語る言葉は、旅人の眼差しの皮相さを暴き立て、旅の経験を記録した映像は、歴史を語る言葉に対して「お前は書物の引用にすぎない」と押し返す。いつまでも決着のつかないこの争いを通して、いまある世界に対する怒りの感情だけが静かに増幅されていく。
『バンコクナイツ』は、被写体となる人々の生への徹底した内在(『国道20号線』)と東南アジアにおける暴力と抵抗の歴史の徹底したリサーチ(『バビロン』シリーズ)が合流する地点に成立する。この作品を撮影するために空族が行った気の遠くなるような準備作業の一端は、本ウェブマガジンに連載された「潜行一千里」で読むことができるので、ここで改めて詳細に語る必要はないだろう。空族は数年間かけて何度も現地に赴き、バンコクに長期滞在し、タイ語を学び、タニヤ通りに通ってそこで働く女性たちと知り合い、現地の人々との信頼関係を築き上げた。タニヤ通りで撮影することができずに困り果てていた空族の面々をタニヤ嬢たちが助けてくれたというエピソードは、両者の共犯関係をよく表している。しかし空族はまた、それと平行して、すでに『バビロン』シリーズで着手されていたリサーチをこの映画のためにさらに拡張し、イサーン地方の歴史と文化を調査し、ヴァンヴィエン、ロンチェン、シェンクアンといったベトナム戦争の爪痕が残る土地を実際に訪れ、戦争と抵抗の記憶をみずからの身体に刷り込んだ。こうした調査の成果は、『バンコクナイツ』の素晴らしいサウンドトラックやロケーションにだけではなく、ひとつひとつ場面の細部にまで感じられる。
こうして完成した『バンコクナイツ』は、花街を舞台にした男女の物語を東南アジアの地政学的歴史と重ね合わせる前代未聞の日本映画として私たちの前に姿を現した。私が特に賞賛したいのは、複数言語を用いたダイアローグである。ある場所でどの言語が話されるのかということは、いつでも権力の問題だが、異なる言語の話者がいる空間では、それがとりわけ露わになる。タニヤ通りでは日本語が第一言語であるという事実は、それだけで日本人とタニヤ嬢の力関係を決定する。お店やホテルの部屋でタニヤ嬢のサービスを受ける日本人があれほどまでに偉そうで、醜悪なのは、自分自身のものではない力、つまり日本語が体現する日本という国の政治的・経済的支配力によって自分が守られていることを確信しきっているからである。決してタイ語を話そうとしない金城は、そうした醜悪さを体現する人物として描かれている(「日本人でよかったね」byオザワ)。一方、ビンの部屋でタニヤ嬢2人がタイ語で日本人を罵る場面では、ビンにはほとんど理解できないタイ語を強い口調で語り続けることそのものが、拒絶の意志の発露としてビンを震え上がらせる。さらにこの映画では、そうしたわかりやすい言語の権力性だけでなく、はるかに微妙な母国語/外国語の駆け引きも描かれている。ノーンカーイの村で夜中、ラックとオザワが蚊帳の中で語り合う場面では、会話の展開の中で日本語とタイ語が入れ替わり、それぞれが自分にとっての外国語で相手に反論してみせる。複言語性にもとづくドラマトゥルギーは21世紀映画の特徴だが、それをこれほどの豊かさで実現した日本映画はこれまで存在しなかった。
『バンコクナイツ』には、もちろんこれ以外にもいくつも優れた点があるだろう。しかし、ここではそうした美点を列挙する代わりに、この作品全体の賭金となっているように思われる構成上の不均衡にだけ触れておきたい。すなわち『バンコクナイツ』という映画は、前半と後半でまったく異なる表情をみせる作品であり、前半部が丁寧に組み立てた構築物を後半部がためらいなく突き崩すような構成になっているように思えるのである。そして、そのことは私たちがこの文章で注目してきた「理解すること/しないこと」の問題に関わっている。
