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<新訳>ポピュラー音楽について 
Ⅰ. 音楽の素材

訳者付記

大学の授業で用いる教材として、アドルノの英語論文 “On Popular Music” を訳出しました。この論文は Studies in Philosophy and Social Science に1941年に発表された論文ですが、成立時期が『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章に近く、そこで論じられている主題の多くがここでも扱われています。しかもそれらの主題が特定の対象(「ポピュラー音楽」)に即してかなり具体的かつ詳細に論じられているので、『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章よりもアドルノの考えの骨子を理解しやすくなっています。加えて、元々英語で発表されたためか、アドルノの文章としては異例なほど平明で、読みやすく書かれています。こうした点から学部生が「文化産業論」を学ぶには好適な文章だと言えるでしょう。この論文でアドルノは同時代のヒット曲に数多く言及し、具体的な分析を加えています。この新訳ではできる限りアドルノが言及している音源へのリンクを張るようにしました(ウェブ版のみ)。実際にアドルノの耳に響いていた音源を聞きながら読むことで、アドルノのポピュラー音楽に対する考えをより具体的に把握できるのではないかと思います。(サイトリニューアルに合わせてリンクを張り直しました。2021. 01. 18.)

周知の通り、この論文についてはすでに平凡社から翻訳が出ています。ただ残念ながら、その翻訳では非常に込み入った訳文になっており、原文の平明さが失われてしまっています。そこで今回、授業用に訳出したものをここに公開することにした次第です。ただ著作権的に問題があるのは明らかですので、著作権者から抗議があれば、公開は中止します。なお英語原文はこのサイトで全文公開されています。(海老根剛)


ポピュラー音楽について 

テオドール・W・アドルノ(ジョージ・シンプソンの助力を得て)

翻訳 海老根 剛

[ ]は訳者付記である。

Ⅰ. 音楽の素材

音楽の二つの領域

 ポピュラー音楽とは、私たちが本論で探究する様々な刺激を産出する音楽であるが、通常、シリアスな音楽との違いによって特徴づけられる。この違いは広く認められており、それぞれの音楽の水準の違いだとみなされている。この違いはとても明確に定義されているように思えるので、多くの人々はそれぞれの水準に備わる価値を、互いに完全に独立したものとみなしている。しかしながら、私たちの考えでは、なによりもまず、そこで水準と呼ばれているものを、音楽的にも社会的にもより正確な言葉で言い換えることが必要である。そうすることによって、それら二つの水準を明確に区別できるだけでなく、二つの音楽の領域から構成される状況全体についても光を当てることが可能となるのだ。

 そうした明確化を行うにあたってとりうる方法のひとつは、音楽生産に生じた二つの主要領域の間の区分とそれらの領域の起源を、歴史的に分析することであろう。しかしながら、本研究が扱うのは、現在の地位にあるポピュラー音楽の実際の機能であるので、この現象[ポピュラー音楽]を起源にまでさかのぼるのではなく、いま私たちに与えられている現象の特徴を考察するほうが賢明である。二つの領域への音楽の分割は、アメリカにポピュラー音楽が生まれるはるか以前に、ヨーロッパで起こった。この点を考慮するなら、私たちのアプローチはさらに正当なものとなる。アメリカ音楽は最初からこの分割を所与のものとして受け入れていたのだ。したがって、この分割の歴史的背景は、アメリカ音楽には間接的にしか当てはまらない。それゆえ、私たちはなによりもまず、最も広い意味でのポピュラー音楽が持つ基本的な諸特徴を認識することを目指すことにしたい。

