メディア技術に媒介された文化におけるライヴ・パフォーマンス(フィリップ・オースランダー)

訳者付記

本務校で今年度新設された授業「表現文化論特殊演習」で使用するために日本語に訳した文章を公開します。この授業は2名の教員が一緒に行う演習科目で、オムニバスではなく、つね2人の教員が参加するコ・ティーチングの授業です。教員2人がコンセンサスを志向せずに、学生も交えてフリーかつフラットにディスカッションすることに主眼を置いています。今年度の授業では、ひとまず映像表現と音楽・音響表現が交差する領域に関係するトピック(映画と音楽、ミュージカル映画における映像と音声、ライヴ性と視聴覚メディア、アニメーションにおけるキャラクターと声、ミュージックビデオの表現分析など)を取り上げることにしています。そこでこの授業で使えそうな基本文献をリストアップしていったのですが、思いのほか日本語になっている文献が少ないことに愕然としました。いくつかのトピックについては適当な日本語の文章が見当たらず、急遽、2つの文献を翻訳することにしました。ここに公開するのは、Philip Auslander: Liveness. Performance in A Mediatized Culture (Second Edition, 2008) の第2章 “Live performance in a mediatized culture” の一部分の翻訳です。昨年、新型コロナウィルスの影響によって劇場公演が不可能になって以来、オンラインで舞台作品を配信する様々な試みがなされてきましたが、オースランダーの著作は複製技術メディアとライヴ性の関係を幅広く議論するさいの基本文献として、いまなお重要性を失っていないと思います。今回はオースランダーによるライヴ性(Liveness)概念の再検討の中核をなす(と私が判断する)部分を取り出して訳しています。あくまでも学部授業用教材としての翻訳ですので、日本語としての読みやすさ、わかりやすさを優先していることをお断りします。また間接引用の注も省いています。学生の方が卒論などで参照する場合には、必ず原典を確認するようにしてください。〔 〕内は訳者による補足です。なお著作権の問題等で、予告なく公開を中止する可能性があります。

「メディア技術に媒介された文化におけるライヴ・パフォーマンス」

フィリップ・オースランダー(翻訳:海老根剛)

(Philip Auslander: Liveness. Performance in A Mediatized Culture. Second Edition. 2008, p. 56-63.)

 この探求の出発点として、私は、ライヴ的なもの(the live)は、歴史的に言って、メディア技術による媒介(mediatization)の効果であって、その逆ではないと提言する。録音・録画(recording)のテクノロジーの発展こそが、実在するパフォーマンスを「ライヴ」(live)として知覚することを可能にした。それらのテクノロジー(すなわち音声録音と動画映像)の到来以前には、「ライヴ」パフォーマンスなるものは存在しなかった。というのも、「ライヴ」というカテゴリーは、それと対立する可能性との関係においてのみ、意味を持つからである。たとえば、古代ギリシアの演劇はライヴではなかった。なぜなら、それを録音・録画する可能性が存在しなかったからである。「リアルなものとは、まさしく、それに関して同等の複製を作り出すことができるものと定義される」というボードリヤールのよく知られた言い回しの特殊ケースとして、「ライヴ的なもの」は、「録音・録画できるもの」としてのみ定義可能である。「ライヴ」という言葉の用法の辞書による定義は、ほとんどの場合、それを反対物によって定義する必要性を反映している。「〔ライヴとは〕パフォーマンスに関して、それが生起するのと同時に聴かれたり、見られたりする状態を指す。フィルムやテープなどに録画・録音されたパフォーマンスから区別される。」(『オクスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー、第二版』)

