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映画川『ありがとう、トニ・エルドマン』

 『ありがとう、トニ・エルドマン』は偽装の映画である。この作品では、偽装の小道具が重要な役割を演じ、登場人物がしばしば別人のふりをするだけではない。なによりもまず、映画自身がみずからを偽装するのである。『ありがとう、トニ・エルドマン』という作品は、軽さとユーモアのヴェールの下に容赦のない厳しさを隠し持っている。本作におけるマーレン・アーデの演出の妙は、軽やかなユーモアによって眼差しの厳しさを包み込む巧みさにあり、それがこの作品にとりわけ複雑で豊かな味わいを付与している。

 この映画を見た観客のほとんどは、楽しい気分で劇場を後にするはずだ。実際、これはとびきり楽しい映画である。しかし、一息ついて、自分がスクリーンに見つめたものをあらためて思い返してみるとき、私たち観客の脳裏に迫ってくるのは、楽しさというよりもむしろ、ある種の容赦のなさの感覚である。『ありがとう、トニ・エルドマン』は、その邦題とあらすじから予想されるのとは違って、決して心優しい映画ではない。 

 この作品で私たちが出会うことになる容赦のなさ、それはさしあたり、登場人物たちが生きる世界のありようとして現れてくる。それは私たちの現在そのものの容赦のなさである。この映画の主な舞台であるルーマニアの首都ブカレストは、EUの東方拡大にともなって新たに加盟国となった国の首都である。そこではブリュッセルが加盟の条件として課した構造改革と市場開放の指針のもと、国営企業やサービスの民営化が急速なペースで進行し、そこに生まれた市場のパイをめぐってアメリカ、フランス、ドイツ、中国といった国のグローバな資本がしのぎを削っている。『ありがとう、トニ・エルドマン』で描かれるブカレストの街は、世界中で大多数の人々の生活の基盤を掘り崩し、プレカリアスな生の条件を強いているグローバル資本主義の最前線なのである。

 主人公の女性、イネス(ザンドラ・ヒュラー)は、この最前線の直中にいる。とはいえ、多国籍企業の横暴に抵抗する闘士としてではない。まったく反対に、資本のグローバリズムの尖兵としてである。彼女はルーマニアに進出する国際企業を顧客とするコンサルタント企業の幹部社員であり、現地の社員を統括するチームリーダーを務めているのだ。例えば、こんな場面がある(かなり周縁的な場面なので、やや詳しく触れることをお許しいただきたい)。父親のヴィンフリート(ペーター・ジモニシェク)と連れ立って、イネスが顧客企業の油田採掘現場を視察した際、二人は目の前で労働者が解雇を言い渡される場面に直面する。ヴィンフリートが大いに狼狽して、なんとか解雇を思いとどまらせようと経営者に働きかけるのとは対照的に、イネスはまったく動じない。それどころか彼女は、彼らが率先して労働者を解雇してくれるなら、自分たちコンサルが提案する解雇者の人数が減って好都合だとすら平然と言ってのける。このときのイネスは、グローバルな資本の獰猛さを体現していると言ってよい。

 したがって、イネスという女性は、観客がただちに好感を抱き、無条件に感情移入できるようなタイプの登場人物ではまったくない。むしろ多くの観客にとって、彼女や彼女の同僚たちは、どちらかと言えば疑わしく、留保をつけたくなる人々であり、極端な場合には、嘲りの対象とすらなりかねない存在である。まさしくこうした点で、彼女は父親のヴィンフリートとは好対照である。寒いジョークを連発しては周囲に失笑混じりの曖昧な反応を呼び覚まし、地域の子供たちの文化活動に協力する一方で、年老いた犬を大事に世話しているヴィンフリート。映画の冒頭のいくつかの場面を見ただけで、私たち観客はただちに武装解除して、この人物を好きになってしまう。他方、イネスはと言えば、自分のためのパーティーだというのに、ずっとスマホで仕事の話ばかりして、人々とろくに会話もせず、久しぶりに再会した父親にも、まるで奇妙な動物でも見るような冷ややかな視線を投げかける。こうしたイネスの様子は、感じが悪いとまでは言わないにせよ、決して好感を抱かせるものでないのはたしかである。