 シリアスな音楽とポピュラー音楽との関係を明確に判断するためには、ポピュラー音楽の基本的特徴である規格化に対して厳密な注意を向けねばならない(1)。ポピュラー音楽の構造全体は規格化されている。規格化の裏をかく試みがなされるときでさえ、そうなのである。規格化は、最も一般的な特徴から最も特殊な特徴にまで及んでいる。一番良く知られているのは、1コーラスは32小節で構成されるというルールや、音域は1オクターブと1音までというルールである。ヒット曲の一般的な類型もまた規格化されている。パターンの厳格さが知られている、ダンスの様々なタイプがあるだけではない。マザー・ソング、ホーム・ソング、ナンセンス・ソングまたは「ノベルティ」・ソング、童謡もどき、別れた女性への哀歌など、「主題的特徴」もまた存在する。最も重要な点は、それぞれのヒット曲の和声的基盤 ––– それぞれの部分の冒頭と末尾 ––– が規格化した図式を打ち出さねばならないことである。この図式は、和声面でどんな介入がなされようとも、最も単純な和声的事実を強調する。複雑化はいかなる影響も及ぼさないのだ。この揺るぎない仕組みのおかげで、どんな逸脱が起ころうとも、ヒット曲はいつものお馴染の経験へと舞い戻るのであり、根本的な新しさはまったく導入されないのである。

 ポピュラー音楽の細部それ自体もまた、形式に劣らず規格化されており、そうした細部を表す一揃いの用語も存在している。例えば、ブレイクやブルー・コード、ダーティー・ノーツなどである。とはいえ、細部の規格化は、全体の枠組み[構造全体]の規格化とはやや性質を異にしている。それは枠組みの規格化のようにあからさまなものではなく、個性的な「効果」という見かけによって隠されているのだ。そして、そうした効果の慣行は、どれほどミュージシャンの間で広く知られているものであっても、専門家の秘密として扱われるのである。全体および部分の規格化のそれぞれに備わる、こうした対照的な性質は、楽曲が聴取者に及ぼす効果の大まかで予備的な背景をなしている。

 枠組みと細部との間のこうした関係から生じる最も重要な効果は、聴取者が全体よりも部分に対してより強い反応を示すようになるということである。聴取者による全体の把握は、自分が実際に耳を傾けたひとつの具体的作品の生き生きとした経験のなかでなされるのではない。全体は、実際に音楽が経験される以前にすでに前もって与えられており、あらかじめ受け入れられているのだ。したがって、細部に様々な度合の強調を付与するということを別にすれば、全体がいかなる程度であれ、聴取者の細部への反応に影響を及ぼすことはありそうにない。また、全体の枠組みの中で音楽上、戦略的な位置に置かれた細部、たとえば、サビの冒頭部分やブリッジ後にサビが再び現れる部分に置かれた細部は、ブリッジの真ん中の小節に位置するような細部と比較すると、ずっと再認されやすく、好意的に受容される可能性も高い。だが、こうした細部の位置関係が、全体の図式自体を撹乱するようなことは決してない。こうした位置に関わる限定的な範囲内でのみ、細部は全体の影響を受けている。しかし、音楽的出来事としての全体が強調されたり、全体の構造が細部の影響を受けたりすることは決してないのである。

 これと比較すべく、シリアスな音楽を特徴づけるなら、以下のようになる。シリアスな音楽では、あらゆる細部はその音楽的意味を作品の具体的な全体性から受け取っている。そして、この全体性のほうは、諸々の細部の間の生きた関係から構成されており、音楽的図式の単なる押しつけによって成り立っているのではない。たとえは、ベートーベンの交響曲第7番第1楽章の導入部において、第二主題(ハ長調)は全体の文脈からのみ、その真の意味を受け取っている。第二主題は、ただ全体を通してのみ、独特の叙情的、表出的性質を獲得するのである。すなわち、それは、第一主題の定旋律的な性格とのコントラストによって構成された、ひとつの全体となるのである。この第二主題を文脈から切り離して単体で扱うならば、それはまったく取るに足らないものに格下げされてしまうだろう。もうひとつ別の例としては、ベートーベンのピアノ・ソナタ「熱情」第1楽章における、持続低音上で進行する再現部の冒頭を挙げることができる。先行する感情の高まりに続くことによって、それは最高度にドラマティックな勢いを獲得している。提示部と展開部を省略して、この再現部から始めるならば、すべてが失われてしまうのである。

