映画川 『大和(カリフォルニア)』

いよいよ『大和(カリフォルニア)』が日本の映画館のスクリーンに帰還する。2016年に制作された本作は、昨年3月、大阪アジアン映画で国内初上映されたのち、世界各地の映画祭を経めぐり、さまざまな観客たちと出会い、大きな反響を呼び覚ましてきた。そんな作品がようやくいま、日本の幅広い観客たちの前に姿を現そうとしている。機が熟したというべきだろう。

国境を軽々と横断して行く先々で人々の経験と共振してきた本作の歩みは、この映画が描き出す世界にふさわしい。すでにそのタイトルが示している通り、『大和(カリフォルニア)』は、みずからのうちに二つの場所、二つの空間の入り組んだ関係を含んでおり、そこで描かれるローカルな「地元」の世界は、あらかじめグローバルな動きに深く浸透されている。この映画に登場する人物たちみな、何らかの意味でこの力学の渦中にあって、「ホーム」(故郷)を半ば見失っているのである。

とはいえ、『大和(カリフォルニア)』というタイトルは、単に実在する二つの場所の名称を組み合わせることで、日本とアメリカという二つの国の関係を示唆しているにすぎないのではない。私たちはむしろ、「大和(カリフォルニア)」という言葉を、この作品がはじめて切り開く未知の土地の名として理解すべきだろう。本作は米軍基地に隣接する都市に生きる若者たちのドキュメンタリー的なポートレートではない。この作品で宮崎監督が試みているのは、「大和」を「カリフォルニア」によって二重化することで解き放たれる「フィクションの力」に賭けることなのである。現実をフィクションによって二重化し、距離化することで、アイデンティティーと社会的プロファイリングの牢獄から登場人物を解放し、「ホーム」の経験を語る別のやり方を発見すること。これが『大和(カリフォルニア)』の挑戦であり、本作はそれに成功している。

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