 したがって、ライヴ性(liveness)とメディア技術による媒介の関係は、対立ではなく、依存と重なり合いの関係とみなされねばならない。媒介されたもの(the mediated)がライヴ的なものに浸透していることは、「無媒介的な」(immediate)という英単語の構造にはっきり表れている。根幹をなすのはmediate(媒介的な)という単語であり、immediateはもちろんその否定形である。したがって、媒介作用(mediation)は、無媒介的なもの(im-mediate)の内部に埋め込まれているのだ。媒介作用と無媒介的なものとの関係は、相互依存の関係であり、一方が他方に先行する関係ではない。ライヴ的なものは、媒介によって侵害されたり、汚染されたり、脅かされたりするものではまったくない。ライヴ・パフォーマンスには、つねにすでに技術的媒介(すなわちメディア技術による媒介)の可能性が刻み込まれているのであり、この可能性がパフォーマンスをライヴとして定義するのである。ライヴ・パフォーマンスを擁護する批評家たちの不安は理解できるけれども、ライヴ性をメディア技術による媒介によって汚染されていない原初の状態として特権化する理論家たちは、両者の関係を捉えそこなっているのである。スティーヴン・コナーはライヴ的なものとメディア技術によって媒介されたものの関係を、関連するやり方で要約している。

「ライヴ」パフォーマンスの場合、原初的なものへの欲望は、様々な形の複製の二次的な効果である。パフォーマンスの強烈な「現実性」は、セッティングやテクノロジーや観客といった事柄の背後にある何かではない。その現実性は、そうした表象=再現(representation)の装置すべてのうちに存するのである。

Conner, Steven (1989) Postmodernist Culture: An Introduction to Theories of the Contemporary, Oxford: Blackwell, p. 153.

コナーが言及しているのはポピュラー音楽のパフォーマンスであり、私が次章で論じる主題である。この分野において、ライヴ・パフォーマンスの内部に表象=再現の装置が書き込まれていることを示す代表的事例は、ポピュラー音楽のパフォーマンスにおけるマイクの位置づけである。エルヴィス・プレスリーのパフォーマンス・スタイルや、ジェームズ・ブラウンのマイクを使った曲技、あるいはシュープリームステンプテーションズの振付がマイクの位置を軸にして展開する仕方において、マイクが果たしている中心的な役割を考慮してみるとよい。コナーが示唆するように、マイクの存在と演者によるその操作は、ライヴ的であり無媒介的であるパフォーマンスの地位を示す両義的な目印になっている。マドンナのようなパフォーマーが観客に見えにくいヘッドセットマイクを用いたときに試みていたかもしれないような複製装置の抑圧(メディア技術による媒介を自然化するこうした効果についてはすでに論じた)からはほど遠く、これらのパフォーマーは、複製装置〔マイク〕が彼らのライヴ性の不可欠の構成要素であることを強調している。簡単に言えば、彼らは、メディア技術による媒介の、無媒介的なものの内部への書き込みを上演しているのである。

 無媒介的なものは、媒介に先行しているのではない。正確に言えば、無媒介的なものは、無媒介的なものと媒介されたもののあいだの相互に定義し合う関係に由来する。同様に、ライヴ・パフォーマンスは、メディア技術による媒介に対して存在論的あるいは歴史的に先行していると言うことはできない。なぜなら、ライヴ性は、技術的複製の可能性によってのみ可視化されたからである。このことは、「ライヴ・パフォーマンスは、それが複製の経済に入ろうとする度合いが強ければ強いほど、みずからの存在論の約束を裏切り、それを切り下げることになる」というペギー・フェランの主張を問題含みなものにする。ライヴ・パフォーマンスが独自の存在論を所有しているのかどうか、まったく明らかではない、というだけではない。ライヴ・パフォーマンスが複製の経済に入ることは、問題とはなりえないのだ。というのも、ライヴ・パフォーマンスはつねにすでに複製の経済の内部にあったからである。ライヴ・パフォーマンスの概念は、それ自体、複製の概念を前提しており、ライヴ的なものは複製の経済の内部にのみ存在しうる。これが私の主張である。