 これに相当するようなことはポピュラー音楽では起こりえない。ある細部が文脈から取り除かれたとしても、それが音楽的意味に影響することはないだろう。「枠組み」はそれ自体が音楽上の自動作用にすぎないので、聴取者はそれを自動的に供給することができる。あるサビの出だしは、他の無数のサビの出だしと交換可能なのだ。諸要素間の関係や諸要素と全体との間の関係は、何の影響も受けないだろう。ベートーベンの場合、具体的な全体と具体的な部分との間の生き生きとした関係のもとでのみ、位置は重要性を持つ。一方、ポピュラー音楽では、位置は絶対である。すべての細部は代替可能であり、機械の歯車の機能しか果たさないのである。

 こうした差異をただ確証するだけでは、まだ不十分である。ポピュラー音楽にみられる広範に規格化された図式や諸々の類型は、ダンスと密接な関係にあるが、だとするなら、ウィーン古典派のメヌエットやスケルツォのような、シリアスな音楽におけるダンスの派生物に対しても、そうした図式や諸類型が適用できるはずだ、という反論がありうるからである。シリアスな音楽の一部をなすそうした音楽もまた、全体からではなく、むしろ部分という観点から理解されうるのだ、と主張できるかもしれない。あるいは逆に、シリアスな音楽に含まれるダンスの諸類型の場合には、そうした類型が繰り返し現れるにもかかわらず、全体がいまだ知覚可能だというのならば、現代のポピュラー音楽においても、全体が知覚できない理由などあるだろうか、という主張も可能だろう。

 以下の考察では、シリアスな音楽がダンスの諸類型を用いる場合にさえ存在するラディカルな差異を示すことで、この二つの反論に答えてみたい。今日の形式分析の見方にしたがうなら、ベートーベンの交響曲第5番第3楽章のスケルツォは、高度に様式化されたメヌエットだとみなすことができる。このスケルツォにおいて、ベートーベンが伝統的なメヌエットの図式から受け継いだのは、短調のメヌエット、長調のトリオ、そして短調のメヌエットの反復という三つの部分からなる際立ったコントラストというアイデアである。それに加えて、他のいくつかの特徴、たとえば最初の四分の一でしばしば強調される四分の三拍子の強いリズムや、小節や楽節の連なりにおけるダンスのような対称性といった特徴もまた、ベートーベンは受け継いでいる。しかし、具体的な全体性としての第三楽章に備わる独特な形式理念は、メヌエットの図式から借り受けた諸々の仕組みに新しい評価を与える。すなわち、この楽章全体は、途方もない緊張を生み出すべく、最終楽章への導入部として構想されているのである。ここで生み出される緊張は、脅威をはらんだ予兆的表現だけからもたらされるのではない。そうした表現以上に、まさしく形式の展開が処理されるその仕方から、それは生じているのだ。

 古典的なメヌエットの図式では、最初に中心となる主題が示され、次に第二部[トリオ]が導入される。ちなみに、この第二部はやや離れた調性に移ることもあり、機能的には確かに今日のポピュラー音楽の「ブリッジ」に似ている。そして、メヌエットでは、最後に、最初の部分が再び現れることになる。ベートーベンにおいても、こうしたことがすべて起こっている。彼はスケルツォの部分で、主題の二元性というアイデアを受け継いでいる。しかし、ベートーベンは、伝統的なメヌエットでは何も語らない無意味なゲームの規則に過ぎなかったものに、意味を持って語るように強制しているのだ。彼は形式的構造と独特の内容との間に完璧な首尾一貫性を実現しているのである。それはすなわち、主題を入念に練り上げるということにほかならない。このスケルツォ[第三楽章]のスケルツォ部分全体(つまり、トリオの始まりを印づけるハ長調の弦の低い響きが入ってくる前の部分)は、二つの主題からなる二元性によって成り立っている。すなわち、弦楽器の奏でる、這うような音型と、管楽器による「客観的な」、硬質な応答である。この主題の二元性は、図式的な仕方で展開されてはいないので、最初に弦楽器のフレーズが練り上げられ、次に管楽器の返答が示され、その後に弦楽器の主題が機械的に反復される、という風には進行しない。ホルンによって演奏される第二主題が最初に現れた後、二つの本質的な要素[主題]は、対話するかのように交替しながら相互に結びつけられていく。そして、スケルツォ部分の最後を実際に印づけるのは、第一主題ではなく、第二主題のほうである。第二主題が最初の音楽的フレーズ[第一主題]を圧倒してしまったのである。

