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映画と音楽の余白に
リュック・フェラーリと『ある抽象的リアリストの肖像』

リュック・フェラーリがヨリス・イベンスの『ミストラル』(1965)で音響を担当したことはよく知られているが、そのような直接的な映画への協力とは別に、フェラーリの音楽制作と映画作家の作業のあいだにはいくつかの密接な結びつきが存在する。マイクと録音機をもって街に出て、広場や美術館や港や店先で人々が語る言葉や動物の鳴き声や雷鳴やバイクやモーターボートのエンジン音を録音すること。それはカメラを持った映画作家あるいはカメラマン(「カメラを持った男」)が、街頭に出て、そこで営まれている人々の生活や風景を撮影することに比すことができる。そして、そのようにして録音された音は、スタジオで編集され、ひとつの作品へと構成されるのだが、映画においても、撮影されたフィルムの断片は、編集台での作業を経てはじめてひとつの作品となる。フェラーリは『音楽散歩』(1964-69)についてのメモのなかで、自らの音楽制作のプロセスを2つの段階 –– 二種類の〈散歩〉–– に分けているが、それによると、最初のステップは音響を採取する〈旅=散歩〉であり、次のステップは編集作業によるその旅の〈回想=散歩〉と定義される。これらのステップを映画作家の仕事に当てはめ、人々との出会いをフィルムに記録する撮影と彼らと過ごした時間を回想する編集作業へと置き換えると、私たちの眼前には、たとえばジョナス・メカスの姿が浮かび上がってくることになるだろう。

フェラーリはまた、ジャクリーヌ・コーのインタビューのなかで、それぞれ異なる作曲方法に対応したふたつの音楽が存在すると語っている。ひとつは書かれた音楽であり、これは譜面に音符を1つ1つ書きつけていく作業にもとづいている。ここでは抽象的な音響のみがその素材である。それにたいして、テープ作品のように「見いだされた音響オブジェ」から出発する作品は、録られた音を処理する過程に繰り返し音を実際に聴いてみるステップが介在する「聴く作曲」を通して出来上がってくる。ここでは「具体的な」音も抽象的な音も同等の資格で扱われる。そして、たしかに映画にも、理論的にいえば、それぞれ異なる方法に対応するふたつのコンセプトがある。一方には、ヒッチコックのように、映画とは映画作家の脳内ヴィジョンの現実化であると考える映画作家たちがいる。彼らはスタジオですべてを1から作り上げる。しかし他方には、つねに「見いだされたオブジェ」から出発する映画作家たちもいるのである。この場合、カメラの前にあるオブジェは、「聴く作曲」の場合と同様、多種多様なものでありうる。たとえば、ストローブ=ユイレにとって、「見いだされたオブジェ」はカメラの前の風景や人物だけではなく、文学テクスト、音楽作品、絵画でもありうる。もちろん実際には、フェラーリによる音楽の区別の場合と同様に、多くの映画作品はこの両極の間を揺れ動く。

しかし、仮にフェラーリの音楽を映画と比較することになにがしかの根拠があるとしても、なぜフィクションの映画作家たちを引き合いに出さねばならないのだろうか? むしろドキュメンタリー映画作家こそ比較対象としてふさわしいのではないのか? たしかにそのような疑問が生じる余地はあるだろう。しかし実際には、フェラーリの音楽はドキュメンタリーよりもむしろフィクションにはるかに近いのである。『ほとんど何もない』シリーズに代表されるフェラーリの音響作品は、(ときに「サウンドスケープ」とも呼ばれもする)生真面目な現実の音響環境の記録や調査とは似ても似つかぬものである。「逸話的」であるとは、音響がその厳密に調整された(つまり改変された)具象性によって聴き手の想像力を刺激し、イメージのきわめて野蛮な氾濫を引き起こすことにある。たとえ私たちにユーゴスラビアの一地方の港町を実際に訪れたことなど一度もなくとも、そんなことにはお構いなく、鮮烈なイメージが私たちの脳内に喚起される。そして、このようなイメージの連鎖の爆発は、おそらくフェラーリ自身にとっても同様なのである。フェラーリにとって、手元にあるテープに録られた音響はその場所にいた〈私〉の痕跡として物質化した記憶なのだが、フェラーリは同時にまた記憶をつねに想像的なものとして扱うのである。フェラーリが書き続けた「偽自伝」(本パンフ所収の「自伝 No. 2」を参照)もまたそのような想像的な記憶であり、これは「逸話的音楽」と同様、「見いだされたオブジェ」にもとずくフィクションの展開だといえるだろう。