 私としては、複製(録音・録画)が中心問題であることを強調したい。古代ギリシア演劇において仮面はメガフォンとして機能していたという理論に与するなら、ギリシア演劇は技術によって媒介されていたと言えるかもしれない。しかしながら、ここで私が問題にしているのは、技術的複製であって、単なる技術的媒介ではない。ギリシア演劇の仮面は演者の声を増幅したかもしれないが、電気的増幅〔マイクとスピーカー〕の場合のように、声を複製してはいなかった。歴史を通じて、パフォーマンスは利用できるテクノロジーを活用してきたし、何らかの仕方で媒介されて(mediated)きた。しかしながら、パフォーマンスがメディア技術によって媒介される(mediatized)ようになったのは、録音・録画および再生の機械的・電気的テクノロジーの到来以降のことなのである。

 これは議論の余地のある論点だと自覚しているけれども、私はこの文脈において、書かれたものを記録(recording)の一形式とみなしていないことを明記しておきたい。これにはいくつか理由がある。たとえそこにパフォーマンスの実践にもとづくある種の情報が含まれているとしても、書かれたものはパフォーマンスの設計図であって、その記録ではない。パフォーマンスについて書かれた記述やそのドローイングや絵画は、それらを通して私たちがパフォーマンスそのものにアクセスできるような直接的転写ではない。その点で音声や映像による記録とは異なる。ここで私は、ロラン・バルトが写真とドローイングのあいだで行ったのと同じ区別をしておきたい。すなわち、ドローイングは、書かれたものと同様に、パフォーマンスを変換するのに対して、視聴覚的テクノロジーは、写真のように、それを記録するのである(1)。日常的な言葉の用法において、「ライブ」パフォーマンスや「記録された」パフォーマンスに言及することはあっても、「書かれた」パフォーマンスや「描かれた」パフォーマンスに言及することがないのは、そのためである。このことは、ライヴ・パフォーマンスの歴史が録音・録画メディアの歴史と結びついていることを意味している。その歴史は、過去100年から150年以前には遡らないのである。遡及的に19世半ば以前のすべてのパフォーマンスは「ライヴ」であったと宣言することは、近代の概念を近代以前の現象に時代錯誤的に押しつけることであろう。実際、オクスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)によれば、パフォーマンスに関して「ライヴ」という語が用いられた最初の用例は1934年に見出される。すなわち、1890年代における録音・録画テクノロジー〔グラモフォン、映画〕の到来と1920年代における放送システム〔ラジオ〕の発展のずっと後のことである。この言葉の歴史が完全であるとするなら(パフォーマンスに「ライヴ」という語を用いる用例が中世にあったなら、OEDの編集者はそれを見つけたはずである!)、ライヴ・パフォーマンスという概念が誕生したのは、その概念を可能にした基本的な録音・録画テクノロジーが出現した時点ではなく、メディア技術によって媒介された社会そのものの成熟に随伴していたことになる。

 録音・録画テクノロジーの出現だけでは、ライヴ性という概念を誕生させるのに不十分だった理由は、次の事実と関係しているように思われる。すなわち、最初の録音・録画テクノロジーである音声録音においては、ライヴ・パフォーマンスと録音物を区別することに経験上の困難が伴わなかったのである。レコードをグラモフォンの上に置いてそれを聴く場合、ひとは自分が何をしているのかを正確に把握していたし、レコードを聴く行為をライヴ・パフォーマンスに立ち会う行為と取り違えることはあり得なかった。アタリが指摘する通り、エジソンの蝋管のような音声録音の最初期の形式は、ライブ・パフォーマンスを保存するための二次的な付属物として役立つように意図されていた。録音・録画テクノロジーがライヴ的なものを生み出したとき、それはパフォーマンスの実在様態の優位性を尊重し、補強してもいたのである。