 さらに言うなら、トリオの後のスケルツォの反復は、非常に異なった仕方で書かれているので、最初のスケルツォの単なる影のように響き、あの不安にさせる性格を帯びることになる。そして、この不安な感じを消し去ることができるのは、最終楽章の主題の断固たる登場だけなのだ。したがって、仕組みの全体が、ダイナミックなものに変えられている。主題だけでなく、音楽の形式それ自体が、緊張にさらされることになったのだ。それは、問いと応答からなる第一主題の二重構造のなかにすでに現れている緊張と同じものであり、その後、二つの主要主題の間で作られる文脈のなかで、さらに明白なものとなる。図式全体が、この特定の楽章に内在する要求に服しているのである。

 シリアスな音楽とポピュラー音楽との差異を要約すると、以下のようになる。ベートーベンや優れたシリアスな音楽の場合には、––– 出来の悪いシリアスな音楽のことはここでは扱わない。そうした音楽はポピュラー音楽と同じくらいに硬直的で機械的なことがある。––– 細部が全体を潜在的に含んでおり、全体の提示へと展開するが、同時にまた、細部は全体の構想から作り出されてもいる。ポピュラー音楽の場合、細部と全体との関係は偶然的である。細部は全体とまったく関係がなく、全体は外来の枠組みとして現れる。したがって、全体が個別的な出来事によって変化を蒙るようなことは決してない。またそれゆえに、全体は言わばよそよそしく、動じぬままであり、作品を通して注意を引くこともない。それと同時に、細部のほうは、それが決して影響を及ぼすことも変えることもできない仕組み[全体]によって、台なしにされている。その結果、細部は首尾一貫しないものにとどまるのである。展開することを許されない音楽的細部は、みずからのポテンシャルの戯画となるのだ。

規格化

 ここまでの議論が示しているのは、ポピュラー音楽とシリアスな音楽との違いは、「低級」と「高尚」、「単純」と「複雑」、「素朴」と「洗練」といった音楽の水準に言及する用語によってではなく、より厳密な用語を用いて把握できるということである。たとえば、この二つの音楽領域の違いは、複雑さと単純さという用語では適切に表現できない。初期ウィーン古典派の作品はすべて例外なく、リズムという点ではジャズのストックアレンジ[既成曲の編曲]よりも単純である。旋律について言えば、〈ディープ・パープル〉〈サンライズ・セレナーデ〉のような多くのヒット曲にみられる奔放な音程は、それ自体としてみれば、たとえばハイドンのほとんどの旋律よりも付いていくのが難しい。ハイドンの場合には、旋律はたいてい主和音と二度音程の範囲で動くからである。和声をみてみると、いわゆるクラシック音楽が用いる和声のレパートリーは、今日のティン・パン・アレーの作曲家が用いる和声のそれよりもつねに限定されている。ティン・パン・アレーの作曲家は、ドビュッシーやラヴェルやさらに最近の音楽をソースとして利用しているのだ。そういうわけで、規格化と非規格化こそが、両者の差異を際立たせる重要な概念なのである。

 構造的規格化は、規格化された反応の実現を目指している。ポピュラー音楽を聴く行為は、それを売込む人々によって操作されるだけでなく、いわばこの音楽自体の固有の本性によっても操作されており、自由でリベラルな社会における個性[個人]という理想とはまったく相容れない反応メカニズムの体制に服することになる。このことは単純さや複雑さとはまったく関係がない。シリアスな音楽では、最も単純な要素をも含めてあらゆる音楽的要素が、「それ自体」として固有の存在を有しており、作品が高度に組織化されればされるほど、ある細部を別の細部で代用することが難しくなる。一方、ヒット曲の場合には、楽曲の基礎をなす構造が抽象的であり、その音楽の独特の進行から独立して存在している。ある種の複雑な和音は、シリアスな音楽で用いられるときよりも、ポピュラー音楽の中で使われるときのほうが理解しやすいという錯覚は、ここから生じるのだ。というのも、ポピュラー音楽における複雑な要素は決して「それ自体」としては機能せず、その背後にいつでも図式を感じとれる見せかけや装飾としてしか機能しないからである。ジャズを聴くとき、アマチュアの聴取者は、複雑なリズムや和声の定式を、図式的な定式に置き換えることができる。複雑な定式は図式的な定式の代理であり、どれほど大胆なものであろうとも、依然として図式的な定式を示唆しているからである。パターンについての知識を頼りにちょっとした置き換えを行うことで、耳はヒット曲の難しさを処理するのだ。複雑な要素に直面しても、実際のところ、聴取者は、それが代理している単純な要素しか聴かないのであり、複雑な要素を、単純な要素をパロディー的に歪めたものとしか感じないのである。

