〈貧しきひと〉に導かれて
『神の道化師、フランチェスコ』

『神の道化師、フランチェスコ』を見ること、それは、そこに現れる〈世界〉の信じがたい軽やかさと充溢に、一瞬ごとに驚き、言葉を失うことにほかならない。軽さと溢れ出る豊かさ ––– それがこの作品を、ロッセリーニの同時期の諸作品から区別する。『フランチェスコ』(1950)とは対照的に、現代映画の初期軌道を描き出す作品群 –––『ドイツ零年』(47)、『ストロンボリ』(49)、『イタリア旅行』(53)––– で私たちが目にするのは、破壊された都市や荒涼とした風景あるいは死者の埋もれた遺跡のなかを重い足どりでさまよう人物たちの姿である。たとえば、『ドイツ零年』の最後の数分間 ––– それは映像と音響の新たな形式として「ネオレアリズモ」が誕生した数分間でもある ––– で描かれたエドゥムント少年の彷徨を思い出してみる。たしかに、廃墟と化したベルリンの瓦礫のあいだを進む少年は、不意に、子供が道路に線を引いて遊ぶときにするような、軽やかなステップを踏んで、見る者を驚かせはする。しかし、この遊戯的な身振りが徴づけるのは、彼の彷徨から目指されるべき目的地が最終的に姿を消したということであり、その歩みはしたがって身体が重力に屈する死の瞬間へと抗いようもなく導かれていく。あるいはまた、『ストロンボリ』で火山を登っていくイングリッド・バーグマンの歩みを思い起こしてみてもよいだろう。彼女にかすかな救済の光が瞬くのは、絶望し、疲れきって、彼女が火口のそばに身体を横たえるときである。そして、『イタリア旅行』では、二人を呑み込み引き離す群衆の熱狂の奔流だけが、「奇蹟」をもたらし、緩慢な死にも似た停滞のなかで崩れ去ろうとする中年夫婦を救うことができるのだ。

翻って、フランチェスコと彼の「小さな兄弟たち」はどうだろう。降りしきる雨のなか寒さに震える兄弟たちの様子を見て、フランチェスコは自分の傲慢を思い、罰を与えるように兄弟の一人に要求する。しかし、兄弟たちはフランチェスコを囲み、自分たちが彼とともにいることにどれほどの歓びを感じているのかを告げる。歌声が静かに高まり、彼らを包みこむ。するとフランチェスコと兄弟たちは、唐突に、しかし信じがたい自然さで、歌を口ずさみながらリズミカルに動き出し、なめらかな孤を描き出す。この作品を隅々まで満たす軽やかさとはこのようなものだ。言葉は歓びに満たされて歌となり、僧衣をまとった兄弟たちの小刻みな歩みはダンスのような軌跡を描く。そのようにして、映画は慎み深い音楽となる。人々に打擲されるときでさえ、彼らの身体はその軽さを失わない。いやむしろ事態は逆である。〈無垢のひと〉ジネプロは平和を説こうと暴君ニコライオの陣地に侵入しあっというまに捕らえられる。大男たちに放り投げられ、転がされ、振りまわされ、担がれ、引きずりまわされるジネプロの身体のなんと軽やかなことか! そうしてなぶりものになっている最中にも彼は、軽業師さながら、櫓にひょいと飛びのってみせる。