 OEDに掲載されている、パフォーマンスとの関連でライヴという語が用いられた最初の用例が、グラモフォンではなく、ライヴ音声と録音音声の区別に関係していることは重要である。この語の使用を必要不可欠にしたテクノロジーは、ラジオだった。「ライヴ」という語の最初の用例は、1934年のBBC年鑑から引かれており、そこではラジオにおいて「録音素材があまりに大量に用いられている」ことへの苦情が述べられていた。ここに私たちは、録音されたパフォーマンスがライヴ・パフォーマンスに取って代わる歴史的過程の始まりを垣間見る。だがラジオは、録音されたパフォーマンスがライヴ・パフォーマンスを補完する関係に挑戦するものでもあった。ラジオは、録音物がライヴ・パフォーマンスに取って代わることを可能にするという役割を超えていったのである。グラモフォンとは異なり、ラジオの場合、ひとは自分が聴いている音声の音源を見ることができない。それゆえ、その音声がライヴなのか録音なのかを確実に言い当てることは、決してできない。視覚情報の欠如というラジオの特徴的形式が、録音された音声とライヴ音声との明瞭な区別を決定的に突き崩したのである。ライヴ的なものという概念が誕生したのは、ライヴや録音という言葉を用いて考えることが可能になった時点 — つまりグラモフォンのような録音テクノロジーが誕生し、ライヴ的なものという形象がそれを背景にして知覚可能となった時点 — ではなく、それらの言葉を用いて考えることが差し迫った必要となった時点であったように思われる。ライヴなのか録音なのかを同定する必要性は、とりわけラジオに対して情動的な反応を呼び覚ました。ラジオは、ライヴと録音の明瞭な対立を危機に陥れる通信テクノロジーだったからである。この危機に対する反応は、パフォーマンスの二つの様態 — ライヴと録音 — に関するそれまでは明瞭であった二項対立を保持するために、用語上の区別を導入することだった。この二項対立は、その時点までは自明だったので、名指される必要がなかったのである。

 録音のテクノロジーはライヴ的なものを生み出したが、それはパフォーマンスの既存の様態と新しい様態を明瞭に区別することを許す条件のもとで起こったのだった。しかし、放送テクノロジーの発展は、この区別を不明瞭にしてしまい、録音というパフォーマンスの様態がライヴという様態を補完するというそれまでの関係をくつがえしてしまった。「ライヴ」という語は、この危機を封じ込めるための語彙の一部として動員された。すなわち、ライヴ的なものを言い表し、たとえ経験のレベルは維持できないものになっているとしても、かつての〔ライヴと録音との〕区別を言説的に復権させることで、危機を阻止しようとしたのである。この語彙が導入された経緯の帰結として、ライヴ的なものと録音されたものの区別は、相互補完的な関係にあるものの区別ではなく、二項的な対立関係にあるものの区別として理解されるようになった。ライヴ的なものを概念化するこうしたやり方、そして、ライヴ的なものと録音・録画されたもの、あるいはライヴ的なものと技術メディアによって媒介されたものとの区別を概念化するこうしたやり方は、アナログ・テクノロジーの時代に始まり、今日にいたるまで存続している。それはライヴ性についての今日の私たちの想定をも形作っている。

 こうした歴史から明らかなように、「ライヴ」という語は、技術メディアによって媒介された形式からパフォーマンスを区別することを許すような、パフォーマンスに内在する存在論的な特性を定義するために用いられているのではない。それはむしろ、歴史のなかで意味合いを変えていく言葉である。ライヴ・パフォーマンスの当初の定義は、パフォーマーとオーディエンスの双方が物理的かつ時間的に互いに対して現前しているパフォーマンス、というものだった。しかし、時間を経るうちに、私たちは、このような基本的条件を満たさないパフォーマンス状況を指すためにも、「ライヴ」という言葉を用いるようになってきた。ラジオやテレビのような放送テクノロジーが到来すると、私たちは「ライヴ放送〔生放送〕」について語り始めた。ライヴ放送は、ライヴ・パフォーマンスの二つの基本的条件のひとつしか満たしていない。すなわち、オーディエンスはパフォーマンスの生起する瞬間に立ち会っているという意味で、パフォーマーとオーディエンスは、時間的に互いに対して現前していると言えるが、空間的には互いに対して現前していない。にもかかわらず、この言い回し〔ライヴ放送〕は撞着語法とみなされていない。検討に値するもうひとつの用法は、「ライヴで録音・録画された(recorded live)」という言い回しにみられる。この表現は撞着語法であるが(どうやったら、ある事柄が同時にライヴかつ録音であり得るだろう?)、私たちは特に疑問を感じることもなくこの概念を受け入れている。ライヴ録音・録画(live recording)の場合、オーディエンスは、パフォーマーと時間的な枠組みも物理的な場所も共有していない。オーディエンスは、パフォーマンスを事後的に、通常それが最初に生起したのとは別の場所で経験するのである。録音・録画されたものを聴いたり見たりする経験のライヴ性は、情動的な性質のものである。すなわち、ライヴ録音・録画によって、リスナーは、ある特定のパフォーマンスに参加しているという感覚を得るのであり、スタジオ制作ではアクセスできないそうしたパフォーマンスのオーディエンスと代理的な関係を取り結ぶのである。

