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見えざるもののリアルな手触り
Dowser(長嶌寛幸+寺井昌輝)のサウンドワーク

青山真治は、はじめから音にとても敏感な映画作家であった。宮岡秀行が監修した『セレブレートシネマ101』に寄せた短編作品(タイトルは何だったか?)の音響が残した強烈な印象は、いまでも鮮明に私の脳裏に焼きついているし、そもそも劇場処女作の『Helpless』で私を最初に震撼させたのも、映画の冒頭、病院の入り口にバイクで乗りつけた浅野忠信が、病院を立ち去るさいに、自動ドアを通り抜けながらヘルメット(だったと思う)をドアにぶつけて立てた「ゴォン」という鈍い響きだったと記憶している。寂れた喫茶店でのワンシーン・ワンショットにあっけにとられる以前に、その自動ドアが立てたノイズを聞いた瞬間に、いまここで、なにやらとてつもない映画が始まろうとしているのだと直感したのだが、それはなにも私に限られた経験ではなかっただろう。

その後も青山真治は、作品のなかでつねに音、とりわけ、音楽へのこだわりを示しつづけていた。けれども、青山作品の音響が新たなレベルへと進化する端緒になったのは、おそらく、映画の音に携わる二人の新スタッフの青山組への参加ではないだろうか。ひとりは、『路地へ』をきっかけに録音として参加する菊池信之であり、もう一人は『カオスの縁』で録音を担当した後に、『月の砂漠』への協力を経て、『名前のない森』から音楽を担当することになる長嶌寛幸(およびDowserの寺井昌輝)である。音響を意味を担う記号としてのみ扱うことに抵抗を示し、「撮影中に邪魔な音はすべて録っておくようにしている」と語る録音技師と、音楽を「見えているもの」の説明としてのみ用いることをよしとしない音楽家、そして、それに加えて、信じがたい柔軟さでカメラの前で起こることに瞬時に反応してしまうキャメラマン(たむらまさき)。この最強のトライアングルが確立したことが、『名前のない森』以後の作品の充実につながったのだと、私は推測している。(ちなみに、菊池とたむらがともに小川プロで活動していたことは周知の通りだが、長嶌と菊池もすでに一度だけ、石井聰亙の『エンジェルダスト』で恊働している。ただ、直接の面識はなかったかもしれない。)

とりわけ、長嶌寛幸が参加してから撮られた3本のフィクション作品、『名前のない森』、『軒下のならず者みたいに』、『秋聲旅日記』は、いずれも、通常の劇場公開作とは異なる枠組みのもと、小規模な予算で作られたフィルムだが、制作条件がもたらす制約とそれが可能にする実験性とのあいだの絶妙のバランスに支えられた傑作である。長嶌(およびつねに長嶌をサポートしている寺井)のサウンドワークも、冴えわたっている。長嶌の音楽は、単に見えているものをなぞることはない。人物の感情や物語上の場面の意味やジャンルの記号を観客に伝えることに終始してはいない。そこでは音楽は、たむらの映像、菊池の音響とつねに対話関係にあり、私たちが見ているものに、もう一つの次元を付け加え、見えないがそこにあるものの蠢きを感じさせるのである。『名前のない森』の冒頭のシーンでは、エフェクトのかかったパーカッションとギターのフレーズが、永瀬正敏が落ち込んだ眠りと覚醒のあわいに正確きわまりない仕方で位置づけられる。この映画では、本来抑制されるはずの背景の雑音がつねに少し大きめに響いていて、人物たちを脅かしていく。通常意識されないものが、不快な存在感を誇示するのである。長嶌の音楽は、そのように意識と無意識の境界から滲み出してくる何かの蠢きと共鳴している。『軒下のならず者みたいに』と『秋聲旅日記』はともに、周縁に追いやられ、前にも後ろにも進めなくなって、しかしだからといって思い切った行動をとることもできずに、いたずらに流れる日々に身をまかせる者たちの側にみずからを位置づける。『軒下』では、はじめからぐだぐだの日常が示され、映画は、ついに何かが起こるのではないかという期待を観客に喚起しながら、愚鈍にその期待を裏切りつづけるのだが、サスペンスをなし崩しにしたあとで、突如、思いもよらぬ形で忘我の瞬間が訪れる。歪んだ画面、カレーの盛られた皿に叩きつけられるスプーンの音にも増して、長嶌の強靭な電子音こそが、このアンチドラマのエクスタシーを可能にしている。それにたいして『秋聲』では、長嶌のメランコリックなメロディーは、とよた真帆の脆弱な存在を包み込む。また、嶋田久作が路地を散歩する場面で、カメラが少しずつ登場人物から自由になっていき、ついには嶋田久作を追い越してふらふらと川縁に進み出る場面の音楽も忘れがたい。ここでは音楽は、あたかも登場人物を見つめる場所の精霊の足音のようだ。

『エリエリ・レマ・サバクタニ』でも長嶌のサウンドワークは健在だが、ここでは長嶌は若干、交通整理の役目も果たしているようだ。というのも、この映画には、長嶌の音楽に加えて、波の音や風の音のような自然音と主人公が演奏する音楽という、強力な音が他に二つあるからである。映画の冒頭では、これら三つの音源(波や風の音、長嶌の音楽、浅野忠信がホースを振り回して生み出す音)が共存している。長嶌は、サックスのフレーズの背後に反復するノイズを仕込み、ゆっくりと時が流れる平穏を病に冒された世界の不穏と共存させている。この冒頭の場面以降は、主人公たちが演奏する音楽、自然の音、長嶌の音楽は、一度にというよりは交替して場を占める。長嶌は、病に冒された宮崎あおいには短く低い弦楽器のフレーズを、微笑みを絶やさない二人の音楽家には、穏やかなピアノのフレーズを振り当てることで、緩慢な物語の進行に的確なアクセントを与えている。そして、ラストのライブ演奏の場面では、浅野が弾くギターの音響とバックグラウウンドで流れるトラックが、ショットの変化に連動して入れ替わる。それによって、私たちは、宮崎とともに音の直中にいると同時に、音を空間内に位置づけることもできるのである。ここでの長嶌の仕事はしたがって、音響全般のオーガナイザーとでも呼べるものに近いと言えるだろう。

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