ポピュラー音楽について
テオドール・W・アドルノ(ジョージ・シンプソンの助力を得て)
翻訳 海老根 剛
[ ]は訳者による補足である。
Ⅱ. 素材の提示
最低限の必要条件
音楽素材の構造は、みずからを[聴取者に]強制するのに役立つ独自の技術を必要とする。この過程は、ごく大雑把に「売込み」(plugging)と定義されている。「売込み」という用語は、本来、特定のヒット曲を「成功」させるために、それを絶えず繰り返すこと、という狭い意味で使われていた。本論において私たちは、音楽素材の作曲と編曲に内在する過程の延長という広い意味で、この用語を用いていく。売込みが目指しているのは、言わば、ずっと変わらないものから逃れる道を閉鎖することによって、ずっと同一で変わらないものへの抵抗を打ち砕くことである。売込みによって、聴取者は、逃れられないものに魅了されるようになる。したがって、売込みは、聴取習慣そのものの制度化と規格化をもたらすのだ。聴取者は、同じものの繰り返しにすっかり慣れてしまい、自動的に反応するようになるのである。素材の規格化は外部からの売込みのメカニズムを必要とする。というのも、どの素材も他のすべての素材にほぼ等しいので、売込みが素材の提示に付与する強調が、素材における本物の個性の欠如を埋め合わせねばならないからである。ごく普通の音楽的知性を持った聴取者が、「パルジファル」のクンドリーの動機を初めて聞いた場合、この聴取者は、再びその動機が演奏された時、きっとそれを再認できることだろう。というのも、その動機は取り違えようのないものであり、他のものと交換不可能だからである。一方、この同じ聴取者が、ある平均的なヒット曲と向き合ったとしてみよう。この場合、聴取者は、その曲が何度も繰り返されるせいで否応なく覚させられてしまうのでもない限り、それを他の曲から区別することができないだろう。ここで反復は、他の場合にはそれが決して持ちえないような心理学的重要性を帯びている。だからこそ、売込みが、規格化の当然の補完物となるのである(3)。
素材が最低限の必要条件を満たしていることが前提であるが、音楽出版社、有名楽団、ラジオ、そして映画の間に適切なタイアップが存在すれば、どんな曲も売込み可能であり、成功させることができる。最も重要なのは、次の要件である。売込みが上手くいくためには、ヒット曲は少なくともひとつ、他の曲と区別できる特徴を備えていなければならないが、同時にまた、他のすべての曲が持つ完全な月並みさと平凡さも所有していなければならない。ある歌曲が売込みに値するかどうかを判断する際の実際の基準は、逆説的である。音楽出版社が欲しいのは、他のすべての現在のヒット曲と根本的に同じでありながら、同時にそれらとは根本的に異なってもいるような楽曲である。その楽曲は他と同じものである場合にのみ、顧客の側にいかなる努力も要求せずに、自動的に売れるチャンスを得るのであり、みずからを音楽の制度として提示することもできるのだ。しかしまた、その楽曲は異なっている場合にのみ、他の曲から区別可能になる。この区別可能性は、楽曲が記憶され、したがってまた成功を収めるための条件である。
この二重の願望を満たすことは、もちろん不可能である。実際に出版され、売込まれた歌曲を見てみると、そこには一般にある種の妥協が見出される。すなわち、大筋においては他と同じであるが、みずからを独創的に見せるトレードマークをたったひとつだけ持っているような代物なのである。この他から区別される特徴は、必ずしも旋律的なものとは限らない(4)。それは拍子の変速性や特別な和音や特定の音色であるかもしれない。
華やかさ
売込みが上手くいくためのもうひとつの要件は、サウンドのある種の豊かさと丸みである。この要件は、売込みのメカニズム全体に含まれているひとつの特徴を、すなわち、最もあからさまにビジネスとしての広告と娯楽の商業化に結びついている特徴を、発達させている。そして、この特徴はまた、規格化と疑似個性化との相互関係をとりわけよく表してもいる。
それは音楽の華やかさ(glamor)という特徴である。華やかさとは、歌の編曲の中で、「さあこれからお目にかけますのは」という態度を伝達する無数の一節にみられるものだ。MGM映画のライオンが威厳のある口を開いて唸り声を上げるときに流れる音楽の派手さは、ラジオから流れてくる、ライオンとは似つかぬ音楽の華やかさに似ている。
