コンテンツへスキップ

名前のない街、顔のない女 『VIDEOPHOBIA』試論

『VIDEOPHOBIA』はまったき表面である。この映画ではすべてのことが表面で生じる。恐怖も不安も。喜びも安らぎも。苦痛も快楽も。天国も地獄も。そして絶望も救済も。すべては表面にあり、そこで生起する。あらゆるものを表面に還元すること。それがこの映画を駆動する欲望であるように思える。

たとえばこの映画のモノクロームの色彩は、なによりもまず、世界の全体を表面に還元する過激な力として作用している。デジタルに固有のシャープで硬質なコントラストとフィルムを思わせる粒子状のテクスチャーを併せ持つ独特のモノクローム映像は、あるときは画面をやや白飛びした平面に変え、あるときは黒さと白さからなる二つのフラットな領域へと分割する。そのとき、まったき表面となった街のイメージは散乱し、もはやひとつの像(それは「大阪」と呼ばれる)に収斂することがない。この映画のモノクロームは、街から名前を奪い去り、それを決して整合することのない無数の表面の集積へと変換する。

じっさい、『VIDEOPHOBIA』における街の描写は決してディープではない。むしろ徹底的にシャローだと言うべきだろう。たとえば、この映画のロケーションの選択はかなりベタである。通天閣、戎橋、鶴橋、十三、ひらかたパークといった(少なくとも関西人には)よく知られた場所が映されるだけでなく、西成、生野コリアンタウン、芦原橋といった大阪のエスノグラフィーには欠かせない定番の地名が登場する。さらに映画の終盤で主人公が船に乗って進む水辺の光景ですら、梅田哲也のナイトクルーズに参加したことのある観客や「御舟かもめ」という名前にピンとくる観客にとっては、まったくの未知の風景というわけではない。ふだん人目に触れることのない大阪の深部が開示されるわけではないのである。

ロケーションの選択だけでなく、その扱いもまた表面的である。戎橋の観光客や西成のグラフィティを映したショット、町内のお祭りの様子や在日朝鮮人女性のインタビューが、物語との明瞭な結びつきを欠いたまま、一見無造作に挿入される。それら断片的な映像は、物語の流れを妨げこそすれ、主題的に深められることはない。この映画は街に沈潜するのではなく、その表面をなぞり、断片的な映像を積み重ねていく。この点で『VIDEOPHOBIA』は、釜ケ崎の地に深く根を下ろし、土地の歴史と人々の生き様を人情喜劇に落とし込んだ『月夜釜合戦』のような作品の対極にあると言えるだろう。しかしだからといって、『VIDEOPHOBIA』が『月夜釜合戦』よりも皮相的であるということにはならない。この作品で試みられているモノクローム映像による都市空間のラディカルな表面化は、知覚の鋭敏化を伴っており、容易に整合しない都市の表面を収集し集積することで、かえってこの街の錯綜したありようを鮮明に浮かび上がらせているからである。

続きはこちらのサイトでお読みください。

11月20日から京都みなみ会館で開催される特集上映と新作公開に合わせて、11月28日に宮﨑監督とお話する予定です。

ONCE IN A LIFETIME 宮崎大祐特集上映(京都みなみ会館)

『VIDEOPHOBIA』(京都みなみ会館)

こちらもぜひ。

Related Posts