 だから私たち観客は、映画の冒頭からヴィンフリートに寄り添って父と娘の物語を追いはじめる。ところが映画が終わったとき、観客は、いつのまにか自分がイネスに寄り添っていることに気づくことになる。ヴィンフリートの娘としてのイネスにではない。みずからの人生を自分自身の手で選び取る一人の女性としてのイネスに、共感と連帯の入り混じった感情を抱くのである。いったい何が起こったのだろう? 父親との結びつきを取り戻したことで、イネスが変わったのだろうか? それによって、彼女が観客にとって親しみを感じられる存在になったのだろうか? いや、そうではない。本質的な部分において、彼女はまったく変わっていない。変化したのは彼女ではなく、彼女に対する私たちの眼差しなのである。

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 『ありがとう、トニ・エルドマン』で、マーレン・アーデが断固として拒否していることがひとつある。それは改心と和解の物語を語ることである。家族との絆も人生の幸福も顧みることなく世界中を飛び回り、ビジネスエリートとしてのキャリアを追求している一人の女性が、突然生活に介入してきた父親との衝突を通して改心し、ついには家族の価値と人間らしさを取り戻すという物語。『ありがとう、トニ・エルドマン』は、そうした物語から最大限の距離を取ろうとする。この映画でイネスはまったく改心しない。彼女は彼女のままであり、父親の生きる世界と娘の生きる世界との懸隔が解消されることもない。この事実をアーデは誤解の余地のない仕方で観客に示している。イネスがマッキンゼーに転職し、シンガポールに移住する予定であることを、私たちは映画の最後で知るのである。

 ここにいたって私たちは、『ありがとう、トニ・エルドマン』のもうひとつの容赦のなさに触れることになる。すなわち、父と娘の関係を見つめるマーレン・アーデの眼差しの容赦のなさに。父と娘の人生は、二人の人間の別々の人生であり、父親が何を望もうと勝手だが、それで娘の人生を変えることなどできはしないということ。父と娘が選びとったそれぞれの人生の軌跡がいつしか乖離し、二人の生きる世界が隔絶してしまうとき、彼らにできるのは、その事実を受け入れることでしかない。父親が娘に与えたものがあり、娘が父親に与えたものもある。父と娘はそれを携えながら、それぞれの人生を歩むしかない。

 すっかり疎遠になってしまった娘の幸福を願いながらも、その行動がことごとく裏目に出てしまう父親と、そんな父親の突拍子もない行動に振り回されて困惑するキャリアウーマンの娘。そんな二人の関係をユーモラスに描いた心温まるコメディ映画。そんな外見はみせかけにすぎない。実際、この作品では、父親と娘が見つめ合い抱擁しあう和解の瞬間は、ついに訪れることがない。たしかに抱擁の瞬間はある。しかし、そのとき二人の視線の交わりは不確かなままであり、ふたつの身体の間には超えがたい隔たりが仕組まれている。それは和解ではなく、別れと呼ぶのがふさわしい。こうした演出のうちに、私たちはアーデの眼差しに隠された厳しさを認めることになる。

 マーレン・アーデの前作 “alle anderen”(「他の人たちはみんな・・・」というような意味のタイトルだが、日本では『恋愛社会学のススメ』という残念な邦題でソフト化されている)と『ありがとう、トニ・エルドマン』の間には、7年の月日が流れている。だが、アーデ本人やプロデューサーのジャニーヌ・ヤコフスキーのインタビューを読む限り、このインターバルは資金繰りなどの外的要因によって不本意に強いられたものではなく、アーデの仕事の仕方が必要とする時間であったようだ。アーデは時間をかけてじっくりとアイデアを練り上げ、ダイアローグを推敲し、事前に俳優との入念なリハーサルを重ねた上で撮影に入る。そして、現場ではそれぞれのシーンについて多数のテイクを撮影し、100時間を超えるマテリアルを1年半掛けて編集することで、『ありがとう、トニ・エルドマン』は完成した。

 こうした制作が可能であった背景には、「コンプリーツェン・フィルム」(Komplizen Film)という制作会社の存在がある。「共犯者たち」という名前を持つこの会社は、昨年日本でも『アラビアンナイト』三部作(2015年)が上映されたミゲル・ゴメスの作品を共同制作しているので、名前に見覚えのある読者もいるかもしれない。コンプリーツェン・フィルムは、ミュンヘンの映画大学在学中にマーレン・アーデとジャニーヌ・ヤコフスキーによって設立された映画制作会社で、これまでにアーデ自身のすべての長編作品だけでなく、ウルリヒ・ケーラー、ゾーニャ・ハイス、ヴァネッサ・ヨップといったドイツの比較的若い監督の作品を中心に、国内外の野心的な映画作家の作品を制作している。今年のカンヌ映画祭では、昨年の『ありがとう、トニ・エルドマン』のコンペ参加に続いて、ヴァレスカ・グリーゼバッハのほぼ10年ぶりの新作 “Western”が「ある視点」部門に選出された。一部の批評家から高い評価を得たこの作品で、アーデは共同プロデューサーを務めいている。コンプリーツェン・フィルムは、映画に対する思考と姿勢を共有する国内外の映画作家たちと「共犯者」のネットワークを作り上げ、彼らの映画制作に協力しつつ、みずからの映画制作のための柔軟な環境を確保する仕組みであり、それが『ありがとう、トニ・エルドマン』のような作品を可能にしたのである。