華やかさを重視する気質は、楽観的に見れば、成功物語の心的構築物だとみなせるかもしれない。この成功物語では、勤勉なアメリカ開拓民が冷淡な自然に対して勝利を収め、自然はついにその富を譲り渡さざるを得なくなるのである。しかしながら、もはやフロンティアではない世界では、華やかさの問題をそのように容易に解決可能なものとみなすことはできない。華やかさは、平凡な男のための永遠の征服者の歌に作りかえられる。実生活のなかでは征服することを決して許されていない男は、華やかさにおいて征服するのである。実際のところ、この勝利は、同じ製品をより安い価格で提供する用意のあることを告げるビジネスマンが自称するような勝利である。
華やかさがこのように機能するための条件は、フロンティア生活のそれとは完全に異なっている。この条件は労働の機械化と大衆の仕事日の生活に当てはまる。そこでは退屈さが途方もなく大きくなってしまったので、最も鮮やかな色彩しか、全体を覆うくすんだ単調さから際立つことができないのである。しかし、まさしく、そうしたけばけばしい色彩こそ、機械的な産業生産それ自体の全能性の証である。店舗や映画館やレストランの前に溢れるピンクがかった赤いネオンライト以上に定型化したものはないだろう。華やかにすることで、店舗や映画館やレストランは人々の注意を惹きつける。しかし、そうした施設が平凡な現実を克服するために通常用いる手段は、現実そのもの以上に平凡である。華やかさの実現を目指してなされる事柄が、それが華やかにしようとしている当のもの以上に画一化された活動になってしまうのである。もしそれがそれ自体として本当に魅力的であるならば、真に独創的なポピュラーな楽曲という補助手段しか持たないだろう。そして、それは、一見同じではないように見えるけれども実際には同じであるという法則に、違反するだろう。華やかさという言葉は、みずからが放つ光によって他のものから区別される顔や色彩やサウンドに適用される。しかし、華やかな女の子たちは全員たがいに似通っているし、ポピュラー音楽の華やかな効果もたがいに等価的である。
華やかさが持つ開拓者的性質[フロンティア時代に由来する要素]について言えば、そこにあるのは過去の無邪気な存続ではなく、むしろ機能の重複と変化である。華やかさの世界は、確かにショーであり、射的場やサーカスのまぶしい照明や耳を聾せんばかりのブラスバンドの同類である。そのようなものとして、元来、華やかさの機能は、まだ市場に完全に浸透されてはいなかった社会状況のもとで需要を人工的に生み出そうと奮闘していた広告と、結びついてきたのかもしれない。今日のポスト自由競争的な資本主義は、まだ未熟だったころの経済の仕掛けを、みずからの目的のために利用しているのである。だからこそ、華やかさは、ラジオにおける歴史的なリバイバルが持つ幽霊めいた性質を備えている。それは縁日のサーカスの呼び込みが、今日、ラジオの呼び込みとしてリバイバルしているのと似ているのだ。このラジオの呼び込みは、姿の見えない聴衆に向かって、商品を味わってみるのを忘れないように懇願し、その口調によって商品が満たすことのできない希望を喚起する。華やかさはすべて、ある種のペテンと結びついているのだ。楽曲の華やかな一節以上に、聴取者がポピュラー音楽によってペテンにかけられる場所はない。派手な楽句と歓喜は、音楽自身に向けられた勝ち誇った感謝を表現している。––– これは聴取者を喜ばせるのに成功したことへの自画自賛であり、大きなイベントを興行する代理店[音楽事務所]の目的と同一化したことに対する自画自賛である。しかし、自分自身を祝福することを別にすれば、そのようなイベントは起こらないので、音楽が提供する勝ち誇った感謝はみずからを裏切っている。このことはきっと、聴取者自身にも、そういうものとして無意識のうちに感じ取られているだろう。それはあたかも、子どもへの贈り物を自画自賛する大人に対して、子どもが憤慨するようなものである。それを口にするのは自分だけの特権だと子どもが感じている、その言葉を使って、大人が自分の贈り物を褒めるので、子どもは憤るのである。