すでに確認したように、相澤監督の『バビロン』シリーズでは、映像と言葉、物語と歴史が不調和な関係に置かれていた。映像によって示される主人公の「物語」は、字幕(ナレーション)によって語られる「歴史」の介入によって繰り返し中断させられる。これが歴史のリサーチを虚構の物語に落とし込むにあたって、『バビロン』シリーズが採用した方法だった。それとは対照的に、『バンコクナイツ』の前半部では、物語と歴史をバランス良く調和させることが試みられている。具体的には、登場人物の台詞の中にリサーチの成果をちりばめることで、物語を語ると同時に、その背後にあるタイの歴史や社会をも観客に理解させようとしているのである。
こうした機能を担った台詞は枚挙に暇がないほどだが、いくつか印象的なものだけ拾い上げてみよう。映画の冒頭、最初にラックが日本人客の相手をする場面では、ラーメン屋のオーナーだという日本人が店の女の子に向かって毎年タイに来る日本人観光客の多さを、数字を挙げて得意げに説明してみせる。その後、ひな壇に並ぶ女性たちが示される場面では、女性たちの会話を通して、彼女たちが家族を支えるためにこの仕事をしていること、そしてイサーンの出身者が多いことなどが示唆される。また自衛隊時代の先輩である富岡がオザワにラオス行きを命じる場面では、ベトナム戦争時にアメリカ軍がイサーンに基地を作り、バンコクとの間に幹線道路を整備したことで、イサーンからの労働者がバンコクに流入し、それがバンコクの発展を支えたのだ、と富岡がオザワに滔々と語り聞かせる。さらにオザワがラックとノーンカーイにバスで向かう場面では、バスが基地の横を通り過ぎ、二人の会話を通してタイがベトナム戦争時にアメリカ軍に協力していたことが語られる。そして極めつけは、ノーンカーイにあるスマイルバーでフランス人がオザワたちに向かって語る台詞である。この男は、かつてイサーンの森にはコミュニストが潜伏していたこと、モン族がアメリカ軍に協力し、そして裏切られたこと等々を長々と語るのだ。
タニヤ通りやイサーンのこと、そしてタイ、ラオス、ベトナムにまたがる錯綜した戦争の歴史のこと、そうしたことが日本の観客にはあまり知られていないことへの配慮なのか、あるいはごく単純に、タイの人々と風景に心底魅了されたためなのか、その理由は定かでないが、空族は『バンコクナイツ』の前半部で理解の誘惑に屈しているようにみえる。タニヤ通りの女性たちのこと、彼女たちが生まれ育ったイサーン地方のことを、観客に正しく理解して欲しいと空族が望んでいるかのようなのだ。いずれにしても、上に言及したような台詞の洪水は、私たち観客をいささかうんざりさせる。
しかし理解の誘惑に屈することの何がそんなに問題なのか? 観客の理解に配慮することのどこが悪いというのか? 理解というものの問題点は、理解可能なものしか理解しない点にある。そして理解可能なものを理解することで、ひとは容易に理解できないものの存在を忘れてしまう。そうなると、理解は理解の幻想にすぎなくなる。『バンコクナイツ』の前半部に頻出する丁寧に作られた台詞は、確かに観客の理解を助けるのかもしれない。しかしそれは同時に、短い台詞で到達できる程度の理解で観客を満足させてしまう。例えば、観客は富岡の台詞を聞いてイサーンとバンコクの関係を理解した気になってしまうかもしれない。そのとき理解は無理解に反転し、映画を裏切ることになる。
『国道20号線』と『バビロン』シリーズを撮った空族がそのことを知らないはずはない。だとすると、空族は理解というものの危うさを承知のうえで、あえてあのような台詞を書いたのである。まず前半部で観客を最低限の理解へと導いておき、次に後半部でその理解に揺さぶりをかけること。映画の前半と後半で、異なる仕方で世界と向き合うように観客に要求すること。それが『バンコクナイツ』のプログラムであるように思える。
