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〈いま〉と〈ここ〉の複層性への旅
『映画愛の現在』三部作(佐々木友輔監督)

新作であれ旧作であれ、映画館で作品が公開されるタイミングというのは、「映画が生まれつつあるいまこのとき」といった意味合いで語られる「映画の現在」とはほとんと関係がない。ある作品がある特定の時点に私たちのもとに届くのは、市場(資本主義)がそれを望んだからであって、作品に内在する何らかの必然性がそれを要求したからではない。なので、ほとんどの場合、ある作品を劇場公開直後に見ようと、三ヶ月後、半年後、一年後に見ようと、そのこと自体に積極的な意味はない。SNSでみんなで盛り上がれるかどうかという違いがあるだけだ。たまたま同じタイミングで劇場公開された複数の作品を並べて「映画の現在」を語るなら、市場の都合の反映にすぎないものに過剰な意味づけを付与することになる。端的に言って、それは宣伝であって批評ではない。だから「映画の現在と対峙する批評」というものを真剣に考える人々は、みずから映画を見る(見せる)機会を組織する活動に移行せざるを得ない。かつての蓮實氏や生前の梅本氏、赤坂さんや渋谷さんのアクティビズムは、映画批評の必然的な延長なのである。

 そういうわけで新しい作品をいち早く見たいという思いで公開初日に映画館に駆けつけるということをまったくしない私でも、時折、自分でも理由がよくわからないままに(まさにそれゆえに)「これは絶対にいま見ておく必要がある」と感じる作品に出くわすことがある。そういう作品が上映されると聞けば、わざわざ遠方まで出かけてゆくことも辞さない。今年の恵比寿映像祭で上映された佐々木友輔監督の『映画愛の現在』三部作はそんな作品だった。それまで佐々木監督の文章はいくつか読んでいたものの、作品を見る機会はなく、この三部作についても断片的な情報をSNSなどで見かけただけだった。なのでどんな作品なのかまったくわからなかったのだが、恵比寿映像祭のサイトで作品情報を読んで直感的に「見なければ」と思い、京都から東京都写真美術館まで出かけていった。実際に見て、直感は間違っていなかったと思う。爽やかな風に運ばれるような心地よさを感じながらスクリーンを見つめているうちに、自分と映画との関係がやわらかく解きほぐされていくのを感じていた。私が映画と向き合っている、その〈いま〉と〈ここ〉の複雑な様相が揺らぎをともなった明晰さとして浮かびあがってきた。

 現在の日本において地方都市に暮らすことの最大の利点は「中心性の錯覚」に陥るのを避けられるという点ではないかと思う。東京で暮らしていると、いつのまにか「自分は世界の中心にいる」という錯覚に囚われてしまいがちだ。この錯覚を避けるのは一見するほど容易ではない。コロナ禍で改めてあらわになった東京の生活の過酷さを耐え抜くには、そうした錯覚が助けになる。もちろん世界にはニューヨークやパリやロンドンのように東京よりも「格が上」であるとみなされている大都市が存在することは誰でも知っている。しかし東京で暮らしていると「ここにいれば世界中の面白いものを見ることができるし、おいしい料理も、洗練されたファッションも手に入る」と思ってしまいがちなのだ。日本の中心にいるだけでなく、世界の中心ともつながっているという感覚を抱きやすい。私自身、人生の最初の30年弱を東京の東急文化圏で過ごしたが、当時はそんな感覚をほとんど自覚することもなく抱いていたと思う。しかし現実には日本は世界の辺境であり、現在の東京は東アジアのなかでもローカルな一都市にすぎない。そもそもニューヨーク/ロンドン/パリ/東京のようなメトロポリスのヒエラルキーによって表象される空間の想像力そのものが疑わしいものになって久しい。その意味では「中心性の錯覚」のコストは、私が大学生をしていた1990年代前半よりも大きくなっているのではないかと思う。