幼児語
華やかさが子どもの振る舞いに通じているのは偶然ではない。強さを求める聴取者の欲望につけこむ華やかさは、依存関係を示す音楽言語の付随物である。広告には、子どもが喜びそうな冗談やわざと間違えた正書法、子どもの表現の活用がみられるが、ポピュラー音楽の中では、そうしたものが音楽的な児童語という形をとって現れる。ここには曖昧な皮肉によって特徴づけられる歌詞の例が多数存在する。そうした歌詞は、子どもの言葉をまねる一方で、同時にまた子どもに対する大人の侮蔑感を露にし、子どもの表現に軽蔑的でサディスティックな意味さえ付与するのである(〈グッディー、グッディー〉、〈ア・ティスケット・ア・タスケット〉、〈ロンドン橋落ちた〉、〈クライ、ベイビー、クライ〉)。本物の童謡にせよ童謡もどきにせよ、いずれも商業的なヒット曲にするために、元の童謡の歌詞が意図的に改変されている。
歌詞と同様に音楽も、子どもの言葉をまねる傾向がある。そうした音楽の主要な特徴をいくつかあげるなら、以下のようになる。まず、ある特定の音楽的定式をしつこく繰り返すことであるが、これは同じ要求をひっきりなしに口にする子どもの態度と似通っている(〈アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー〉)(5)。次は、多くの旋律が非常に少ない音数に制限されていることで、これはアルファベットをすべて習得する前の幼児の話し方に相当する。さらに、わざと間違った和音を付けることは、幼児が間違った文法でみずからを表現する仕方に似ている。そして最後に、ある種の過剰に甘い音色は、音楽におけるクッキーやキャンディーとして機能する。大人を子どもとして扱うことは、大人の責任感に伴うストレスを和らげることを狙った楽しみの表象の一部である。さらに子どもの言葉は、音楽という製品を、主体たち[聴取者である大人たち]にとって「ポピュラー」なものにするのに役立っている。見知らぬ男性の素性も、時間の意味も知らないのに、大人に正確な時間をたずねる子どものような、信じて疑わない態度で主体たちに近づくことによって、そうした主体と売込みをかける代理店との間の隔たりを––主体の意識の中で––架橋しようと試みるのである。
分野全体を売込むこと
個々の歌曲の売込みはメカニズムの一部に過ぎず、それが固有の意味を獲得するのは全体としてのシステムの内部においてである。このシステムにとって不可欠なのは、音楽のスタイルと個性的人物[パーソナリティ]を売込むことである。ある特定のスタイルの売込みの事例としては、スウィングという言葉があげられる。この用語は、明確で誤解の余地のない意味を持たないだけでなく、一九三〇年代中葉までのスウィング以前のホット・ジャズ時代に対する鋭い区別を示してもいない。この用語の使用を正当化するものが素材の中には見当たらないという事実は、それがただ売込みという目的のためだけに––つまり新しい商品名を付与することで古い商品を若返らせるためだけに––使用されているのではないか、という疑いを呼び覚ます。ジャズ・ジャーナリズムが愛用し、ジルバ愛好者によって用いられるスウィング関連用語の全体も、同じように売込まれたものだ。ホブソンによれば、そうした用語はジャズ・ミュージシャンをたじろがせている(6)。見せかけの専門用語によって売込まれる諸特徴が素材に根ざしていなければいないほど、そうした用語を布告する人間や解説記事といった補助的な力がより一層必要になるのである。
こうしたジャーナリズムは出版社や代理店や有名楽団に依存しているので、それをある程度まで直接に売込みのメカニズムに組み込まれたものとみなすことには、十分な根拠が存在する。しかしながら、この点に関しては、社会学的な限定を加えるのが適切である。今日の経済的条件のもとでは、「腐敗」を探すことは無益であることが多い。というのも、人々は、これまでお金が支払われる場合にだけするように期待されてきた振舞いを、いまや自発的に行うように強いられているからである。ハリウッドの「ウンフ・ガール」[性的魅力のある女優]の宣伝活動に一役買うジャーナリストは、映画産業に買収されている必要はまったくない。映画産業自身がその女優に付与する評判は、それを取り上げるジャーナリズムに浸透しているイデオロギーと完全に一致しているのである。そして、このイデオロギーは観客のイデオロギーとなった。こうした[ジャーナリズムと映画産業の]縁組みは理想的であったように思える。ジャーナリストは買収されていない声で語っているのだ。売込みに対する経済的支援がある水準に達すると、売込みのプロセスそのものが本来の原因を越えて、自律的な社会的支配力になるのである。
