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五輪開会式 – 真実のとき

2021年7月8日深夜、東京五輪が(ほぼ)無観客で開催されることに決まった。選手が気の毒だという意見もあるようだが、そもそも世界中で感染拡大が続いているときに世界最大のスポーツイベントを開催しようとすることが間違っている。この錯誤のためにどれだけ日本のコロナ対応が歪められ、(東京の)人々が苦しんできたことか。私が見るかぎり外国でも「まあしゃあない」「当然」「延期すべき」「いっそのこと中止に」という反応が大勢を占めている感じだが、これまで五輪を取材してきたスポーツ記者のなかには怒りが収まらない人もいるようだ。

たとえばドイツ公共放送ARDの Thorsten Iffland 氏は、五輪開催国の責任を果たさずに、幅広い抗原検査の活用や早期のワクチン接種といった(他国でその効果が証明されている)対策をとらぬまま、ズルズルと感染を拡大させた日本政府(と日本人)に激怒している。もちろん日本政府の対応のグダグダさへの批判には同意するしかないのだが、「五輪があるのにコロナ対応に失敗した」という非難は、「五輪があるせいで(もちろんそれだけが理由ではないが)コロナ対応に失敗した」という東京の人々の実感とすれ違い続けることになるだろう。

とはいえ、わざわざ極東の島国まで来て、窓からロクに外の景色も見えない狭い部屋での隔離生活を強いられたうえに、盛り上がりを欠いた無観客の競技を取材しなければならなくなったドイツ人ジャーナリストの不満もわからないではない。たとえば7月10日のベルリンの直近1週間の人口10万人あたりの感染者数は7.3人で、東京の34.5人よりもはるかに少ない。つまりドイツ人にとっては東京に来るほうが危ないわけで、しかも多くの日本人とは異なり、すでに2回のワクチン接種も受けている。にもかかわらず、入国直後からまるでウィルスを撒き散らす元凶ででもあるかのような扱いを受ければ、気分を害するのも当然だろう。しかも組織委がグダグダなので無観客になったときの記者の取材体制がはっきりせず、下手をすると日本まで来たのに人数制限で会場に入れない可能性もあるとなっては、早晩、怒り出す記者が大量に出てきても不思議はない。競技会場の外でも内でも不機嫌さが充満する陰鬱な大会になりそうである。

それはともかく、フランクフルター・アルゲマイネ紙のスポーツ記者 Evi Simeoni 氏が、面白い記事を書いている。記事の冒頭の一節で Simeoni 氏は、無観客の国立競技場で開催される開会式の選手入場を五輪の真実が露になる瞬間として描いている。

想像してみよう。7月23日、東京、第32回オリンピック競技大会の開会式はそのプログラムの核心部分にさしかかる。各国選手団の入場である。各国チームのユニフォームに身を包んだ選手たちが、旗手に率いられて、小旗を振りながらスタジアムに入ってくる。オリンピックの始まりである。とても静かだ。数百人のささやかな拍手が68000人収容のスタジアムに空ろに響く、あるいは、音楽にかき消されてしまう。


選手たちの視線は何かを探すかのように観客席を漂う。そして、ほんのわずかであれ人の動きのある場所にたどりつき、そこにとどまる。すなわち、国際オリンピック委員会(IOC)の委員たちが、政治家やVIPやスポンサーの代表者たちとともに座る貴賓席のところに。そのとき、何人かの選手は気がつくだろう。この競技会の本質をなすのは、私たち選手ではないのだ、と。上の方に座っているあの連中こそがこの競技会の核心なのだ。そこにいる者たちの多くが、このイベントを強行するために尽力したが、それは契約が守られなねばならないからであり、IOCと国際スポーツ団体の金庫に金が入らねばならないからであり、また政治家として面目を失わないためであった。


Man stelle sich vor: Bei der Eröffnungsfeier der Spiele der XXXII. Olympiade in Tokio am 23. Juli ist das Herzstück des Programms erreicht, der Einmarsch der Nationen. Die Athleten ziehen fähnchenschwenkend in ihren Team-Uniformen ins Stadion, angeführt von ihren Fahnenträgern, Olympia beginnt. Es ist still, ein bisschen Applaus von ein paar hundert Händen verplätschert im 68.000 Zuschauer fassenden Stadion – oder wird gar von der Musik verschluckt.


Ihre Blicke wandern suchend über die Tribünen und bleiben dort hängen, wo sich wenigstens ein bisschen menschliches Leben regt: auf den Ehrenplätzen, wo die Mitglieder des Internationalen Olympischen Komitees (IOC) sitzen, Organisatoren, Politiker, Very Important Persons und Vertreter der Sponsoren. Und plötzlich erkennt der eine oder andere: Nicht wir, die Athleten, sind die Essenz dieser Spiele in Tokio. Die da oben sind es. Viele von ihnen haben dazu beigetragen, die Veranstaltung zu erzwingen, weil Verträge eingehalten werden müssen, weil Geld in die Kassen des IOC und des Weltsports kommen muss, weil sie als Politiker ihr Gesicht nicht verlieren dürfen.

Evi Simeoni: Olympia im Nichts. FAZ.net. (07.07.2021)

「この悪夢が現実になる」と Simeoni 氏は書く。それはしかし真実の瞬間でもあるだろう。それを全世界が目撃する。

私の部屋にはテレビがないので、私が開会式を見ることはないだろう。それでもこの鮮烈なイメージに触れたとき、実際に確かめてみたくなった。五輪中継を一切見ないこと、五輪を決して話題にしないことが、唯一有効な抗議の形式であり、世界への最良のメッセージでもあると思うけれども。

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