『ほとんど何もない 第一番』がまったく編集のないひと繋がりの録音であると信じられたというエピソードは、この作品でフェラーリが行った作業がいかに「狡猾」であり、「倒錯的」であるかを教えてくれる。あるいは、作曲の痕跡を消し去ることに作曲家のすべての創意とテクニックを注ぎ込むという、きわめて「ふざけた」、「不真面目」な戯れであったと言うこともできる。

そのようにフェラーリの作業を形容するからといって、フェラーリを断罪しようというのではもちろんない。そうではなく、フェラーリの〈不真面目であることの倫理〉とでも呼ぶべきものに注目してみたいのだ(「倫理」という言葉がフェラーリには似つかわしくない重さを喚起してしまうとしても)。というのも、『ある抽象的リアリストの肖像』という映画が私たちに気づかせてくれることのひとつが、そのことだからである。映画の冒頭の場面、フェラーリはいたって真剣な顔つきでシンセサイザーやミキサーを操作している。私たちは、演奏する音楽家の背後で若い女性がひとり椅子に腰掛け、じっと耳を傾けているのに気がつく。音楽家の愛人? ・・・いや、違う。首にスカーフを巻いた俯き加減のその美人は、実際には音楽などこれぽっちも聴いていない。というか、聴けないのだ。ただのマネキン人形なのだから。しかし、いったいなぜ音楽スタジオにマネキン人形が置かれねばならないのか! 映画は、このような真面目さと不真面目さとのあきれるような共存を、フェラーリの生活の隅々に発見していく。彼が真剣な面持ちで言葉を書きつける楽譜が表示されたモニターのデスクトップ画像は、どうみてもいかがわしい画像だし、庭の木には廃品のCDが吊るされてきらきら輝いている。小奇麗なキッチンの冷蔵庫が一面ど派手な模様で覆われているかと思えば、落ち着いた雰囲気の居間のソファには女性の裸体がプリントされた布がかけられている。そう、この音楽家は真面目さが空間を占有することに我慢がならないのである。真面目さは、異質な要素を排除し、禁止を張りめぐらすことによって、「趣味の良い」均質空間を打ち立てようとする。音楽家リュック・フェラーリは、そんな真面目さが幅を利かせるところではどこでも不謹慎な子供のように振る舞って(ヨハネ・パウロ2世の真似をするフェラーリ!)、不真面目さを擁護する。不真面目さとは、異質なものの共存を作り出すための保証であり、あらゆる権力から遠ざかることを可能にするものなのである。録音された音を作曲のための単なる「素材」として完全に抽象化してしまうことへの抵抗と、それら具象性を残した音を抽象的な音と共存させることにたいするフェラーリの情熱的な関心は、偽自伝への情熱にも現れている〈不真面目であることの倫理〉の音楽的な現れだとは考えられないだろうか。

『ある抽象的リアリストの肖像』の美点もまた、その「不真面目さ」にある。そこには『ほとんど何もない』にも通じる不真面目な戯れが見出されるのだ。というのも、この作品はあたかもドキュメンタリーのような振りをして観客の前に姿を現しながら、決定的な場面では、フィクションの編集手法をさりげなく用いているからである。ドキュメンタリー映画の常套手段(手持ちカメラ、ナレーション、インタビュー、カメラ目線など)は周到に排除され、視点ショットのようなフィクション特有のモンタージュが用いられる。そして、ドキュメンタリーを見ているのだと信じて疑わない観客を、思いがけず、赤裸々なラブストーリー(「逸話」)で不意打ちするのである。それが起こるのはもちろん、仲良く手をつないでスタジオを訪れたフェラーリ夫妻が、コンピュータの不具合をきっかけに険悪な雰囲気になり、また仲直りして仲良くスタジオを後にするまでの一連の場面のことである。妻とソファに並んで腰掛けたフェラーリが、ほんとは大好きな女の子と仲直りしたいのに謝ることのできない男の子のように、努めて平静を装いながら少しずつ妻との関係修復を図る場面には、なんとどきどきさせられることだろう。『ある抽象的リアリストの肖像』は、偽ドキュメンタリーとなることによって、偽自伝を愛する男の人生を描き出すことに見事に成功しているのである。

(初出:「リュック・フェラーリ・フェスティバル −世界のざわめき、音の記憶」パンフレット、2006年7月、船場アートカフェ)

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