<新訳>ポピュラー音楽について 
Ⅲ. 聴取者の理論

ポピュラー音楽について

テオドール・W・アドルノ(ジョージ・シンプソンの助力を得て)

翻訳 海老根 剛

[ ]は訳者による補足である。

Ⅲ. 聴取者の理論

再認と受け入れ

 今日の大衆の聴取習慣は、再認(recognition)のほうへ引き寄せられている。ポピュラー音楽とその売込みは、この再認への慣れに焦点を合わせている。その背後にある基本原則は、何かを受け入れさせるには、それが再認されるまで繰り返しさえすればよいというものである。このことは素材の規格化にも、その売込みにも当てはまる。現在流布しているようなタイプのヒット曲が人気を得ている理由を理解するには、反復が再認に変容し、再認が受け入れに変容する過程を理論的に分析する必要がある。

 とはいえ、再認の概念は、現代の大衆による聴取を説明するにはあまりに一般的であるように思えるかもしれない。音楽の理解が問題になるときにはいつでも、人間の認知の基本機能である再認という要因が重要な役割を果たさねばならない、と主張することは可能である。確かに、ベートーベンのソナタを理解するには、その特徴のいくつかを、以前の経験から知っている他の特徴と抽象的には同一のものとして再認し、それを現在の経験と結びつけることが、どうしても必要である。ベートーベンのソナタを、言わば真空の中で、自分が知っていて再認する音楽言語の諸要素と結びつけることなしに理解できると考えることは、まったく馬鹿げたことだろう。しかし、重要なのは、何が再認されるのかということである。現実の聴取者は、ベートーベンのソナタの中に何を再認するのだろうか? 聴取者は、疑いなく、ソナタの基礎をなす「システム」を再認している。すなわち、長調と短調の調性であり、転調を規定する調の相互関係であり、諸々の異なる和音とそれらの相対的な表現的価値であり、ある種の旋律的な定式であり、ある種の構造的パターンである(シリアスな音楽にそうしたパターンが存在することを否定するのは馬鹿げたことだろう。しかし、そのパターンの機能は異なる種類のものである。こうしたすべての再認を前提するとしても、依然として音楽的意味の理解には不十分なのである)。優れたシリアスな音楽の場合、すべての再認可能な諸要素は、音楽の具体的で独自な全体性によって組織されている。そうした諸要素は、この全体性からそれぞれに特有の意味を受け取るのである。これは詩の場合と同様である。どんな詩の理解にとっても、そこに含まれる単語の日常性[日常的用法]を再認することは不可欠の前提であるとしても、一篇の詩に含まれるひとつの単語は、詩の全体性からその意味を引き出すのであって、その語の日常的な用法からそれを引き出すのではないのだ。

 実際、あらゆる音楽作品の音楽的意味は、その作品の持つ、再認だけでは把握できない次元、すなわち、その作品を既知の何かと同一視するだけは把握できない次元によって、定義されるのかもしれない。音楽の意味は、楽曲に固有の新しさを経験するために、既知の諸要素を自発的に関連づけることによってのみ確立されうる。その際、この諸要素の関連づけは聴取者による反応であるが、それは作曲者による関連づけ[作曲行為]と同様に自発的な行為である。音楽の意味とは新しさである。新しさは、既知の形態にまでさかのぼったり、既知の形態に包摂したりできない何かであるが、もし聴取者が手を差し伸べるなら、既知のものの中から不意に現れ出るのである。

 ポピュラー音楽において破壊されるのは、まさしく再認されたものと新しいものとのこうした関係である。再認が手段ではなく目的になるのだ。ヒット曲における習慣的に熟知しているものの再認は、様々な要素を関連づけることによって新しいと把握されうるようなものを何も残さない。実際のところ、ポピュラー音楽では、諸要素間のつながりは、諸要素それ自体と同様に ––– あるいはそれら以上に –––、あらかじめ与えられているのだ。したがって、ここでは再認と理解が同じものにならざるをえない。一方、シリアスな音楽では、理解とは、普遍的な再認を何か根本的に新しいものの出現へと導く行為なのである。

 ある特定のヒット曲に関して再認を研究する場合には、再認の経験を異なる構成要素に分解する図式の立案から始めるのが適切かもしれない。心理学的に見るならば、私たちが以下に列挙する諸要素はすべて非常に密接に連関し合っているので、現実にそれらを分離することなどできないだろう。また、それらの要素に与えられる時間的順序も、きわめて問題含みである。私たちが提出する図式は、再認の経験に含まれるいくつかの異なる客観的要素に向けられているのであって、実際の経験が特定の個人や諸個人に感じられる仕方を扱うものではない。

 私たちが再認の経験に含まれているとみなす諸要素は以下の通りである。

(a)ぼんやりとした想起
(b)実際の同定行為
(c)ラベリングによる包摂
(d)再認行為についての自己反省
(e)再認の権威を対象に心理的に転嫁すること

(a)何かを思い起させられる、多かれ少なかれぼんやりとした経験(「どこかでこれを聴いたにちがいない」)。素材の規格化は、事実上すべての曲の中に、ぼんやりとした想起の舞台を設定する。というのも、どの曲も、一般的なパターンと他のすべての曲を思い出させるからである。こうした感覚を生じさせる固有の前提条件は、おびただしく供給される多数の曲の存在である。すなわち、ポピュラー音楽の絶え間ない流れが、個々の特定の曲を覚えておくことを不可能にしているのである。

(b)実際に同定がなされる瞬間。すなわち、現実に「これはあれだ」と気づく経験。これが実現されるのは、ぼんやりとした想起が、突然の気づきというサーチライトで照らし出されるときである。これは、暗くされた部屋に座っていて、突然、電灯が再点灯したときの経験に似ている。突然の光に照らし出されて、見慣れた家具が、コンマ何秒の間、新しいものとして現れるのだ。この曲はまさしくいつか聴いたものと「同じもの」であると自発的に認識することは、何事もずっと変わることはない[ぼんやりとした想起の状態が変化することはない]というつねに差し迫った危機を、一時的に否定するのである。