 シリアスな音楽の場合、そうした定型化したパターンによる機械的な置き換えは不可能である。こうした音楽では、最も単純な出来事であろうとも、それを直接に把握する努力が必要である。定石化した効果を生み出すことしかできない定石化した慣行にしたがって、出来事を漠然と要約するだけでは不十分なのだ。直接に把握する努力がなされないならば、音楽が「理解される」ことはない。一方、ポピュラー音楽の場合には、作曲の際に、独自的なものを標準に変換するプロセスがあらかじめ計画されている。ポピュラー音楽は、そうした変換が楽曲そのものの内部で実現されるような仕方で作曲されているのだ。

 楽曲が聴取者の代わりに聴くのである。このようにしてポピュラー音楽は聴取者から自発性を奪い、条件反射を促進する。ポピュラー音楽は、聴取者に対して、楽曲の具体的な流れを追うように要求しないだけではない。実際のところ、それはまた、なお残る具体的なものを包摂してしまえるモデルを、聴取者に提供しているのだ。図式的な展開が、聴取者による聴取の仕方を決定すると同時に、聴取の際のいかなる努力をも不要にする。ポピュラー音楽は、印刷物のダイジェスト版の流行にとてもよく似た仕方で「あらかじめ消化しやすいように作られている」。私たちがあとで[Ⅲ章で]論じる聴取習慣の変化を説明するのは、結局のところ、現在のポピュラー音楽のこうした構造なのである。

 ここまで私たちはポピュラー音楽の規格化を構造的な観点から考察してきた。すなわち、生産過程や規格化の根底にある諸原因にははっきり言及せずに、ポピュラー音楽に内在する性質として規格化を論じてきた。産業的な大量生産はすべて必然的に規格化に行き着くとはいえ、ポピュラー音楽の生産を「産業的」と呼べるのは、販売促進と流通の点に関してのみである。ヒット曲を制作する行為は、依然として手仕事の段階にある。ポピュラー音楽の生産は経済的な組織のもとに高度に集中しているが、生産の社会的様式という点ではいまだ「個人主義的」なのである。販売促進の技術には実際に産業的手法が用いられてきた一方で、作曲家、ハーモナイザー、アレンジャーの間の分業は産業的なものではなく、むしろ当世風に見えるように、産業化を装っているにすぎない。ヒット曲を書く様々な作曲家たちがある特定の規格化のパターンに従わなかったとしても、生産コストが上がったりはしないだろう。したがって、私たちは、構造的な規格化をもたらす別の理由を探さねばならない。自動車や朝食用食品の規格化を説明するのとはまったく異なる理由を探さねばならないのである。

 そうした規格化の基本的理由を理解する手がかりになるのは、模倣である。ポピュラー音楽における音楽上の規格は、元来、競争的過程によって発達してきた。あるひとつの曲が大きな成功を収めると、その曲を模倣する他の曲が大量に出現した。最も成功を収めたヒット曲の類型や最も成功した諸要素の「比率」が模倣されたのだ。そして、こうしたプロセスが最終的に行き着いたのが、諸々の規格の結晶化である。今日のような[生産組織の]集中という条件のもとで、これらの規格は「凍結」して固まってしまった(2)。すなわち、そうした規格は、競争的過程の最終結果であるカルテル化した代理店[音楽事務所]によって独占的に掌握され、販売促進の対象となる素材に厳格に押しつけられることになったのだ。ゲームの規則に従わないことは、排除の根拠となった。いまとなっては規格化されている、元々のパターンは、競争的な仕方で進化してきた。大規模な経済の集中が、規格化を制度化したのであり、それを命令に変えたのである。結果として、骨のある個人主義者によるイノベーションは、非合法化されてきた。そして、規格化されたパターンに、偉大なものの免責特権が付与された。「王は悪事をなしえず」というわけである。このことはまた、ポピュラー音楽におけるリバイバルの説明にもなる。リバイバルは、所与のパターンにならって製造された、規格化された製品に特有の陳腐な性質を持っていない。そこには依然として自由競争の息吹が宿っているのだ。だが他方において、リバイバルされた古い有名なヒット曲は、のちに規格化されることになったパターンを、打ち立ててもいる。それらの曲はゲームの規則の黄金時代なのである。