 地方都市に住むということには、この中心性の錯覚に陥ることなく、世界におけるみずからの辺境性につねに意識的でありつづけられるという利点がある。これは批評的な足場にもなりうる。もちろん地方都市の居心地の良さに安住して外への関心と連絡を絶ってしまうなら、それは単に自閉でしかない。しかしいまや首都を経由することなく世界中の様々な場所と繋がることができ、ネットワークを構築することが可能だ。どんな世界の片隅にもモビリティが息づいている。ただそのことも、東京にいると実感するのが難しい。

 中心性の錯覚からの自由は、「映画とは何か?」という問いとの関係においても批評的な意味を持ちうる。東京にある「映画」だけが映画ではない。東京の映画館や美術館やギャラリーでなされる映画との関わりだけが映画の経験ではない。映画とその経験には他のありよう、他の可能性が存在する。ただ、それを探求するには中心性の錯覚から自由になる必要がある。『映画愛の現在』三部作を見て感じたのは、この二重の運動である。東京から離れることと東京にある映画から離れること。東京にある映画とは、映画館で上映され見られるものとしての映画であり、アンスティチュ・フランセ東京やアテネ・フランセやミニシアターと結びついた映画愛であり、アートの文脈で観賞され評価される実験映画であるだろう。佐々木監督の作品はそうした中心化された映画の観念から離れることで、首都を基準にした映画のあり方と映画をめぐる言説の制度性を浮かび上がらせるだけでなく、はるかに多様で複雑な映画の〈いま〉のありようを探り当て、それを発見することで変容する自分自身を記録し、さらにそこで生じた映画の作り方の変化をも反省しながら、新しい映像表現を探求している。東京からの離脱と自分が固執していた映画からの離脱という二重の運動が、映画の内容と形式の隅々にまで行き渡っていた。映画の〈いま〉と〈ここ〉の複層性を探求する旅。それが『映画愛の現在』三部作なのではないか。