 再認経験におけるこの要素にとって特徴的なのは、それが突然の断絶によって印づけられることである。ぼんやりとした想起と完全な気づきとの間には漸次的移行は存在しない。そこにあるのはむしろ、ある種の心理的な「飛躍」である。この構成要素は、ぼんやりとした想起よりも時間的にやや遅れて現れるようにみなされるかもしれない。この見方は素材の検討によって支持される。サビの冒頭の二、三の音でヒット曲を再認することは、たいていの場合、非常に難しいだろう。少なくとも最初のモチーフは演奏され終えねばならないはずだ。そして、現実の再認行為は、時間の中で、サビの最初のモチーフの完全な形象についての統覚と関連づけられねばならないのである。

(c)包摂という要素。すなわち、「これはあれだ」という経験を、「これはヒット曲の〈ナイト・アンド・デイ〉だ」というような経験によって解釈すること。再認を最も密接に社会による後ろ楯と関係づけるのは、再認に含まれるこの要素である(これはおそらく歌曲のタイトルとなるトレードマークや歌詞の最初の言葉の想起と結びついている(7))。

 この構成要素の最も直接的な含意は次の点にあるのかもしれない。聴取者がヒット曲を特定の楽曲として––すなわち定評のあるもの、単に自分だけが知っているのではないものとして––再認する瞬間、聴取者は多数派に属する安心感を感じ、自分以前にその曲を聴いたことがあり、その曲の名声に寄与したと思われるすべての人々からなる群衆にしたがう。これは(b)の要素に付随するか、そのすぐ後に続いて生じる事柄である。聴取者を多数派に結びつけるこうした反応の本質は、部分的には、特定の曲に関するみずからの一見孤立した個人的経験が実は集団的経験であることに、聴取者自身が気づくという点にある。社会的に評判になっている呼び物を同定する瞬間には、しばしば二重の意味が含まれているのだ。すなわち、ひとは単にその呼び物を無邪気にあれやこれと同定し、それをあれやこれやのカテゴリーに包摂するだけではないのだ。まさしくそれを同定する行為によって、ひとは知らぬ間に、客観的な社会的代理組織[代理店]や、この特定のイベント[呼び物]を既存のカテゴリーに適合させ、そうすることでそれを「評判のものにした」諸個人の権力と、同一化するのである。個人がひとつの対象をあれやこれと同定することができるという事実そのものが、その個人に対して、イベントをいまあるようなものにした機構にわが事のように参画し、まさにこの機構と同一化することを可能にするのである。

(d)同定行為についての自己反省という要素(「ああ、この曲は知っているぞ。これは私のものだ」)。この傾向を適切に理解するには、膨大な量のあまり知られていない歌曲と新たに評判になった歌曲との間の不均衡を考慮する必要がある。音楽の流れに呑み込まれてしまったように感じている個人は、何かを同定できるコンマ何秒の瞬間に一種の勝利を感じるのだ。大衆はどんな音楽でもそれを同定できる自分の能力に誇りを感じている。このことは、その曲を知っていることを示そうとして、ちょうど話題に出たなじみの楽曲のメロディーをハミングしたり、口笛で吹いてみせたりするという広く見られる習慣や、そのような誇示にともなう自己満足に示されている。

 現在の聴取経験を同定し、それを「これは何々というヒット曲だ」というカテゴリーに包摂することによって、このヒット曲は聴取者にとって、ひとつの対象物[モノ]となる。すなわち、固定されて永続的な何かになるのである。経験が対象物になるこうした変化 ––– すなわち、ある楽曲を同定することによって、その楽曲を意のままにし、自分の記憶からそれを再生できるという事実 ––– は、その経験をより所有しやすいものに変える。それは所有物の持つ二つの際立った特徴を示すことになる。すなわち、永続性と所有者の恣意への従属である。永続性は、ある歌曲を覚えていて、いつでもそれを呼び出すことができるなら、それが没収されることはありえないという事実に根ざしている。音楽に対する支配というもうひとつの要素は、想定上、音楽をいつでも思いのままに呼び出したり、それを途中で切り上げたり、気まぐれに扱ったりできる能力にもとづいている。音楽という所有物は、言わば、所有者の言いなりなのである。この要素を明らかにするには、それを示す極端ではあるが決して稀ではない現れのひとつを指摘するのが良いかもしれない。多くの人々は自分が知っているメロティーを口笛で吹いたりハミングしたりするとき、弱拍の音をわずかに付加するのだが、それはあたかも旋律を鞭打ち苛めているかのようである。彼らにとって、旋律を所有することの楽しみは、それを自由に誤用できるというかたちをとるのである。彼らの旋律に対する振舞いは、犬の尻尾を引っぱる子どもの振舞いに似ている。彼らは、ある程度まで、旋律をたじろがせ、呻かせるのを楽しんでいるのだ。

(e)「心理的転嫁」という要素。「へえ、〈ナイト・アンド・デイ〉ってすごくいいじゃん!」。これは所有することの喜びを対象そのものに転嫁する傾向であり、自分が手に入れた所有の楽しみを、好みや嗜好や客観的な性質というかたちで、対象の属性とみなす傾向である。この転嫁のプロセスは売込みによって強化される。売込みは、現実に再認、同定、所有という心的過程を喚起する一方で、同時に対象それ自体を宣伝し、実際にはほぼ同定のメカニズムに帰せられる諸性質をその対象に付与するのである。聴取者は、所有者であることへの自画自賛を音楽自体に転嫁せよという命令を遂行しているのだ。

 ヒット曲に内在するものとして再認される社会的価値は、所有の喜びを対象に転嫁すること ––– それによってこの対象は「好きなもの」になる ––– と関係している、と付言できるかもしれない。このラベリングの過程は、所有の過程を集団化する。誰もが所有しているものを自分も所有することで、聴取者は嬉しい気持ちになる。高く評価された売り出し中のヒット曲を所有することによって、ひとは価値の幻想を手に入れるのである。聴取者が抱くこの価値の幻想は、音楽素材に対する評価の基礎である。評判のヒット曲が再認されるとき、疑似公共的な事業[ポピュラー音楽]が私的な聴取者の支配下に入るのだ。「私はこのヒット曲が好きだ(というのも私はそれを知っているから)」と感じる音楽の所有者は、壮大な思い違いをしているのだが、それは鉄道を所有している気になる子どもの夢想と同じである。懸賞広告のなぞなぞと同様に、ヒット曲は誰でも答えられる再認の問いしか提示しない。しかし、聴取者はそうした問いに解答するのを楽しむのだ。なぜなら、そうすることで聴取者は既存の権力と同一化できるからである。