 「ライヴ放送」や「ライヴ録音・録画」という言い回しが示唆するのは、ライヴ性の定義が、新たに現れるテクノロジーと関連づけられることで、当初の意味の広がりを超えて拡大してきたということである。そして、このプロセスはテクノロジーの発展との関係において、いまだ継続中である(私はここで議論される発展を表1.1に要約した)。この議論の線に沿って、ニック・クルドリーは「二つのライヴ性の新たな形式」を提案している。彼はそれらの新形式を「オンライン・ライヴ性」(online liveness)と「集団ライヴ性」(group liveness)と呼んでいる。

オンライン・ライヴ性とは、チャットルームのとても小さな集団からメジャーなウェブサイトが提供する速報を受けとる巨大で国際的なオーディエンスまで、多様なスケールで存在するソーシャルなコ・プレゼンス〔co-presence 相互的な現前〕である。それらはすべて基礎をなすインフラストラクチャーであるインターネットによって可能になっている。(…)集団ライヴ性とは、携帯電話による発話やメッセージングによって絶えず連絡を取り合っている友人からなる動的な集団の「ライヴ性」である。

Couldry, Nick (2004): “Liveness, ‘reality,’ and the mediated habitus from television to the mobile phone,” The Communication Review 7, p. 356-7.

このように理解されるなら、ライヴ性の経験は、特定のパフォーマーとオーディエンスのあいだの相互行為には限定されず、他の人々と絶えず接続状態にあるという感覚、すなわち知っていたり知らなかったりする他人たちとの持続的で、テクノロジーによって媒介されたコ・プレゼンスの感覚に関わっている。

 クルドリーが指摘するライヴ性の分散的な経験は、パフォーマーとオーディエンスからなるモデルに容易に吸収できないけれども、複数の人間のあいだの技術によって媒介された関係としてのライヴ性を提示している。だが、「ライヴ」という言葉は、人間ではない行為者との接続や相互行為を指すようにもなってきている。マーガレット・モースは、インタラクティヴなコンピューター技術の周辺で発展しつつある想像力が、機械によって可能になる外界との結びつきではなく、機械そのものとの私たちの相互行為に根ざしたライヴ性のイデオロギーを含んでいるのを観察している。

もっとも広い意味でのフィードバックとは、(…)入力に対して自発的に合図を発したり、応答したりするようにみえる機械の能力である。したがって、まさしくこのミニマルな水準でユーザーと「相互行為」する機械は、「ライヴ性」の感覚と機械の行為主体性(agency)の感覚を生み出すことができる。そして、そうした機械は記号(symbol)を交換することができるので、ある人格的存在(persona)との主観的な出会いの感覚すら生み出し得る。

Morse, Magaret (1998) Virtualities: Television, Media Art, and Cyberculture, Bloomington: Indiana University Press, p. 15.