フランチェスコと小さな兄弟たちの軽やかさと同様に、映画の冒頭の一連のシークエンスにおいて私たちを驚かせるのは、彼らの粗末な僧衣を濡らし、僧帽の端から滴り落ち、足元を泥だらけにし、小川を作って流れながら、画面全体を満たす無数の雨粒だろう。このフィルムが映し出す〈世界〉には、ささやかな事物と生の輝きが横溢している。風や雨や川の流れだけではない。それはまた、キアーラを迎える日に兄弟たちが集め、絨毯がわりに敷き詰める無数の花々の色と香りであり、祈りを捧げるフランチェスコのまわりに集まる小鳥たちの囀りであり、彼らの小さな礼拝堂を飾るたくさんの小さな鐘が響かせる小鳥の囀りのような音色である。さらにそれは草原にやさしく降り注ぐ光であり、「完全な歓び」についてフランチェスコがレオーネと語り合う場面で空間を舞う無数の塵や地面の泥のことでもある。これらすべては〈世界〉が彼らに、無条件に、いかなる対価を要求することもなく与えるものである。彼らはそこに、決して計算せず、条件をつけず、つねに惜しみなく与える神の働きを感じる。神の愛を感じるのだ。神はこのフィルムにおいて、横溢する事物と生命の輝きのうちにみずからの存在を指し示す。フィルムのなかでもっとも感動的な人物の一人、〈単純なひと〉ジョヴァンニは、そのような〈与えられたもの〉としての世界の現れのうちにただやすらうことができる。彼は現在のうちにのみ生きていて、現在とは彼にとって、純粋にいまこの瞬間に彼の五感に与えられているもののことなのである。ジョヴァンニは、はじめてフランチェスコの姿を見たとき、それが誰であるのかも知らずに叫ぶ。「なんて美しいんだろう!」 彼のふるまいのすべてには、神に愛され、世界にやさしくなぶられる道化者の愛らしさと可笑しさが溢れている。大きな愛情に包まれる別れの場面、フランチェスコは兄弟たちに、これからどの方角に布教に行くのかを訊ねる。他の兄弟たちが街の名前を答えるなか、ジョヴァンニは自分の体が指し示す方向を見て、「あの木のうえで跳ねている小鳥の方に!」と叫ぶだろう。フランチェスコは、そんなジョヴァンニに静かに語りかける。「ならば小鳥が神の道を示してくれるだろう。」

〈与えられたもの〉のすべてを受け入れること、それは、この世界に存在する苦痛と悲しみをも引き受けることにほかならない。そしてそれは、もっとも弱い者、もっとも虐げられた者、もっとも深い孤独を生きる者のそばに立ち、彼を抱擁することである。フランチェスコは、夜の森を過ぎていく癩病者の服の端に縫いつけられた、たったひとつの鈴のかすかな響きに耳をすます。その響きは孤独者の歩みが発する微妙なシグナルである。それは、予期せぬ遭遇のさいに他者が投げかける容赦ない眼差しから、彼の身を守るはずのものだ。だがそれはまた、ひょっとしたらいるかも知れぬ、無条件に彼を愛する存在への不確かな呼びかけでもある。フランチェスコは彼の姿を見た瞬間、両手で顔を覆わずにはいられない。彼の姿にショックを受けただけではない。自分の眼差しが他者に強いる汚辱ゆえの「見ることの痛み」が、フランチェスコを貫いたのである。彼は相手を苦しめないように目を伏せて癩病者に近づき、優しく抱きしめる。「アメリカの夜」の手法で撮られた輝く夜の風景のなかをひとり去っていく彼を見送りながら、フランチェスコは地面に泣き崩れる。私たちの満ち足りた社会は、もはや同情(Mitleid)というものを理解することができず、それを密かな自己満足の表現と混同しつづけているのだが、同情とは、決して肩代わりすることのできない他者の計り知れない苦痛に打ち倒されることであり、文字通り、ともに苦しむこと(Mit-leiden)なのである。

フランチェスコと彼の小さな兄弟たちは、無条件に与え、また無条件に与えられることによってのみ生きようとする。それは愛のみによって生きることにほかならない。布教から裸で戻ってくるジネプロの挿話や街の場面が描いているように、彼らが貧しいのは、与えられたものを直ちにすべて与えてしまうからである。〈貧しきひと〉は〈愛するひと〉なのである。街の場面とならんで、フランチェスコが殺人者から渡された金銭を投げ捨てる場面、さらにジネプロとニコライオの対面の場面は、彼らのそんな生き方が「金銭」と「権力」の支配に抗して、貧者と富者、敵と味方を再び結びつけること(re-ligio)を示している。

(「癩病」は本作品字幕において「ハンセン病」の歴史的呼称として用いられており、筆者もそれに従いました。筆者にはいかなる差別的意図もないことをお断りします。)

初出:nobody #15、2004年10月 (本稿は初出に若干の加筆・訂正を行っています。)

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