 上述してきたこれらの構成要素が、[聴取者の]意識の中では、分析のようには現れてこないのは明らかである。とはいえ、私的所有の幻想と公的所有の現実との間の乖離は非常に大きく、「あなただけのために」と書かれているものが実際には「この曲あるいはその一部の言葉や音楽を複製することは違法行為であり、違反者は合衆国著作権法のもとで起訴されます」という条項に服していることは、誰もが知っていることであるので、ここで論じた諸過程を過度に無意識的なものとみなすのも正しくないであろう。おそらくは次のように想定するのが正しいのだ。すなわち、ほとんどの聴取者は、彼らが社会的に望ましいとみなしているものに合致し、みずからの「市民性」を証明するために、自分たちの潜在的可能性のカリカチュアである陰謀に半ばおどけながら「参加し」(8)、自分たちと他人に対して、すべてはともかくも他愛のない楽しみにすぎないのだと主張することで、現に作動しているメカニズムが意識に上るのを抑圧しているのである。

 再認過程の最後の構成要素である心理的転嫁は、分析を売込みの問題に引き戻す。再認が社会的な効力を発揮するのは、それが強力な代理店[音楽事務所]の権威によって後押しされる場合だけである。つまり、再認という構成物は、あらゆる曲に当てはまるのではなく、「成功を収めた」曲にだけ当てはまるのだ。そしてその際、成功は中心的な代理店による後押しの有無によって判断される。簡潔に言うと、聴取習慣を社会的に規定する要因としての再認は、売込まれた素材に対してだけ作用するのである。ある歌曲が繰り返しピアノで演奏されたら、聴取者は我慢ならないだろう。しかし、それがラジオでオンエアーされる場合には、その曲が流行っている間じゅうずっと、喜んで大目に見るのである。

 これに関与している心理的メカニズムは、以下のような仕方で機能すると考えられるかもしれない。すなわち、あるヒット曲が何度も繰り返しオンエアーされると、聴取者は、その曲はもうヒットしているのだと思いはじめるのである。このことはさらに、売込まれる歌曲が放送番組の中でアナウンスされる仕方によっても促進される。しばしば見られる典型的なアナウンスは、「これからお聴きになるのは最新のスマッシュ・ヒットです」というものである。反復それ自体が、人気の印として受け取られるのである(9)

ポピュラー音楽と「余暇時間」

 ここまでの分析は、ある特定のヒット曲が受け入れられる理由を論じてきた。このタイプの音楽全体がなぜ大衆に対して影響力を保持しているのかを理解するには、より一般的な種類の検討が適切かもしれない。

 ポピュラー音楽がそもそも訴えかけ、みずからの糧にし、絶えず強化する心理状態は、気が散っていると同時に不注意でもあるという心理状態である。聴取者は、注意力を必要としない娯楽によって、現実の諸要求から気を逸らされるのである。

 気散じ[気が散っていること]の観念は、それが生じる社会環境の内部でのみ理解可能であり、個人心理学の自立した用語では理解できない。気散じは現在の生産様式、すなわち直接、間接に大衆が従属している合理化され、機械化された労働過程に結びついている。この生産様式は、失業や収入の喪失や戦争についての恐怖と不安を生み出しているが、みずからの「非生産的な」相関物として娯楽を持っている。すなわち、集中の努力をまったく伴わない息抜きである。人々は楽しみたいのである。十分に集中した意識的な芸術経験は、日々の生活によって大きな精神的負担を課されることのない人々にのみ可能である。そうした負担が非常に大きくなると、人々は余暇の時間のうちに、退屈と努力の両方から同時に逃れる気晴らしを求めるようになる。安っぽい商業的娯楽の全領域は、この二重の欲望を反映しているのだ。こうした娯楽は、パターン化され、あらかじめ消化しやすいように処理されているので、ひとを息抜きへと誘う。パターン化され消化しやすくなっていることは、大衆の心理的機構の中で、芸術の受容では欠かすことのできない参加の努力(聴取や鑑賞の努力すら)をなしで済ますのに役立つのだ。一方、そうした娯楽が提供する刺激は、機械化された労働の退屈からの逃避を可能にしている。

 商業化した娯楽の興行主たちは、自分たちは大衆が欲しがるものを大衆に与えているだけだという事実に言及することで、みずからを無罪放免する。これは商業的な目的に適ったイデオロギーである。というのも、大衆が差異を識別することが少なければ少ないほど[不注意であればあるほど]、文化商品を無差別に売りつける可能性も増大するからである。だが、このお仕着せの興味というイデオロギーを退けることは、それほど容易なことではない。現に活動している代理組織[代理店]が大衆の意識を形作ることができるのは、大衆が「こういうものを欲する」からこそであるということを、完全に否定することはできないのだ。

 しかし、大衆は、なぜこういうものを欲するのだろうか? 今日の私たちの社会では、大衆自身が、彼らに押しつけられる手仕事の素材[ポピュラー音楽]に適用されているのと同じ生産様式によって捏ね上げられている。音楽的娯楽の顧客たちは、彼ら自身、対象物であり、実際のところ、ポピュラー音楽の生産を規定しているのと同じメカニズムの産物である。彼らの余暇時間は、ただ労働する能力を再生産するためにのみ役立つのである。その時間は手段であって目的ではないのだ。生産過程の力は、表面上は「自由」な[空いている]ように見える合間の時間にまで及んでいる。大衆の余暇は、労働からの逃避であると同時に、仕事日の世界が彼らを排他的に習慣づけている心理的態度にしたがって形作られている。それゆえに、大衆は規格化された商品と疑似個性化を求めるのだ。大衆にとって、ポピュラー音楽は、途切れることのないバス運転手の休日[休日にも仕事でしていることをすること]なのである。したがって、今日ではポピュラー音楽の生産と消費の間にあらかじめ確立された調和が存在する、と述べることは正当である。人々は、どのみち彼らが手に入れることになるものを、大声で要求しているのである。