 以下、いくつか特に面白かった点を箇条書き的にメモしておきたい。なにしろ初見で書いているので思い違いもあるかもしれない。

  • 地方都市こそが、ある意味では、ポスト・スクリーン、ポスト・シネマ(映画館)の時代の映画のありようの最前線であるということ。映画館に限定されない映画の場、映画館を必要としない映画の経験、商業的な文脈の外でなされる、映画を作り、上映し、見て、語り合う場の組織化。そうしたことは映画館がほぼ消滅した地方では、すでに日々の現実である。
  • 地方 vs 東京という対立は粗雑な単純化であること。じつは大都市と地方とのあいだには多種多様な人の移動があり、経験の伝達があり、情報の流れがある。たとえば、いまは鳥取にいるが、かつては東京や大阪で仕事をしていたり、大学に行っていたりする人がいる。若いころは東京でたくさん映画を見ていた人もいる。東京と鳥取を行き来しながら映画を作っている映画作家もいる。地方と東京のような大都市は、中心と周縁という構図には回収できないネットワークによって結びついている。
  • いくつかの場面で映画の上映会のオルタナティブな公共圏としての機能が語られていて、とても興味深かった。第一部では、映画を見て語り合う会の参加者がインタビューを受けていた。そこでは話している人の姿はいっさい示されず、彼らの声だけが街をさまよう手持ちカメラの映像に重ねられる。ある女性は、仕事や家での普段の生活では自分の意見を率直に表明したり、遠慮なく他人と異なる意見を述べたりする機会はないけれども、ここでだけは自分が感じたこと、考えたことを自由に発言できるのだと述べていた。また第二部に登場する、温泉施設と併設された市民会館のホールで上映会を企画している女性は、映画の上映会は女性がひとりになれる数少ない場所なのだと語る。女性たちは日常生活ではずっと親や夫や子どもとかかわっているけれども、映画上映の暗闇のなかでは一人きりになれるのだ、と。これら二つの場面で、女性たちは、日常生活を支配する社会の同調圧力と社会的に構築されたアイデンティティの拘束から逃れることのできる場として、映画上映会について語っている。これはまさしくミリアム・ハンセンが『Babel and Babylon』で論じたオルタナティブな公共圏としての映画館の機能であるだろう。(ハンセンの議論については論文で検討したことがある。)
  • これは佐々木監督の映画のトレードマークでもあるのだろうが、手持ちカメラによる移動撮影がとても印象的だった。この映画ではインタビュー相手の場所を訪ねるときに、また、ひとつのインタビューが終わって次のインタビューに向かうときに、しばしば手持ちの移動撮影が使われている。たいていの場合、この移動撮影の映像には自分たちの活動について語る人々の声が重ねられるのだが、このカメラの動きがすごく不思議な効果を発揮していた。第二部か第三部のどこかで地面に映る、カメラを持った監督の影を示すショットが挿入されていたと思うが、それから判断するに、小型のカメラをスタビライザーのついた器具につけて片手で持って撮影しているのだと思う。通常の手持ちカメラの映像は、その画面の揺れによってダイレクトに撮影者の身体の動きを観客に感じさせる。その結果、手持ちカメラの映像は、撮影者の視線に観客を同一化させる効果を生む(臨場感のレトリック)。だがこの作品の手持ちカメラの映像は、それとはまったく異なっている。その映像は手持ち特有のブレのない滑らかさを備えている。ただしそれはステディカムの映像とは異なる滑らかさである。ステディカム撮影の場合、カメラが撮影者の上半身としっかり結合されているので、撮影者の身体の動きとカメラの動きはつねに同期している。それによって臨場感の効果と映像の滑らかさの両立が可能になる。一方、『映画愛の現在』三部作の手持ち映像の滑らかさは、撮影者の身体の動きと完全には同期していないという印象を与える。カメラと身体のあいだに隔たりがあり、歩行する身体の動きとカメラの映像の揺らぎは完全には同期せず、カメラは身体の動きから半ば独立して動いていくように感じられる。そのような奇妙な浮遊感覚がそこにはある(監督は上映後のトークでゲームの視点の動きと比較していた)。その結果、鳥取の街を映すカメラの映像は、撮影している監督の身体から遊離し、ある特定の瞬間にその場所にいた監督の眼差しの記録とは異なる何かになっている。そしてそこに、言葉を発する人の身体(の映像)から切り離された声が重ねられる。撮影者から切り離された映像と発話者から切り離された声が出会うとき、街の風景と声とのあいだに化学反応が生じる。話している人々の言葉は、それを発する身体がある室内から解放され、彼らが生きる街の風景と共鳴し始める。そして、街の映像も人々の声と結びつくことで豊かな細部をあらわにしていく(ように感じられる)。最初は典型的に寂れた地方都市の街並みにしか見えなかった鳥取の風景が少しづつ変容していき、魅力的な細部があらわれてくる。これはかなり魅惑的な体験だった。
  • たとえばARの映像を見るときに、それを現実を記録した映像に情報が付加されたものとみなすのか、それとも、私たちの現実を構成していながらストレートな映像には映らないいくつものレイヤーを可視化するものとみなすのかで、AR映像の評価は正反対のものになる。それに対応して、現実を記録するとされるストレートな映像の評価も変わってくる。佐々木監督の映画はたぶん後者の立場に属するのだろう。この映画における移動撮影と声の組み合わせは、街の風景や言葉を発する人々をストレートに記録する映像ではアクセスできない現実を知覚可能にするための手法のように感じられた。〈いま〉と〈ここ〉の複層性を可視化する映像と音響の方法論。ちなみに恵比寿映像祭に出品されていたアマリア・ウルマンの《Buyer Walker Rover (Yiwu) Aka. There Then》にも、方法は違うけれども似たような映像の感覚を感じた。

まだまだ他にも触れるべきことはあるけれど、すっかり長くなったのでひとまずここまでということで。

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