 規格の「凍結」は、代理店自身に対して社会的に強制されている。ポピュラー音楽は同時に二つの要求を満たさねばならない。ひとつは、聴取者の注意を掻き立てる刺激への要求であり、もうひとつは、音楽的に訓練されていない聴取者が「自然な」音楽と呼ぶものの範疇に収まるような素材への要求である。そうした聴取者が「自然な」音楽と呼ぶものは、自分が聞き慣れている音楽の慣習や素材上の定式の総体あり、聴取者はそれを音楽そのものに固有な、単純な言語だとみなしている。この自然な言語を生み出した発展がどれほど新しいものであろうとも、聴取者はそれを音楽そのものの言語だとみなすのである。このアメリカ人の聴取者にとって自然な言語は、彼の最初の音楽体験に由来する。すなわち、童謡や、日曜学校で歌った賛美歌や、学校から帰宅するときに口笛で吹いたちょっとした曲である。こうしたものすべては、音楽言語の形成にあたって、ブラームスの交響曲第3番の冒頭を第2番のそれから区別する能力よりも、はるかに重要である。公式の音楽文化は、かなりの程度まで、そうした基礎をなす音楽言語––すなわち、長調と短調、およびそれらが含意するすべての調性的な関係––の上部構造にすぎない。しかし、素朴な音楽言語のこうした調性的関係は、それに順応しないものすべてに対する障壁になる。奇抜な音楽的表現は、この自然だとされる言語に鋳直されうるかぎりにおいてのみ、許容されるのである。

 消費者の要求という観点から言うと、ポピュラー音楽の規格化は、音楽に対する公衆の精神的態度によってポピュラー音楽に押しつけられた二重の願望の表現にすぎない。すなわち、ポピュラー音楽は確立された「自然さ」から何らかの仕方で逸脱することで「刺激性」を帯びねばならないが、しかし他方ではまた、そうした逸脱に対して自然さの優位を守らねばならないのである。自然な言語に対する聴衆の態度は、規格化された生産によって強化されている。この生産は、元々は公衆に由来したかもしれない願望を制度に変えるのだ。

疑似個性化

 こうした願望に含まれるパラドクス ––– 刺激性と自然さを同時に求めること ––– は、規格化そのものの二重の性質を説明している。つねに同一のものであり続ける枠組みの様式化は、規格化のひとつの側面にすぎない。私たちの文化における集中と管理は、まさしくそれらが現れるときに、みずからの姿を隠すのである。隠されていなければ、それらは抵抗を呼び覚ますだろう。それゆえ、個人的偉業という幻想が、さらにある程度まではその現実さえもが、維持されねばならないのである。この幻想の維持は、物質的な現実それ自体によって基礎づけられている。というのも、生活過程に対する行政的管理は集中化しているものの、所有権は依然として拡散しているからである。

 直接には生活必需品を含まない贅沢品生産の領域は、ポピュラー音楽が属する領域であるが、そこではまた個人主義の残滓が、趣味や自由選択といったイデオロギー的範疇のかたちをとって最も活発に保たれている。したがって、この領域では、規格化を隠蔽することが至上命令である。音楽の大量生産の「後進性」、すなわち、それがいまだ手仕事の段階にあり、文字通りの産業的段階にはないという事実は、この規格化を隠蔽する必要性に完璧に合致している。文化のビッグ・ビジネスという見地からすれば、この必要性はきわめて切実である。もしポピュラー音楽の手仕事的要素が完全に撤廃されるならば、規格化を隠蔽する人工的手段の進化が必要になるだろう。そうした手段の諸要素は、現時点でもすでに存在している。