 退屈から逃れることと努力を避けることは両立できない。したがって、そこから逃れようとしている当の態度[退屈]が再生産されることになる。組立てラインや工場やオフィス機器のもとでの労働のあり方は、確かに人々に対していかなる新しさも与えない。人々は新しさを探し求める。しかし、現実の労働と結びついた精神的負担と退屈ゆえに、人々は本当に新しい経験をする唯一の機会である余暇時間に、努力を避けるようになる。彼らは新しい経験の代用品として、刺激物を切望するのだ。ポピュラー音楽が提供することになるのは、この刺激物である。ポピュラー音楽の刺激は、ずっと同一なものに努力を投入することの不可能性とセットになっている。そして、これは再び退屈を意味する。これは退屈からの逃避を不可能にする循環である。この逃避の不可能性は、ポピュラー音楽に対する不注意という広く見られる態度を引き起こす。再認の瞬間とは、努力を要しない感覚刺激の瞬間なのである。この瞬間と結びついた唐突な注意力は、直ちに燃え尽きてしまい、聴取者を不注意と気散じの領域へと追いやるのだ。他方、生産と売込みの分野は、気散じを前提しており、また同時にそれを生産してもいる。

 こうした状況のもとで、産業は解決不能な問題に直面している。つねに新たな製品によって産業は注意力を喚起しなければならないが、この注意力はみずからを滅ぼさざるをえないのである。歌曲に対してまったく注意が払われないならば、それが売れることもありえない。しかし、注意が払われる場合には、人々がもはやそれを受け入れようとしなくなる可能性が、つねに存在する。というのも、人々はそれについてよく知りすぎてしまうからである。新製品によって市場を席巻しようとしながら、ただちにまたそれらの新製品を墓場に追いやろうとする努力が絶えず更新される理由の一端はここにある。こうして幼児殺し的な策略が何度も繰り返されることになるのである。

 他方、気散じは、単にポピュラー音楽の前提であるだけでなく、その産物でもある。楽曲そのものが聴取者を不注意へと誘うのである。楽曲は聴取者に語りかける。心配しなくていい、なにも聞き逃したりはしないのだから、と(10)

社会を固めるセメント

 聴取者の一般に不注意な態度は、ただ再認の突然の閃きによってのみ中断されるのであるが、そうした不注意な態度で聞かれる音楽が、それ固有の明確な意味を持つ経験の連なりとして ––– すなわち一瞬ごとに把握され、すべての先行する瞬間と後続する瞬間に関係づけられる経験の連なりとして ––– 受け取られることはない、と想定して差し支えない。ポピュラー音楽の聴取者のほとんどは、音楽を本質的に言語として理解していないとさえ示唆できるかもしれない。彼らがそれを言語として理解しているならば、ほとんど違いのない素材の絶え間ない供給に彼らがどうやって耐えられるのか、それを説明するのがはるかに難しくなるだろう。それでは彼らにとって、音楽とは何を意味しているのだろうか? その答えは次のようになる。音楽という言語は、客観的な過程によって、彼らが自分のものだと考える言語に、すなわち彼らが習慣的に欲するものを入れる容器として役立つ言語に、変換されるのである。音楽が固有の言語でなくなればなくなるほど、ますます音楽はそうした容器として確立されることになる。音楽の自律性は、単なる社会心理学的機能に取って代わられる。今日の音楽は、主として社会を固めるセメントなのである。そして、素材に内在する論理を把握できない聴取者が、その素材に帰属させる意味(meaning)とは、何よりもまず手段(means)であり、聴取者はこの手段を用いることで、今日の生活のメカニズムに精神的に順応するのである。この「順応」は二つの仕方で具体化するが、それらは音楽一般、とりわけポピュラー音楽に対する大衆の振舞いの二つの主要な類型に対応している。そうした類型とは、「リズム服従」型と「情緒」型である。

 リズム服従型の諸個人は、主に若者たち ––– いわゆるラジオ世代 ––– に見出される。彼らは、権威的集団主義へのマゾヒスティックな順応過程に最も影響されやすい。この類型は、何らかのひとつの政治的態度には限定されていない。食人種的な集団主義への順応は、左翼的な政治集団にも、右翼的な集団にも、同様の頻度で見出されるのだ。実際のところ、両者には共通点がある。すなわち、抑圧と群衆的心理がいずれの傾向の信奉者をも捉えているのだ。政治的態度の表面的相違にも関わらず、両者の心理状態は合致する傾向にある。

 このことは、政治的党派性に無関心であるように見えるポピュラー音楽において、表面化する。『ピンズ・アンド・ニードルズ』のような穏健な左翼の舞台作品が、その音楽的媒体として普通のジャズを用い、共産主義の青年組織が、みずからの歌詞のために〈アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド〉のメロディーを転用していることは、注目に値するかもしれない。社会的意義のある歌を要求する人々が、その歌から社会的意義を奪う媒体を用いて、そうした要求をしているのである。みずからのあり方を変えることのできないポピュラー音楽の媒体を用いることは、それ自体、抑圧的である。そのような矛盾は、政治的確信と社会心理的構造がまったく一致していないことを示している。

 この服従型はリズミカルな類型である。「リズミカル」という言葉は、ここでは日常的な意味で用いられている。この類型の人々のあらゆる音楽経験は、音楽の基礎をなす衰えることのない時間の単位、すなわち「ビート」にもとづいている。これらの人々にとって、リズミカルに演奏するとは、たとえ疑似個性化 ––– 強勢の移動や他の「差別化」––– が生じる場合でも、基礎をなす拍子との関係が維持されるように演奏することを意味している。音楽的であるということは、彼らにとって、「個性化する」逸脱に邪魔されることなく所与のリズム・パターンにしたがうことであり、シンコペーションすら基本的な時間単位にはめ込むことを意味しているのだ。このようにして、音楽に対する彼らの反応は、服従したいという彼らの欲望を直接的に表現しているのである。しかしながら、ダンス音楽や行進の規格化した拍子が、機械的な集団の統率された軍勢を示唆するように、反応する諸個人を打ち負かすことによる、こうしたリズムへの服従は、これらの諸個人が自分たちを、同様に打ち負かされた数百万の従順な人々との凝集体とみなすように導く。かくして服従する人々は、地を継ぐのである。[この最後の文は聖書「詩篇」37篇11節の言葉「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう」を受けている。]