売込みのメカニズムの他のあらゆる要素以上に重要なのは、個性的人物の売込みであり、とりわけ楽団のリーダーの売込みである。実際にはジャズのアレンジャーに帰せられうる特徴のほとんどが、公式にはコンダクター[楽団のリーダーが務める]のものだとされている。おそらくアメリカ合衆国で最も有能なミュージシャンであるアレンジャーは、しばしば人に知られぬままである。映画のシナリオライターと同じである。コンダクターは直接に聴衆と向き合う人間であり、陽気で愛想のよい物腰や尊大な身ぶりで観客に感銘を与える俳優の同類である。コンダクターにあらゆる功績を転嫁することを可能にしているのは、彼の聴衆と向き合った関係である。
さらにリーダーと彼の楽団は、聴衆によって依然として即興的な自発性の担い手だと見なされている。現実の即興演奏が規格化の過程で消え去っていけばいくほど、そしてそれが手の込んだ図式によって取って代わられていけばいくほど、ますます即興演奏の観念が聴衆の前で維持されねばならないのである。アレンジャーが人目につかないままである理由の一端は、ポピュラー音楽は即興演奏されていないかもしれず、たいていの場合、固定され、組織化されていなければならないということを、ほんのわずかでも示唆するのを避ける必要があるということなのだ。
(3) 売込みのメカニズムがアメリカのポピュラー音楽に対して実際にどのように作用するのかについては、ダンカン・マクドガルドの研究が詳細に記述しているので、本研究は、素材の強制のより一般的ないくつかの側面を理論的に議論するだけにとどめておく。↩
(4) 技術的分析は、旋律という概念に関して、聴取者の反応を額面通りに受け取ることを、ある程度留保しなければならない。ポピュラー音楽の聴取者は、主に旋律とリズムについて語り、時折、楽器編成に言及することもあるかもしれないが、和声や形式について語ることは決してない。しかしながら、ポピュラー音楽の規格化した図式の内部では、旋律はそれ自体として、音楽の水平的次元で展開する独立した線という意味での自律的な要素ではまったくない。旋律はむしろ和声の一機能なのである。ポピュラー音楽において旋律と呼ばれているものは、一般的にはアラベスクであり、和声の進行に依存している。聴取者にとってなによりもまず旋律的だと感じられるものは、実際には、根本的に和声的であり、その旋律的構造は単に和声から派生したものにすぎない。素人が何を旋律と呼んでいるのかを厳密に研究することは有益だろう。8小節の楽節からなる枠組みの中で、単純かつ容易に理解可能な和声的機能にしたがって相互に結びつく音の連続であることが、おそらく判明するだろう。素人の抱く旋律の観念とその厳密に音楽的な意味との間には大きな隔たりが存在するのだ。↩
(5) こうした態度の最も有名な文学的事例は、「歯車が壊れるの見たーい!」(Want to shee the wheels go wound)という台詞(John Habberton, Helen’s Babies, New York, p. 9ff.)である。この言い回しにもとづいた「ノヴェルティ」・ソングをたやすく想像することができるだろう。[「歯車が壊れるの見たーい!」は、ハバートンの小説『ヘレンの坊やたち』に登場する三歳の男の子の台詞。男児はこの台詞を執拗に繰り返して語り手である「私」を悩ませる。なお、この台詞は、この子の兄が言った「(懐中時計の)歯車が回るのを見たい」(I want to see the wheels go round.)という台詞の不正確な反復である。]↩
(6) Wilder Hobson, American Jazz Music, p. 153, New York, 1939.↩