 こうした制作体制から生まれた『ありがとう、トニ・エルドマン』がドイツ映画という枠に収まりきらない作品であるのはたしかだとしても、マーレン・アーデが現在のドイツ映画において例外的な存在ではないことも指摘しておくべきだろう。『ありがとう、トニ・エルドマン』の国際的な批評的成功は、近年のドイツ映画における才能豊かな女性監督の台頭を象徴する出来事でもあるのだ。この傾向は、ヴァレスカ・グリーゼバッハの『渇望』(2006年)が公開された2000年代後半にはすでに萌していたのだが、この数年のうちに公開された一群の作品によって、いよいよ明白になってきた感がある。『ありがとう、トニ・エルドマン』は、『嘘と他のいくつかの真実』(ヴァネッサ・ヨップ、2014年)、『ワイルド わたしの中の獣』(ニコレッテ・クレヴィッツ、2016年)、『曙光の前に』(マリア・シュラーダー、2016年)、『ウェスタン』(グリーゼバッハ、2017年)といった作品とともにあり、これに元祖ベルリン派の一人、アンゲラ・シャーネレクの新作『夢のような道』(2017年)を加えるならば、現在、最も先鋭的なドイツ映画はもっぱら女性監督によって作られていると言っても過言ではない。スタイルもバックグランドも異なるこれら女性監督の作品に共通するのは、テーマ偏重や安易な娯楽性に流れない、しなやかな映画的知性と豊かな感受性の結合である。そして、クレヴィッツの『ワイルド』が最も鮮明に示しているように、しばしば彼女たちの作品には、みずからの思考と欲望にもとづいて行動し、社会的規範から逸脱することすら恐れない女性の主人公が登場する。

 『ありがとう、トニ・エルドマン』の主人公イネスも、そうした女性のひとりである。彼女は周囲になにを言われようと、自分が考え、選択した道を進むことのできる意志と行動力を持つ女性である。この映画の中でイネスが本質的には変化しないと指摘した際に、私は変化するのは彼女ではなく、彼女に対する観客の眼差しのほうであると述べた。その変化は、イネスの仕事ぶりが詳細に描かれることによって実現される。もしこの映画にとって、イネスの職業が父と娘の物語に現代風のスパイスを添える「設定」にすぎず、彼女が「典型的な」キャリアウーマンであることが、観客の理解すべき事柄のすべてであるのなら、これほど詳細に彼女の仕事ぶりを描く必要などなかっただろう。しかし、この映画でマーレン・アーデは、イネスが同僚やクライアントと議論し、交渉し、雑談する場面を、父親との会話の場面と同等の重みをもって描いている。アーデにとって、そうした場面のひとつひとつは、イネスという女性の生き方を示す具体的な生の瞬間の連なりなのである。そのように彼女の生が示されるからこそ、私たちは彼女をヴィンフリートの娘としてだけでなく、みずからの人生を自分自身の手で選び取る一人の女性として見るようになる。実際、彼女が上司や同僚の男たちと交わすやりとりは、この映画の最も痛快で滑稽な瞬間に数えられる。

 私はこの文章の冒頭で、『ありがとう、トニ・エルドマン』は偽装の映画であると書いた。この作品で偽装のテーマが深く豊かに展開することになるのは、娘に手ひどく追い返されたヴィンフリートが、「トニ・エルドマン」として再び娘の前に現れる瞬間からである。この虚構の人物を発明することで、父親はそれまでとは違った仕方で娘に近づくことができるようになる。それまで父親は娘の世界を部外者として観察し、批判的な意見を口にしていた。だがいまや父親は一切の意見を封印する。ヴィンフリートは観察者の立場を放棄して、娘の世界の「登場人物」になろうとするのである。この変化によって、娘にも父親の虚構に少しだけ付き合う余地が生まれることになる。この映画の後半部で私たち観客を深く揺さぶることになる、いくつもの忘れがたい場面は、すべてここから始まるのである。

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