 だが、もしひとが大衆の聴取のこうした範疇に対応するシリアスな楽曲に目を向けるならば、ひとつの非常に際立った特徴を見出すだろう。すなわち、幻滅という特徴である。これらすべての作曲家 ––– とりわけストラヴィンスキーヒンデミット ––– は、「反ロマン主義的な」感覚を表現してきた。彼らは音楽を現実に適応させることを目指したのである。そして、その際、彼らはこの現実を「機械時代」という観点から理解したのだった。これらの作曲家による夢見ることの放棄が示しているのは、聴取者の側で、夢見ることを剥き出しの現実への順応と取り換える用意ができているということであり、聴取者が、不快なものを受け入れることから新しい快楽を引き出しているということである。聴取者は、自分が暮らしている世界の中で自分の夢を実現するという可能性に対して幻滅しており、したがってこの世界に適応する。聴取者はリアリスティックな態度と呼ばれるものを引き受け、「機械時代」を構成していると考えられる外部の社会的諸力と同一化することで慰めを得ようと試みるのだ。しかし、まさに聴取者のそうした同調が依拠している幻滅とは、そこで聴取者の快楽を台なしにすることなのである。衰えを知らぬジャズのビートによって表象される機械崇拝は、自己の放棄を伴っているが、この放棄は揺れ動く不安というかたちで、服従する人々の人格のどこかに根を張らざるをえない。というのも、機械は、所与の社会状況––すなわち人間が仕事で用いる機械の付属物になるような社会状況––のもとでのみ、目的それ自体になるからである。機械音楽への適応は、みずからの人間的感情の放棄と機械のフェティシズムを必然的に含んでいる。このフェティシズムによって、機械の道具的性格が隠されるのである。

 もうひとつの類型、すなわち「情緒」型について言うと、それを映画観客の一類型と結びつける一定の正当な根拠が存在する。ジンジャー・ロジャースと同一化することで満足感を得る薄給の若い女性販売員と、その類型は類似しているのである。映画の中のジンジャー・ロジャースは、美しい脚と純真な性格を持ち、上司と結婚する。願望充足は、映画の社会心理学と、情緒的でエロティックな音楽から得られる快楽において、主導的な原理だとみなされている。しかしながら、この説明はただ表面的に妥当するにすぎない。

 ハリウッドとティン・パン・アレーは夢の工場であるかもしれない。しかし、それらはカウンターの後ろで働く若い女性に、単に絶対的な願望充足を提供するのではない。この若い女性は、結婚するジンジャー・ロジャースと直ちに同一化するわけではないのである。ここで生じていることは、次のように言い表せるかもしれない。感傷的な映画の観客や感傷的な音楽の聴衆が幸福の圧倒的な可能性に気がつくとき、彼らは現代生活の秩序全体が彼らに認めるのを禁じている事柄をあえて自分自身に向かって告白するのである。すなわち、彼ら自身は現実には幸福と何の関わりもないということを、彼らは自分に打ち明けるのだ。願望充足と思われたものは、わずかな解放にすぎない。自分が不幸であるということ、そして幸福になれたかもしれないということ、そのことを知っている幸福を、もはや自分自身に拒む必要はないのだと気づくとき、この解放は生じる。若い女性販売員の経験は、他人の結婚式で涙を流す年老いた女性の経験と関係している。この女性は、自分の人生の惨めさに気がついて幸福な涙を流すのである。最もだまされやすい個人ですら、誰でも最後には賭けに勝てるのだと信じてはいない。むしろ感傷的な音楽の実際の機能は、自分は願望を実現し損なったのだという気づきに付与される一時的な解放感に存するのである。

 情緒的な聴取者は、あらゆるものを、後期ロマン派とそこから派生した音楽商品の観点から聴く。これらの音楽商品はすでに情緒的な聴取の要望に適うように形作られている。情緒的な聴取者は、泣くのを許してもらうために、音楽を消費するのである。これらの聴取者は、幸福の音楽的表現よりも、むしろ欲求不満の音楽的表現により惑わされる。チャイコフスキードヴォルザークに代表される標準的なスラブ的メランコリーは、モーツァルトや若きベートーベンの最も「充足された」瞬間よりも、はるかに大きな影響力を持っている。音楽のいわゆる解放的要素とは、単純に何かを感じさせてくれる機会のことである。しかし、この感情の実際の内容は、欲求不満でしかありえない。情緒的音楽は、「我が子よ、こちらに来て泣きなさい」と語る母親のイメージとなった。これは大衆にとってのカタルシスである。しかし、それは彼らをますますしっかりとコントロールするカタルシスである。涙を流す人は、行進する人と同様に、抵抗しない。自分の不幸の告白を聴取者に許す音楽は、その告白がもたらす「解放感」によって、聴取者をみずからの社会的従属関係と和解させるのである。

両価的態度、悪意、憤激

 今日の大衆の聴取によってもたらされる心理的「順応」が人を欺くものであり、ポピュラー音楽によって提供される「逃避」が現実には諸個人を、さまに彼らがそこから逃避しようとしている社会的権力に服従させるという事実は、当の大衆の態度の中に感じ取れる。喜んで受け入れ、確かに満足しているようにみえるその態度は、実際には複雑な性質のものであり、見え透いた合理化のベールによって覆われている。今日の群衆の聴取習慣は両価的なのである。状況の潜在的可能性に光を当てるには、ポピュラー音楽の人気の問題全体に関わるこの両価的態度を厳密に検討する必要がある。映像分野からの類推によって、問題を明確にできるかもしれない。映画の観客や雑誌小説の読者なら誰でも、時代遅れのモダンとでも呼ぶことのできる効果をよく知っている。二〇年前には魅惑的だとみなされていた有名なダンサーの写真や、当時は最も華やかだったのにいまや絶望的に古風に見えるヴァレンティノ映画の再上映が及ぼす効果のことである。この効果は、フランスのシュルレアリストたちによって最初に発見されたのだが、それ以来、陳腐なものになってしまった。今日、時代遅れだと言ってファッションをあざ笑う雑誌が多数存在する。しかし、そのファッションは、ほんの数年前には人気だったのである。また、過去のスタイルの服を着ていて滑稽に見える女性が、同時に今日の流行の粋を極めているとみなされることもある。モダンなものが時代遅れになる速さには、重要な含意があるのだ。それは次のような問いを提起する。すなわち、そうした効果の変化は、完全に対象それ自体に起因するものでありうるのだろうか、それともその変化は、少なくとも部分的に、大衆の性質によって説明されねばならないのだろうか? 今日、一九二九年のバブス[バーバラ]・ハットンを笑う人々の多くは、一九四〇年のバブス・ハットンを称賛しているだけでなく、一九二九年にも彼女にわくわくしていたのである。もし一九二九年当時のバーバラ・ハットン(とその仲間)に対する彼らの称賛に、歴史によって挑発されると容易に正反対のものにひっくり返る要素が含まれていなかったならば、彼らがいま当時のハットンをあざ笑うこともできないだろう。特定の流行に対する「熱狂」や狂乱は、それ自身のうちに、憤激の潜在的可能性を含んでいるのである。