 音楽の規格化にとって不可欠な相関物は、疑似個性化である。私たちが疑似個性化という言葉で言わんとしているのは、規格化そのものを基盤にして、文化の大量生産に、自由選択と開かれた市場という後光を付与することである。ヒット曲を規格化するということは、いわば顧客たちの聴取を代行することによって、彼らをコントロールすることである。一方、ヒット曲の疑似個性化とは、顧客たちが聴いているものはすでに彼らに代わって聴取されており、「あらかじめ消化しやすいように作られている」ということを、彼らに忘却させ、それによって彼らをコントロールすることである。

 個性的だと推定される諸特徴の規格化を示す最も徹底した事例は、いわゆる即興演奏のなかに見出される。ジャズの演奏家たちがいまもまだ実際に即興演奏しているとしても、彼らの即興演奏はまったく「標準化」されてしまったので、個性化に役立つ規格化された道具立てを表現する専門用語がすっかり開発されている。ちなみに、ジャズを宣伝する代理店は、こうした専門用語を盛んに喧伝し、開拓者の職人芸についての神話を吹聴するとともに、楽屋裏を覗いて裏話を手に入れる機会をファンに提供することで、ファンを喜ばせようとしている。即興演奏にみられる疑似個性化は、枠組みの規格化によって規定されている。この枠組みは非常に硬直しているので、それが何らかの即興演奏に対して許容する自由は、厳格に制限されている。即興演奏、すなわち、個人の自発的な行為が許される楽曲の一節(「スイングしようぜ」 “Swing it boys” がその合図である)は、和声と拍子の図式からなる壁の内部に閉じこめられているのだ。スイング以前のジャズにおける「ブレイク」など、非常に多くの場合に、即興演奏される細部の音楽的機能は、図式によって完全に決定されている。たとえば、ブレイクは、偽装された終止[カデンツ]以外のものではありえない。基礎をなす同一の和声的機能を旋律だけで限定する必要性ゆえに、ここには本当の即興演奏をする可能性はほんのわずかしか残されていない。そして、このわずかな可能性もすぐに使い果たされてしまったので、即興的な細部の定型化が生じることになった。したがって、標準の規格化は、純粋に技術的な仕方で、標準からの逸脱の規格化––疑似個性化––を推し進めるのである。

 即興演奏の規格化への従属は、ポピュラー音楽の持つ二つの主要な社会心理学的特質を説明する。第一の特質は、ポピュラー音楽の細部が、基礎をなす図式とあからさまに結びついているという事実であり、その結果、聴取者はつねに安全な足場の上にいると感じることができるのである。個人が加える変化の選択肢はとても限られているので、同じ変奏が絶えず繰り返され、それによって、変奏の背後にある同一のもの[図式]が、ひとを安心させるような仕方で明示されるのだ。第二の特質は、「置き換え」の機能である。即興演奏される聞き所は、そうした聞き所それ自体を音楽的出来事として把握することを禁じる。それはただ装飾としてしか受け取ることができないのだ。大胆なジャズの編曲において、ウォリード・ノーツ(worried notes)やダーティー・ノーツ(dirty notes)[いずれも意図的に音程をずらされた音を指す]、言い換えれば、調子外れの音(false notes)が際立った役割を果たすことは、よく知られている。それらの音が興奮を喚起する刺激として知覚されるのは、それらが耳によって正しい音に訂正されるからこそである。しかし、これは、ポピュラー音楽のあらゆる個性化においてずっと目立たぬかたちで起こっている事柄の、極端な事例にすぎない。どんな和声的な大胆さも、つまり最も単純な和声の図式に厳密には収まらないどんな和音も、「間違ったもの」[調子外れのもの]として知覚されることを要求する。すなわち、正しい細部 ––– あるいはむしろ、あからさまな図式 ––– との置き換えをはっきり指示する刺激として、そうした和声を知覚するように求められるのだ。ポピュラー音楽を理解するということは、聴取に対するそうした命令に服従することを意味している。ポピュラー音楽は、それ固有の聴取習慣を命令するのだ。