『バンコクナイツ』の後半部は、すでに言及したフランス人がスマイルバーで泥酔し、言わずもがなの台詞(「ここは今も植民地なんだ!」)を吐いた直後に始まる。不意にエンジン音が鳴り響き、3台のバイクに分乗して夜道を疾走するオザワたちの姿が映される。この映画の前半部では、すべての場面は、(1)物語上の機能、(2)歴史や社会に関する背景情報を伝達する機能のいずれかを担っていた。それに対して、このバイクによる夜道の疾走には、いかなる物語上の動機づけも、情報伝達上の機能も欠けている。だが、まさしく純粋な剰余でしかないこのシークエンスとともに、『バンコクナイツ』はみずからを理解の誘惑から解き放ち、過激にドライブし始める。物語の糸はほどけ、場面と場面の繋がりは緩くなり、観客の理解を動揺させる不可解な要素がスクリーンを横切り始めるのだ。
闇に紛れて道路脇の林を走り抜ける人影は何だったのか? アメリカ軍による爆撃でできたクレーターの縁に腰かけて、自信満々に来たるべき革命を語るラッパー達は何者なのか? オザワの旅の目的であったはずのラオスの任務はどうなったのか? 誰もいなくなったスマイルバーで、オザワに挨拶したモン族の少女が不意にカメラを直視するとき、あの眼差しは何を意味していたのか? ラックの母親がベッドの上でアメリカ空軍のライターを掲げて「戦争は終わったわ」とつぶやくとき、戦争は本当に終わっているのか? これらの問いに対して、映画はもはや答えを与えようとはしない。
映画の前半では、世界は鮮明な輪郭に収まり、登場人物一人ひとりの考えや行動も明瞭に理解することができた。観客は空族の書いた台詞の導きで、世界を理解できると信じることができた。しかし、作品の後半、映画が方向感覚を失いながらその結末ならざる結末へと進んでいくにつれ、世界の明瞭な輪郭は失われ、登場人物もまた理解しがたい存在へと変容していく。理解の誘惑を断ち切ることで、映画はみずからと観客を同時に解放する。ラッパー達が登場するシェンクアンの場面のように、映画はいまやより大胆な仕方で歴史と向き合うことができるようになり、観客は理解の限界に直面することで、かえってみずからの思考を活性化させることになる。いまや観客は映画の前半とは異なる仕方で映像と音響に向き合い、歴史の見通しがたい厚みに触れることになる。
映画の最後に残されるのは、この世界への同意を拒否する二つの身ぶりだ。
パタヤビーチのホテルでラックはオザワを殴り倒す。すでにラックを理解した気になっていた観客は、ここで突然突き放される。このラックの一撃はオザワ個人に対するものというよりも、オザワとラックを客と娼婦という関係で出会わせた世界の構造そのものへの一撃なのかもしれない。映画の最後で、ラックは故郷のノーンカーイに戻って親友の子供の世話している。彼女は自由になったのだろうか。おそらくそうではないだろう。というのも、ラックはただ、入れ替わりにタニヤ通りで働き始めた友人と位置を交換しただけだからだ。構造の全体はいささかも揺らいでいないのである。
ラックと別れたオザワは、パタヤビーチのタトゥーショップで銃を購入する。店の主人に自殺に使ったりしないだろうなと念を押され、オザワは明確に否定するものの、かといって誰か他人を襲撃するわけでもない。ただ銃を忍ばせておくこと。それがオザワのこの世界への同意を拒否する身ぶりだ。オザワには撃つべきものの姿がはっきり見えているわけではない。しかし、それが誰か特定の個人でないことはわかっている。それはおそらく、その全体を把握できないほど巨大な何かであるということ、そして日本から楽園を求めてタイにやって来た自分もまたその何かの一部であるということ、そのことにもオザワは気づいている。金城のような男を撃ち殺したところで、別の人間が金城の位置に収まるだけであり、自分の頭を撃ち抜いたところで、それは所詮ナルシシスティックな行為にすぎない。あの巨大な何かにはなんの影響も与えないのだ。『バンコクナイツ』のラストシーンでタニヤ通りに立つオザワは、『国道20号線』のヒサシのように闇と向かい合っている。しかし、その闇はいまや日本の地方都市のロードサイドではなく、アジアの全体を包み込んでいるのである。