 同じことがポピュラー音楽にも起こっている。ジャズ・ジャーナリズムでは、それは「陳腐さ」(corniness)として知られている。時代遅れになったリズムの定式は、それ自体としてどれほど「ホット」であろうとも、滑稽なものとみなされ、したがってきっぱり拒絶されるか、いまの聴取者がなじんでいる流行のほうが優れているという自惚れた感情とともに享受される。

 陳腐さゆえに今日タブーとみなされているある種の音楽的定式––たとえば小節の最初の一拍を一六分音符で始め、付点八分音符を続けること––に対して何らかの音楽的基準を提供することはできないだろう。それらの定式が、いわゆるスウィングの定式と較べて洗練されていないということでは必ずしもないのだ。ジャズの開拓期のほうが今日よりもリズムの即興が図式的でなく、より複雑であったということさえありそうである。それにも関わらず、陳腐さの効果は存在し、とてもはっきり感じられる。

 こうした点に関して、精神分析的な解釈を必要とする問いにまで進まずに提出できる適切な説明は、以下のようなものである。すなわち、聴取者に対して強制された好みは、強制の圧力が弛緩した瞬間に復讐を呼び覚ますのである。聴取者は、無価値なものを大目に見てしまったことに対する自己の罪悪感を、それを笑いものにすることによって埋め合わせるのだ。しかし、強制の圧力が弛緩するのは、何か別の「新しいもの」が公衆に押しつけられようとするときだけである。したがって、陳腐さの効果の心理学は何度でも再生産され、いつまでも続いていくだろう。

 陳腐さの効果によって例証される両価的態度は、個人と社会的権力との間の不均衡のすさまじい増大にその原因がある。一人の個人は、一見したところ、受け入れることも拒否することも自由であるかにみえる一個の歌曲と向き合っている。しかし、強力な代理店による歌曲の売込みと支援によって、個人は、個別の歌曲に対してならまだ持ち続けられたかもしれない拒否の自由を奪われてしまう。その歌曲を嫌うことは、もはや主観的な趣味の表現ではなく、むしろ公共的事業の英知に対する反逆であり、代理店が与えるものを支持していると思われる数百万の人々に異議を唱えることなのだ。反抗は、悪い市民であることの印、楽しむ能力の欠如、インテリぶった不誠実だとみなされる。普通の人々が普通の音楽に反対するなどいうことがどうしてありえようか、というわけである。

 だが、そうした影響力の量的増大が一定の限界を越えると、個性[個人]そのものの構成に根本的な変化が生じる。強靭な意志を持った政治犯なら、数週間にわたって眠ることを許さないといった手法が導入されるまで、あらゆる種類の圧力に抵抗するかもしれない。しかし、そうした手法が導入されると、彼は自分がしてもいない犯罪までみずから進んで自白するだろう。聴取者に対して作用する途方もない量の力の結果として、聴取者の抵抗にも、これと似たようなことが起きるのだ。したがって、任意の個人の力とこの個人に働きかける集中的な社会構造との間の不均衡は、彼の抵抗を打ち砕くと同時に、そもそも抵抗しようとする自分の意志に対する疚しい良心を植え付ける。ポピュラー音楽がもはやひとつの装置ではなく、自然界本来の一要素と思えるほどまでに、それが反復されるとき、抵抗は異なる様相を呈することになる。なぜなら、個性[個人]の統一にひびが入り始めるからである。このことはもちろん、抵抗の絶対的な除去を意味してはいない。しかし、抵抗は心理構造のますます深い層へと追いやられていく。抵抗を打ち負かすためには、心理的エネルギーが直接に投入されねばならない。というのも、この抵抗は、外部の力に屈することで完全に消滅したりはしないからである。抵抗は個人のなかで生き続け、まさしく受け入れの瞬間においてさえ、いまだ生き延びているのである。悪意が強烈に活発化するのは、ここにおいてである。

 悪意は、ポピュラー音楽に対する聴取者の両価的な態度の最も顕著な特徴である。聴取者は自分の好みを、操作されているという非難から守る。従属関係を告白すること以上に不快なことはない。不正への順応が掻き立てる羞恥心は、羞恥を感じる人々に告白を禁じるのである。それゆえ、彼らは、自分たちを拘束する人間に対してではなく、むしろ従属関係を指摘する人間に対して憎悪を振り向けるのだ。

 こうした抵抗の転嫁は、私たちの社会の中で抑圧的な物質的諸力からの逃避を提供するように思われ、個性の避難所だとみなされている領域[娯楽]へと場所を移す。娯楽の分野では、趣味の自由は至高のものとして歓迎されている。娯楽においても、実生活においてと同様に、個性は無力であると告白することは、個性というものが完全に消滅してしまったのでないかという疑いを引き起こすだろう。すなわち、規格化された行動パターンによって、もはやいかなる明確な内容も持たない完全に抽象的な観念へと、個性は還元されてしまったのではないかという疑惑が生じるのである。聴取者大衆は、彼らに対するお決まりの敵意なしに指揮され、彼ら自身、ぼんやりと気づいている陰謀に参加し、逃れられないものと同一化して、現実としては存在するのをやめてしまった自由をイデオロギー的に保持するように、完全に準備されてきた。欺瞞に対する憎悪は、欺瞞に気づいていしまいかねないという脅威に転嫁されるのであり、大衆は自分自身の態度を熱心に擁護するようになる。というのも、そうすることによって、大衆には、みずからの意志にもとづいて欺かれることが可能になるからである。