 ポピュラー音楽の種類や有名楽団の違いに関して主張される、もうひとつ別のタイプの個性化も存在する。ポピュラー音楽の諸類型は、生産にあたって注意深く差別化されており、聴取者はそれらの類型から選択できると想定されている。最も広く認知されている差別化は、スウィングとスウィートの間のそれであり、ベニー・グッドマンガイ・ロンバードといった有名楽団の間のそれである。聴取者は音楽の類型[タイプ]や演奏する楽団の名前を即座に区別することができる。素材が根本的に同じものであり、強調される際立ったトレードマークを別にすれば、演奏も非常に似通っているにもかかわらず、そうした区別が可能なのである。音楽の類型や楽団に関するこうしたラベリングの技術は、疑似個性化であるが、厳密な音楽技術の領域外でなされる社会学的な種類の疑似個性化である。こうした疑似個性化は、現実には差異のないものを差別化するために、同定の手がかりになるトレードマークを提供するのである。

 ポピュラー音楽は多項選択式のアンケートになる。二つの主要な類型と、それらからの派生型があり、そこから選択がなされるのである。聴取者は、これらの諸類型の不動の存在感によって、自分の嫌いなものを線で消し、好きなものに印をつけるように心理的に促される。この選択に内在する制限とそれにともなう明快な二者択一は、好き/嫌いという行動パターンを誘発する。この機械的な二分法は、無関心を打ち破る。もしひとがポピュラー音楽を聴きつづけたいと望むのならば、スウィートかスウィングのどちらかを好むことが絶対に必要なのである。


(1) 規格化の基本的な重要性について、現在のポピュラー音楽関連の文献がまったく注目してこなかったわけではない。「〈オン・ザ・ロード・トゥ・マンダレイ〉〈シルヴィア〉〈トゥリーズ〉といったスタンダード歌曲やシリアスな歌曲とポピュラー歌曲との主要な違いは、以下の点にある。ポピュラーな楽曲の旋律と歌詞が、限定されたパターンと構造的形式の内部で構成されているのに対して、スタンダード楽曲の詩または歌詞はいかなる構造的制限も受けておらず、音楽も固定したパターンや形式に従うことなく、自由に言葉の意味と感情を解釈しているのだ。別の言い方をすれば、ポピュラー歌曲は「注文にしたがって制作されている」であるのに対して、スタンダード歌曲は作曲家に想像力や解釈を自由に駆使することを許すのである」(Abner Silver and Robert Bruce, How to Write and Sell a Song Hit. New York, 1939, p. 2)。しかしながら、この著者たちは、そうしたパターンが持つ外部から押しつけられた商業的性格を認識できていない。この商業的性格は、方向づけられた反応を––あるラジオ番組でなされる定番のお知らせの言葉で言えば「聴きやすさ」を––目指しているのだ。著者たちはまた、機械的なパターンを、高度に組織化された厳密な芸術形式と混同している。「確かに詩において、ソネットよりも厳格な詩形はほとんど存在しない。しかし、あらゆる時代の最も優れた詩人たちは、狭く限定された形式のなかで不滅の美を織り上げてきたのだ。作曲家がみずからの才能と天分を発揮する機会は、ポピュラー歌曲にも、よりシリアスな音楽と同じだけ用意されている」(pp. 2-3)。したがって、この著者たちにとって、ポピュラー音楽の規格化されたパターンは、潜在的にフーガの法則と同じ水準にあるように思えるのである。ポピュラー音楽の基本的な規格化についての洞察を実りのないものにしているのは、まさしくこうした混同である。ちなみに、シルヴァーとブルースが「スタンダード歌曲」と呼んでいるものは、私たちが規格化されたポピュラー歌曲という言葉で意味しているものとは正反対のものであることを付言しておかねばならない。

(2) See Max Horkheimer, Zeitschrift für Sozialforschung, 8 (1939), p. 115.


「Ⅱ. 素材の提示」を読む

「Ⅲ. 聴取者の理論」を読む

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