ライヴ性は、私たちが機械を用いてアクセスする存在だけでなく、機械そのものの属性ともなる。ウェブサイトが最初にユーザーに利用可能となるとき、「ライヴになる」(go live)という言い方がされる。コンピューターの場合と同様に、ウェブサイトのライヴ性は、私たちがそれとのあいだで開始するフィードバック・ループのうちに存している。すなわち、ウェブサイトは私たちの入力に応答するのである。私たちは、ライヴ性がもはや生きた人間たちの互いに対する現前によっても、人間どうしの物理的・時間的な関係によっても定義され得なくなる地点にいるのかもしれない。いま現れつつあるライヴ性の定義は、なによりもまず、オーディエンスの情動的経験の周囲に構築されるのかもしれない。ウェブサイトや他のヴァーチャルな存在が私たちにリアルタイムに応答する度合いに応じて、それらは私たちにライヴ的だと感じられる。そして、これが、私たちがいま評価するライヴ性なのかもしれない。(私はこの発展をさらに本章の最後の部分で議論する。)

 ライヴ的なものとメディア技術に媒介されたものとの伝統的な対立に挑戦するとき、私は、私たちがライヴ的な表象〔ライヴ・パフォーマンス〕の経験とメディア技術に媒介された表象の経験を現象的に区別できないと示唆しているわけではない。そうした区別は、文化経済の内部におけるそれらの経験の位置づけに関わっており、あらゆるメディアにおけるパフォーマンス表象のあいだでなされるイデオロギー的な区別である。私が示唆しているのは、いかなる区別も、個々の事例において、ライヴ的なものとメディア技術に媒介されたものとの関係がいかなる仕方で分節化されているのかを注意深く考慮することでなされねばならないということである。ライヴ性を、歴史のなかで変化する概念としてではなく、存在論的な条件とみなし、ライヴ的な表象とメディア技術に媒介された表象をアプリオリに〔先験的に〕本質的対立の関係として構築することから、そうした区別が導き出されてはならないのだ。本章の最初の部分で、テレビが言説的に最初は演劇の言説を反復するものとして、次にそれに取って代わるものとして位置づけられた過程を吟味したとき、私はそのような注意深い考慮を行おうとしたのだった。テレビと演劇が競合し合うようになったことは、この特定の言説史の帰結であって、テレビと演劇のあいだの何らかの内在的対立関係の帰結ではない。第3章において、関連する論点を提示するために、私はロック音楽文化の内部におけるライヴ・パフォーマンスの地位の変化を分析するつもりである。すなわち、ライヴ・パフォーマンスとメディア技術に媒介された形式との関係は、歴史的かつ局所的に、特定の文化的文脈の内部で理解される必要があるのである。

表1.1 ライヴ性の概念の歴史的発展

ライヴ性のタイプ重要な特徴文化的形式
「古典的」ライヴ性パフォーマーとオーディエンスの物理的なコ・プレゼンス。生産(制作)と受容の時間的同時性。瞬間においてなされる経験。演劇、コンサート、ダンス、スポーツなど。
ライヴ放送生産(制作)と受容の時間的同時性。イベントを、その生起と同時に経験すること。ラジオ、テレビ、インターネットなど。
ライヴ録音・録画生産(制作)と受容のあいだの時間的隔たり。無制限の反復可能性。LPレコード、CD、フィルム、DVDなど。
インターネット的ライブ性ユーザー間のコ・プレゼンスの感覚。インターネットを基盤とするメディア。
ソーシャルなライヴ性他者たちとの接続の感覚。携帯電話、インスタント・メッセージングなど。
ウェブサイトが「ライヴになる」ことテクノロジーとユーザーのあいだのフィードバック。ウェブサイト、インタラクティヴ・メディア、チャットボットなど。

(1)私は、録音・録画メディアがライヴ・パフォーマンスを記録する際に、それを変換しないと示唆しているのではない。そうではなく、それらのメディアは、書かれたものや静的な視覚メディアが提供しない種類のアクセスをライヴ・イベントに対して提供することができると述べているだけである。その理由の一端は、録音・録画メディアがパフォーマンスをリアルタイムに捕捉できる点にある。録音・録画の持続が、パフォーマンスのそれと同一でありうるのである。時間性の問題は、写真を両義的な位置に置くことになる。なぜなら、写真はパフォーマンスを、時間的進展から切り離された個別の瞬間の連なりとしてのみ記録するからである。

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