 受け入れられるべき素材もまた、こうした悪意を必要としている。その商品的性格、その横暴な規格化は、まったく気づかれないほど完全に隠されてはいないのである。それは聴取者の側の心理的行動を必要とする。受動性のみでは不十分なのだ。聴取者は[素材を]受け入れるように、みずからに強制しなければならないのである。

 悪意が最も明白なのは、ポピュラー音楽の極端な信奉者であるジルバ愛好者(jitterbugs)の場合である。

 逃れられないものの受け入れについての命題は、表面的には、自発性の放棄以上のことを示していないようにみえる。すなわち、主体は、ポピュラー音楽に対して自由意志のいかなる残滓も奪われ、与えられたものに対する受動的反応を再生産しがちになり、社会的に条件付けられた反射行動の中心に過ぎなくなるということである。ジッターバグという昆虫学的な言い回しは、このことを強調している。それは神経過敏な(jitter)昆虫(bug)を指しており、この昆虫は光などの所与の刺激に受動的に引き寄せられるのである。人間たちを昆虫に喩えることによって、彼らは自律的な意志を奪われているという認識が示唆されている。

 しかし、この考えはいくつかの修正を必要とする。それらの修正はすでにジルバの公式用語の中に現れている。レイテスト・クレイズ[最新の大流行]、スウィング・フレンジー[スウィング・ブーム]、アリゲーター[ジルバ・ファン]、ラグ・カッター[見事なダンサー]といった用語は、社会的に条件付けられた反射行動を越えていく傾向を示している。すなわち、憤激である。ジルバの盛大なパーティーに参加したり、ジルバの愛好者たちとポピュラー音楽の現在の問題を議論したりしたことのある人ならば誰でも、彼らの熱狂が憤激に近いことを見逃すことはないだろう。この憤激は、最初は彼らのアイドルを批判する者たちに向けられているのかもしれないが、それらアイドルたち自身へと矛先を変えることもある。こうした憤激は、与えられたものの受動的な受け入れということで簡単に説明できるものではない。主体は単に受動的に反応しているのではないということが、両価的な態度にとって本質的なのである。完全な受動性は、まったく曖昧なところのない受け入れを要求する。しかし、素材それ自体も、聴取者についての観察も、そのような一方的な受け入れを想定することを支持しない。単純に抵抗を放棄するだけでは、逃れられないものの受け入れには不十分なのである。

 ポピュラー音楽への熱狂は、聴取者による意志的な決意を必要とする。聴取者は、みずからがしたがう外部からの命令を、内的な命令に変換せねばならないのである。音楽商品に対するリビドー的エネルギーの付与は自我によって操作される。したがって、この操作は完全に無意識的になされるわけではない。専門家ではないがアーティー・ショウやベニー・グッドマンに熱狂するジルバ愛好者たちの場合には、「スイッチが入った」かのような熱狂的態度が支配的であると想定できる。彼らは「仲間入りする」のだが、この参加は単に所与の規格への彼らの順応を含意しているだけではない。それは順応するという決断を意味してもいるのだ。「仲間に加わる」ようにという音楽出版社の公衆に対する呼びかけは、その決断が意志の行為であることを証明している。それは意識の表層に近いところで下される決断なのだ(11)

 ポピュラー音楽に対するジルバ愛好者の狂信や大衆ヒステリーの全領域は、悪意のこもった意志決定という呪縛のもとにある。取り乱した熱狂は、それが自分たちのアイドルに対する本物の憤激やあざけるようなユーモアにいつでも反転しうるという点で、両価的態度を含意しているだけではない。それはまた、そうした悪意のこもった意志決定の遂行をも含意しているのだ。熱狂を強制する自我は、それを過剰に強制せざるをえない。というのも、仕事を成し遂げ、抵抗を打ち負かすには、「自然な」熱狂では不十分だろうからである。狂乱と自己を意識した(12)ヒステリーを特徴づけるのは、この故意の誇張という要素である。ポピュラー音楽のファンは、自分が承認することに決めたものから逸脱しないように、固く目を閉じ、歯を食いしばって、我が道を行く人物とみなされねばならない。明晰で落ち着いた見方は、彼に押しつけられ、また彼のほうでも自分に押しつけようとする態度を危険にさらすことになるだろう。彼の熱狂が依拠している元々の意志決定は、非常に浅薄なものなので、熱狂的流行によって強化されない限り、ほんのわずかな批判的検討ですらその決定を破壊してしまうだろう。ここで熱狂的流行は、疑似合理的な目的[意志決定を支えること]に役立っていることになる。

 最後に、ジルバ愛好者の身ぶりに表れているひとつの傾向に言及しなければならない。それは自分自身を戯画化する傾向である。雑誌や絵入り新聞でしばしば宣伝されているジルバ愛好者のぎこちない動作は、この自己戯画化を目指しているようにみえる。ジルバ愛好者は、自分自身に対して、自分自身の熱狂に対して、そして自分自身の楽しみに対して、しかめ面をしているかのようである。彼は楽しんでいる振りをしているときでさえ、自分の楽しみを非難しているのである。ジルバ愛好者は、あたかも審判の日を秘かに待望しているかのように、自分自身をあざ笑う。自分をあざけることによって、彼は自分が自分自身に対して犯した詐欺行為から自分を免罪しようとする。彼のユーモアのセンスはすべてをいかがわしいものにしてしまうので、彼は自分のどんな反応に対しても問い詰められることがない ––– あるいはむしろ自分を問い詰めることができない ––– のである。彼の悪趣味、彼の憤激、彼の隠された抵抗、彼の不誠実、彼の潜在的な自己軽蔑、それらすべてが「ユーモア」によって覆い隠されるとともに中和される。同じ効果の絶えざる反復が本物の笑いを想定することなどまったくありそうにないだけに、この解釈はいっそう正当なものとなる。百回も聞いたことのある冗談を楽しむ人間などいないのである(13)

