「大衆をほぐす」ー シアトロクラシーと映画(館)

大阪大学美学研究室が出している雑誌『a+a 美学研究』(第12号)に論文を寄稿しました。本号の『a+a 美学研究』では、「シアトロクラシー 観客の美学と政治学」という標題のもと、思想、演劇、オペラ、映画、アートにおける観客の問題を考察する刺激的な論考が集められています。

「観客の支配」を意味する「シアトロクラシー」(テアトロクラティア)という言葉は、もともと古代ギリシアの歌舞において、古くから伝承された決まりが守られるべきか、それとも観客大衆の楽しみを優先して新たな実験がなされるべきかという争いのなかで生まれた。哲学者プラトンは、歌舞における伝統の否定としての「シアトロクラシー」から、政治における権威の否定としての「デモクラシー」が生まれたと論じている。つまり「シアトロクラシー」とは「観客」という集合的存在を通じて芸術と政治とを架橋する概念であり、近代において、ルソー、ニーチェ、ベンヤミンらのテクストのなかで潜在的・顕在的に重要な役割を果たし、現代の哲学者たちによってあらためて注目されている。はたして「観客」であるということは、幻影に惑わされ無力化されることを意味するのか、それとも「観客」であることのうちには自由へのポテンシャルが含まれるのか、ということがこの言葉によって問われている。

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私の論文(「大衆をほぐす」− シアトロクラシーと映画(館))では、従来、演劇との関係で議論されることの多かったシアトロクラシーの問いを、映画(館)とその観客をめぐる考察に導入することが試みられています。クリストフ・メンケによるシアトロクラシーと(政治の)美学化をめぐる議論を確認したのち、ユリアーネ・レーベンティッシュが提起した「美学化批判の批判」あるいは「シアトロクラシーの批判的擁護」を取り上げ、その議論に含まれる観客の概念を明確化します。そのうえで、本論では、ヴァルター・ベンヤミンとミリアム・ハンセンによる映画館とその観客の考察を検討することで、映画の観客に備わる政治的ポテンシャルについて考えています。

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「大衆をほぐす」
シアトロクラシーと映画(館)

海老根剛

1.観客のパラドクスと映画(館)

 ジャック・ランシエールは、よく知られたエッセイ(「解放された観客」)の冒頭で、演劇に対するあらゆる告発は、結局のところ、ひとつのパラドクスに帰着すると主張している。すなわち、観客のパラドクスである。観客がいなければいかなる演劇も存在し得ないが、観客であるということは、ランシエールによれば、二つの罪と結びついている。それらの罪は、知と行動からの二重の離反として定義できる。第一に、演劇の観客は、視聴覚的な感覚に身を委ねていながら、そうした感覚がどのように生み出され、それによって何が目指されているのかを知ることがない(知からの離反)。加えて、演劇の観客は、いつでも受動的な態度に終始しており、みずからの行動のイニシアチブを完全に放棄してしまってもいる(行動からの離反)。しかしながら、演劇のこうした構造的欠陥に対する認識は、プラトン主義的な演劇の禁止を要請しただけではなかった。20世紀には、まさしくそうした認識が、認識する者や能動的に参加する者に観客を変えようとする、多様な演劇的実践を呼び覚ますことになったのである。ランシエールは、そうした実践をブレヒトの叙事演劇とアルトーの残酷演劇によって要約しているが、それらの実践とそれに関する言説は、社会参画的なアートプロジェクトの文脈において、今日、部分的にアクチュアリティを取り戻している[1]

 ここで視線を演劇から映画に、劇場から映画館とその観客に転じてみると、状況はさらに劣悪であるように思える。演劇の観客の二つの罪、すなわち、もっぱら感覚的刺激に身を委ねていることと受動性は、映画館とその観客たちのもとではより徹底されており、改革の余地もはるかに限られているようにみえるからである[2]。もちろん、映画の「反動性」を示唆するこうした見方に対しては、原則的に反論が可能である。ゴダールやストローブ=ユイレの名を挙げるまでもなく、映画においてもブレヒトの手法を導入する試みが存在することは周知の通りである。また、文化的制度としての映画(館)は、その観客層に関して最大限に包摂的であろうとしており、原則としてその客席構造のうちに料金による階層化を持ち込まないがゆえに、演劇よりもはるかに「民主的」であると主張することも可能である。しかし、実際のところ、映画館の観客は民主的な公衆だと言えるのだろうか。また、そうした公衆のモデルたり得るのだろうか。それはむしろ、あらゆる社会的属性を奪われて均質化した消費者大衆に過ぎないのではないのか。そして、20世紀の歴史が証明しているのは、そうした消費者大衆が容易にプロパガンダによって操作され得るということではなかったか。

 本論では、主に演劇や劇場との関連において議論されてきたシアトロクラシーの問いを映画の領域に導入し、映画(館)とシアトロクラシーの関係を考察する。そのさい本論はまず、シアトロクラシーの問題系を簡潔に素描したうえで、映画(館)とその観客を論じた二つの理論的考察をシアトロクラシーの観点から検討する。最初に取り上げるのは、ヴァルター・ベンヤミンが複製技術論文の比較的よく知られた二つの注で行った省察であり、そこでベンヤミンは映画の問題をシアトロクラシーの問題系と接続している。次に本論は、アメリカで研究したドイツ出身の映画学者ミリアム・ハンセンの理論的・歴史的考察に注目する。この考察の中でハンセンは、オルタナティヴな公共圏としての映画(館)の機能を分析している。これら二人の著者の考察を検討することを通して、映画(館)とその観客の政治的・社会的ポテンシャルを捉え直すことがとりあえずの目的である。


[1] ジャック・ランシエール 『解放された観客』 梶田裕訳、法政大学出版局、2013年、4-8頁参照。

[2] こうした印象にも関わらず、今日映画館が歴史的な変革期にあるのは事実である。20世紀の映画館モデルが解体しつつあることを示す徴候が、いたるところに見いだされる。Netflixのようなストリーミングサービスの台頭だけでなく、いまや映画館自身が多様な催しに門戸を開いている。デジタル化した映画は、もはや映画館での上演に縛られていない。上映のテクノロジーにおいても、4DXに代表されるような、観客のスクリーンへの注意を逸らすような仕組みが導入され始めている。さらには沈黙した受容という規範も、すでに一部では緩められている。こうした映画館の変容が、映画観客とスクリーンの関係をどのように変え、いかなる政治的・社会的ポテンシャルを孕むことになるのかは、本論の考察の延長線上で検討すべき課題である。

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