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『百年の絶唱』はパッションの音楽である: 井土紀州監督インタビュー

『百年の絶唱』は、元カイエの執筆者であり、近年の瀬々作品の脚本を共同執筆している井土紀州監督の8ミリ映画だ。この作品は、東京に住む平山という青年が、ある偶然から、紀州出身の圭ちゃんと呼ばれる男の記憶と情念に遭遇することで変貌していく行程を、現在と過去、東京と紀州が交錯する時空の中で物語る。上映時間九十分のこの作品はしかし、単なる自主制作の8ミリ映画という枠組みを越えて、現在の日本映画のクリティカルな場所のひとつにみずからを位置づける。それは物語が内側から情念によって貫かれ、映画そのものが「現在」への叫びに変容するような場所である。

井土紀州は『百年の絶唱』を東京と紀州との往復運動のうちに成立させる。だが、必ずしも紀州という土地が重要なわけではないと井土は言う。「このフィルムでは紀州という場所は、都市が失った何かを保存しているような特権的な場所でも、過去のノスタルジーへと凝固してゆくような場所でも絶対にありえない。例えば、森であるとか、山の中の村みたいな場所には、人間のプリミティブで本能的で豊かな生があるんだという幻想があるわけじゃない。でも、荒廃した都市に対する人間的で豊かな田舎という図式は共同体的な記憶が捏造するイメージにすぎない。俺はむしろ、そんな幻想の豊かさよりも貧しさを選択したい。だから俺の映画では、森の中に入って行っても貧しいわけで、廃校があっても、そこにあるのは亀のミイラだったりする。もしこの映画に出てくる紀州の土地の風景が豊かに見えたとしても、それは自然のものではなくて、ダム工事によって人為的に作られたものなんだ。それは決してノスタルジックな風景ではなくて、むしろ傷跡みたいなものだと思う」。

このフィルムはだから、失われた過去や美しい風景へのノスタルジックな回帰の映画ではなく、「世界を変えようとする男の映画」なのである。この世界を変えようとする力を井土は「パッション」と呼ぶ。「俺が映画に撮りたいのは、愛の状態ではなく、パッションの状態なんだ。愛の状態っていうのは、常に一方に対する他方の孤独で満ちているようなエゴイスティックなものだと思う。確かに愛の状態では人物たちが生の感情をぶつけあうようなエモーショナルな表現は可能だし、スクリーンを強いエネルギーで満たすことはできる。でもそれは否定的なエネルギーにすぎない。一方、パッションというのは、一対一の関係だけじゃなくて、複数の関係の中で循環するし、時には熱狂に到達することもできるという肯定的なエネルギーなんだ。たとえば、この作品の冒頭で、失踪した圭ちゃんの部屋に満ちていたのはパッションであって、そのパッションが主人公を変えるんだろう。この作品の主人公は、愛の状態からパッションの状態へと移行する。愛の状態の絶望的な閉塞をパッションの肯定的な力でどうやって変えるのかっていうこと。主人公の殺人(復讐)は、彼のパッションが爆発するきっかけであって、そこで解放されたパッションによって、彼はラストまで、あの廃校まで疾走するんだと思う。彼はパッションの力によって、この世界に復讐し、世界を変えようとする男であって、この作品は、そういう世界を変えようとする男の映画なんだよ」。

そしてまさに主人公が愛の状態からパッションの状態へと移行する瞬間に、この作品では、歌が口ずさまれる。それはある決定的なシーンで、圭ちゃんの元恋人が歌謡曲を口ずさむと、その歌が平山の歌を呼び覚ます。この二人の歌の交錯が、圭ちゃんの記憶とパッションをその恋人から平山へと受け渡すのだ。「この作品では、ヴェンダースの『都市の夏』じゃないけど、まず最初に音楽(歌)があった。この曲なしにはこの作品は成立しない。自分自身に染み着いているような音楽を、主人公が口ずさむ瞬間を見るのが好きなんだ。この作品なら、女の歌に反応して男の空虚な歌の生まれる瞬間だね。あの歌は、人物自身も意識してないような、不意にやってくるようなものだと思う。こういう歌が「来る」瞬間っていうのは、映画(物語)の構造としては良くないような弛緩する瞬間かもしれないけど、俺がこれからも映画を撮り続けるならそれだけは絶対はずせない」。

しかし、『百年の絶唱』は、僕が観た限り、ヴェンダース的な物語の弛緩とは無縁である。たとえば、いま語られたシーンは平山が圭ちゃんのパッションと共振しながら行動を起こすことになる物語の重要な結節点になっている。「この作品では敢えて物語の構造が弛緩するようなシーンは全部排除した」。その理由を井土は、「物語への拘泥」だと語る。「俺が最近の日本映画を観てて思うのは、説話行為への拘泥がなさすぎるってこと。映画にとって、感情を捉えたり、風景を記録したりするのは最大の長所かもしれないけど、みんなそれに固執しすぎだと思う。俺は絶対に物語に拘泥したい。でも、それは、うまく、透明に物語を語るってことじゃない。物語ることによって、いま見えてるものの先が見てみたいんだ。その先へと向かう説話行為には終わりはないし、きれいに着地するようなことはありえない。だから、この作品でも、五時間でも六時間でも語ろうとすれば語れる自信はあるよね。確かに物語にこだわって映画を撮ろうとすると、どうしても物語的な祖型にぶちあたる。でも、それに回収されないためには、ただ外から物語を破壊するだけではダメだと思う。俺はあくまでも説話行為の中で、物語を内側から喰い破りたい。脱構築は構築の徹底としてしかありえないんだから、構築の徹底によってそれを内側からずらしていきたい」。

きれいに調和した物語や美しい風景に内側から亀裂を走らせるパッションが鳴り響く時、この映画はコードを内側から喰い破る凶暴な音楽として誕生する。「俺はこの映画には音楽的な構造を持たせたいと思った。フリージャズみたいな音楽。それは今のノイズミュージックみたいに最初からコードを否定して、外からコードを壊すんじゃなくて、コードの中からそれを壊していくってことかな。テーマが反復しているうちに歌が叫びに変わるようなね。メロディー歌ってるうちにパッションにとりつかれちゃってそれがノイズに聞こえちゃうようなね」。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.22、勁草書房、1997年12月)

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