 ポピュラー音楽へのあらゆる熱狂には、虚偽の要素が含まれている。限りなくスウィングに興奮していたり、徹底的にパフォーマンスに魅了されていたりするようなジルバ愛好者はほとんど存在しない。リズムの刺激に対するいくつかの本物の反応に加えて、大衆ヒステリーや狂信や魅惑は、それ自体、部分的に宣伝のスローガンであり、犠牲者たち[ジルバ愛好者]はそれに倣ってみずからの行動をパターン化しているのである。こうした自己欺瞞は、模倣と、さらには芝居がかった振舞いにもとづいている。ジルバ愛好者は自分自身の熱狂を演じる役者であるか、彼に提示される熱狂した表紙モデルを模倣する役者なのである。彼はみずからの解釈の恣意性を役者と共有している。彼は容易にかつ唐突に、自分の熱狂のスイッチを入れたり切ったりできるのである。彼はただみずからの行いに呪縛されているだけなのだ。

 しかし、意志決定、芝居がかった振るい舞い、そして自己欺瞞の切迫がジルバ愛好者のなかで意識の表層に浮上すればするほど、これらの傾向が大衆の中に現れ、管理された快楽をきっぱりと不要にする可能性が大きくなる。大衆は、そう呼ばれ、また自分でもそう自称しているような、魅了された昆虫の意気地のない集まりにすぎないわけではない。たとえ、自分たちの快楽はどこか「まがいもの」めいているという、あまりに意識されすぎた予感を抑え込むためだけだとしても、彼らはみずからの意志を必要としている。彼らの意志のこうした変換は、意志が依然として生きていること、そして、ある種の状況下では、その意志がみずからを一歩毎につけ回す押しつけられた影響力を除去するほどに強くなるかもしれないことを示しているのだ。

 今日の状況では、大衆心理のより幅広い問題の事例にすぎないこれらの理由から、意識と無意識との間の精神分析的区別には、どの程度まだ正当な根拠があるのだろうかと問うことが適切かもしれない。今日の大衆の反応は、非常に薄いベールによって意識から隔てられているにすぎない。この薄いベールを突き破ることがほとんど不可能なほど難しいという点に、今日の状況の逆説がある。しかし、真実は主体にとって、もはやそう思われているほど無意識的ではないのだ。このことは、次の事実によっても証明される。すなわち、権威主義的体制の政治実践において、誰も実際には信じていない公然たる嘘が、それを信じる人々を説得する力を持っていたかつての「イデオロギー」にますます取って代わりつつあるのだ。したがって、私たちは、自発性が強制された素材の盲目的な受け入れに取って代わられたのだ、と述べるだけで満足するわけにはいかない。今日、人々は昆虫のように反応し、社会的に条件付けられた反射行動の中心へと退化してしまったのだと信じることさえ、依然として表面的な見方にすぎない。そうした信仰は、新しい神話や共同体の不合理な権力について無駄話をする連中の目的にあまりにも適している。むしろ、自発性は、一人一人の個人が自分に強制されるものを受け入れるために行う途方もない努力によって使い果たされているのである。こうした努力が発達したのは、まさに管理のメカニズムを隠す化粧板が非常に薄くなってしまったからである。ジルバ愛好者になるためには、あるいは単にポピュラー音楽を「好き」になるためには、自己を放棄して受動的に列に並ぶだけではまったく不十分なのである。昆虫に変身するには、人間への変身を達成できるかもしれないエネルギーが必要なのである。


(7) ポピュラー音楽における歌詞と音楽の相互作用は、広告における画像と言葉の相互作用に似ている。[広告では]画像が感覚的な刺激を提供し、言葉はスローガンや冗談をそれに付加する。これらの言葉や冗談は、商品を公衆の心のなかに定着させ、それを明確で安定したカテゴリーに「包摂する」傾向がある。純粋に器楽的なラグタイムが、当初からヴォーカルを伴う傾向を強く持っていたジャズに取って代わられたこと、また純粋に器楽的なヒット曲が一般に衰退したことは、ポピュラー音楽における広告的な構造の重要性が増したことと密接な関係にある。〈ディープ・パープル〉の例が参考になるかもしれない。この曲は、元々、ほとんど無名のピアノ曲だった。この曲の突然の成功は、少なくとも部分的には、トレードマークとなる歌詞の付加によるものである。こうした機能的変化は、一九世紀のやや高尚な娯楽分野に存在している。バッハの〈平均律クラヴィーア曲集〉の最初の前奏曲は、その和音の連続から旋律を抽出し、それを「アヴェ・マリア」の言葉と結合するというシャルル・グノーの狡猾なアイデアによって、「神聖な」ヒット曲となった。そもそもの始まりから見かけ倒しであったこの手続きは、それ以来、音楽の商業主義の中で一般に受け入れられている。

(8) Cf. Hadley Cantril and Gordon Allport, The Psychology of Radio, New York, 1935 p. 69.

(9) 同じプロパガンダの策略をよりはっきり見てとれるのは、ラジオの商品宣伝の分野である。「ビューティースキン・ソープ」は「有名」だと語られるのだが、それは聴取者がその石鹸の名前をすでに数え切れない回数ラジオで聞いており、したがってその「名声」に同意するだろうからである。この石鹸の「名声」とは、それに言及するお知らせの総計にすぎない。

(10) 気散じという態度は完全に普遍的なものではない。特にポピュラー音楽にみずからの感覚を付与する若者たちは、すべての効果に対して完全に鈍感になっているわけではない。しかしながら、ポピュラー音楽に関する年齢層の問題はすべてこの研究の範囲を超えている。人口統計学的な問題もまた、私たちの検討の範囲外にとどまらねばならない。

(11) あるヒット曲の楽譜の裏には「君のリーダー、アーティー・ショウについて行こう」という呼びかけが書かれている。

(12) あるヒット曲では、「私はただのジッターバグ」と歌われている。

(13) 踊っているジルバ愛好者を撮影し、それを身ぶりの心理学の観点から吟味することで、この問題に実験的にアプローチすることは、価値のあることだろう。そのような実験は、音楽の規格と「逸脱」がポピュラー音楽においてどのように知覚されるのかという問題に関しても、貴重な成果をもたらすことだろう。動画と同時にサウンドトラックも記録するならば、たとえば、ジルバ愛好者たちは、どの程度まで彼らが夢中になっているとするシンコペーションに身ぶりで反応するのかということや、基礎をなすビートに対してかれらはどの程度まで単純に反応するのかということを明らかにすることができるだろう。後者のケースが当てはまるならならば、このタイプの狂乱全体の虚偽性を示すもうひとつの指標が得られることになるだろう。


「Ⅰ. 音楽の素材」を読む

「Ⅱ. 素材の提示」を読む

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