傾きゆく世界に立つ /『彼女はひとり』

地方都市に住んでいると新作映画についてタイミングよくTwitter でつぶやくのが難しい。ハリウッドや邦画のメジャーな作品を除いて新作映画の公開日は東京から数週間から数ヶ月遅れるのが普通なので、ようやく見た時点ではたいていTwitter での盛り上がりの時期を過ぎている。もちろん、それでもつぶやけばいいのだけれど「旬を外している」感は否めず、自分の場合、「いまさらいいか」となりやすい。大阪に住んでいたときはそれでも東京のつぎくらいに公開されるので、Twitter でつぶやいてもそれなりにタイムリーな感じがまだあった。でもいまは京都在住で、徒歩で通える出町座をホームグラウンドとしているので、関西圏はもちろん、ときには全国レベルでも最後尾のタイミングで「新作(新規公開作)」を見ることになる。そうなるとTwitter 界ではもはや忘却の彼方であり、「いまさら」ですらない。そういうわけで最近は新しく公開された映画について Twitter でつぶやくことを、ほとんどしなくなってしまった。それでももちろん何か書いてみたくなる作品に出会うことはある。

 『彼女はひとり』(中川奈月監督)はもともと大学院の修了制作として企画され、脚本の出来が良かったのでプロのスタッフの参加を得て撮影されたそうが、たしかに脚本の構成が巧みだ。この映画の魅力が、観客の安易な共感を拒絶する主人公の人物造形にあるのは間違いないが、主人公の女性は、相当に邪悪で凶暴な存在であるにもかかわらず、純然たるモンスターにはなっていない。主人公を単に理解不能な存在にしてしまっていたならば、彼女はひたすらに邪悪なだけの怪物的存在になってしまっていただろうし、映画自体も風変わりなホラー映画として消費されてしまっていただろう。最悪の場合、観客にミソジニー的な解釈(&快楽)すら許してしまったかもしれない。この映画は、脚本の巧みな構成によって、主人公を理解可能性と不可能性の交わる一点に正確に位置づける。映画が進行するにつれて、観客は出来事の全体像について少しずつ情報を手に入れて、彼女の行動の文脈をかなりの程度まで再構成できるようなる。しかしそれでも彼女の行動には飛躍があり、決定的な一点(たぶん彼女自身も自覚していない一点)が空白のままに残される。それによって私たち観客は安易に共感することなく、ひとりの他者として彼女と向き合うことができるのだ。

 しかし脚本以上に的確なのは、この映画のロケーションの選択である。映画は橋の欄干から水面を写した俯瞰ショットから始まる。そこに不意に欄干を飛び越える主人公の姿がフレームインする。この落下の力学が映画全体を貫き支配している。主人公はみずからの身体を落下へと導く力の作用をつねに感じているが、その力に「まだ」抗っている。自宅のベランダで、校舎の屋上で、橋の欄干で、私たちは彼女の身体に作用する落下への誘惑を感じる。彼女は死へと傾斜してゆく世界を生きており、全体が急峻な斜面となった世界のなかでかろうじて身体のバランスを保とうとしている。ベッドで横になっているときですら、彼女の世界は死へと滑り落ちる傾斜を帯びているように感じられる。そうした彼女のありようを視覚的に際立たせるべく、この映画ではいたるところで地面が傾いている。たとえば、冒頭すぐの、主人公の幼なじみの男子生徒が登場する場面では、生徒たちが坂道を上っていく。彼と女子生徒がたわいもない会話をしていると、主人公が現れるが、そのとき、カメラのアングルによって、地面の傾斜はいっそう険しくなるように見える。またこの映画でたびたび登場する河原は、土手の斜面から川岸にむかってなだからに傾斜した場所としてあり、それは主人公が飛び降りた橋とつながっている。さらに主人公が住んでいる集合住宅でも入口のあたりが階段になっているし、幼なじみの男子生徒の家も階段を上る必要のある高台に設定されている。この映画のロケーションはとても地味で美しい風景などひとつもないが、すべてが死への傾斜を深めていく生の空間の造形に寄与している。こうして、多くのアクションは斜面を上ることと下りること、そしてその途中で立ち止まることによって構成されることになる。主人公が河原を全力疾走して歩道橋をかけ上り、橋の真ん中に立ち尽くす場面があるが、その運動はこの映画全体にみられる上昇と下降の振幅の極限としてある。

 登場人物が言葉を交わす場面にしばしば挿入される俯瞰気味のショットもまた、映画の空間に鋭い傾斜を付与し、それを不安定化する。俯瞰ショットは人物の対話の場面で挿入されるが、とりわけそれがアクションの軸を跨いだ切り返しショットと組み合わされるとき、絶大な威力を発揮する。そのような切り返しショットが用いられるのは、許されない関係にある男子生徒と女性教師が向かい合い、生徒が自分の思いをストレートに言葉にするのを聞いて教師が彼を抱擁する場面と、映画の終盤で男子生徒と主人公がほとんど抱擁し合うかのような近さで激しい言葉を交わす場面である。そこでは二人の人物が深淵を前にしたまったき個として向き合うことになる(こうした場面には少し増村的なものを感じる)。

 これらの場面はいずれも学校の校舎内で展開するが、その中心をなすのは複数の階段が交差する不思議な作りの空間である。映画の重要な場面の多くがここで展開する。校舎内で主人公が最初に姿を見せるのはこの階段の上であり、男子生徒が女性教師との面接を終えて部屋から出てきた時に、彼女は階段を下りてくる。その他の場面でも彼女はしばしば階段上に姿をあらわし、彼女と他の人物が関わる多くのアクションが階段の周辺で展開する。それはふたつの階をつなぎ、上昇と下降の力が拮抗する宙づりの空間であり、登場人物のアクションもこの宙づりの力学のうちに位置づけられることになる(この映画のもうひとつの宙づりのイメージはもちろん幼なじみの女子生徒の幽霊である)。この空間は映画が描き出す傾きゆく世界の中心にあり、主人公の存在の危うさを鮮やかに可視化する。

 映画の最後で、校舎の屋上から飛び降りようとする主人公を女性教師が引きとどめる。二人はまるで抱擁するかのように身体を寄せ合い、お互いに「大嫌いだ」と相手に告げる。主人公を「ひとり」にしたのは(永遠に彼女から逃れ去るようにみえる)愛情であり、彼女の父親や幼なじみへの復讐の根底にも(自分のなかにある)愛情が作用していたとするなら、この二人のあいだには一切の愛情が欠けている(したがってそこには憎しみもない)。愛のまったき不在が逆説的な救いになりうるという可能性。それを示唆してこの映画は幕を下ろす。これ以上長くても短くてもいけない。じつに濃密な60分間だった。

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