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描出と再現(ミシェル・シオン)

訳者付記

 本務校の学部授業で使用するために日本語に訳した文章を公開します。今回訳出したのは、ミシェル・シオン『オーディオ-ヴィジョン』(第5版、1990/2021年)の第1部(「視聴覚的契約」)・第5章(「現実的なものと描出されたもの」)に含まれる「描出と再現」(Rendu et Reproduction)と題された一節です(178-197頁)。1990年に出版されて以来、2021年の第5版まで改訂と増補が重ねれてきた『オーディオ-ヴィジョン』(L’Audio-Vision. Son et image au cinéma.)は、映画における音と映像の関係を考えるうえで欠かせない基本文献ですが、残念ながら今日まで日本語訳が存在していません。とりわけ本書の第1部・第5章は、アクチュアルな示唆に富む観点を提出していると思います。この章でシオンは、「描出」という概念を導入することで、いまなお映画の音をめぐる考察に根強く残存しているリアリズム的な思考の枠組みの外で映画の音を再考することを試みています。本章におけるシオンの議論は、映像と音響の全面的なデジタル化が進展し始めた時期に(1990年)なされたものですが、その意味で、映像におけるインデックス的リアリズムの問い直しに対応する作業を音に関して行っていたと言えるでしょう。じっさいシオンは、「実写」映画の音声とアニメーション映画の音声をシームレスに扱うことを可能にする概念として、「描出」を導入しています。なお今回訳出した部分の末尾では、アニメーション・ドキュメンタリーも含めた多様なアニメーション作品の音声について簡潔な考察が加えられていますが、この部分は第4版(2017年)で追記されたものです。ちなみに、シオンが「描出」(rendu)と呼んでいるのは、何らかの仕方ですでにある形を与えられているものを別の形に置き換える(翻訳する)プロセスであり、そこには不可避的に「解釈」が伴います。したがって「描出」は、「表現」(形のないものに形を与えること)や「再現」(オリジナルを複製=再生産すること)から厳密に区別されます。あくまでも授業用教材としての翻訳ですので、卒論その他で参照する場合には、必ず原典を確認してください。また私にとってフランス語は「第三」言語ですので思わぬ誤訳があるかもしれません。〔 〕内は訳者による補足です。著作権その他の理由で予告なく公開を中止する可能性があります。

(今年度の授業では第1部の日本語訳を用意しました。フランス語が堪能で映画の音を研究をしている人が手伝ってくれるなら『オーディオ-ヴィジョン』の翻訳出版も考えるんだけどなあ。緩く募集します。)

描出と再現

ミシェル・シオン(翻訳:海老根剛)

(1)描出とは何か?

物語世界の音声(声、音楽、物音)におけるリアリズムと語りの機能という問題を論じるにあたっては、描出の観念が再現の観念から区別される。

 言い換えれば、映画において、観客が音声を真正で効果的で場面にふさわしいものと認めるのは、その音声が、〔映画に描かれているのと〕同じタイプのシチュエーションや音源によって現実に生じる音声を再現している場合ではなく、その音源と結びついた感覚を描出している(つまり翻訳し、表現している)場合なのである。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは『手記』において、この問題を非常に見事に要約する意見を述べている。「もしある男がつま先で跳躍し着地するなら、彼の身体の重みはまったく音を生じさせない」〔つま先で跳躍し着地するときも、踵で跳躍し着地するときも、体重による負荷は同じなのに、着地時の音の大きさが異なるのはなぜかという指摘〕。すなわち、モナリザの作者は、音声が人物の身体の重みを描出しないことを、驚きを持って指摘しているのである。まるで重さを描出することが、音声の使命でもあるかのように。すなわち、音声は、それが由来する現象全体のミクロコスモス〔全体を凝縮的に含んだもの〕であり、その現象と同じ速度、質感、表現の質を備えているはずだ、というのである。レオナルドから数世紀が経過した今日でも、誰もが音声に対して同じことを期待し続けている。私たちは、今日、音響的現実を記録〔録音〕することができ、その記録は私たちの期待が誤りであることを明らかにしているにもかかわらず。

 しかし、実を言えば、この問題は複雑である。この問題はすでにそれが結びつく言語の水準に見いだされる。フランソワ・トリュフォー監督の『黒衣の花嫁』(1968年)では、ブリス(クロード・リーシュ)が友人のコリー(ジャン=クロード・ブリアリ)に、ある録音を聴かせるが、コリーは困惑する。それは何かが擦れ合うような、言い表し難く、周期的な、微妙な音だった。コリーが降参すると、ブリスは、足を組んだ女性のストッキングが擦れる音であると種明かしする。そしてブリスは、両足が擦れる音は、当事者の知らぬ間に録音されたものであると説明する。さらに彼は、女性が穿いていたのはナイロンのストッキングだったと付け加える。「最初はシルクのストッキングで試してみたんだけど、全然うまく描出(rendre)しないんだよ〔全然しっくりこないんだよ〕」。

 女遊びの好きなこの男は、「描出する(rendre)」という言葉で何を言わんとしているのだろうか? 正しく理解するなら、この録音に関して彼にとって重要なのは、友人に対して現実の音源を同定してみせることではなかった(その場合、彼は「だけどそれがストッキングの音だとはわからないんだよ」と言っただろう)。そうではなく、ある効果を、つまり音源と結びついたある感覚を翻訳すること〔音声で表すこと〕が重要だった。すなわち、贅沢なエロティシズム、親密さ、そして触れ合いの効果が重要だったのだ。だからこそ、シルクのストッキングよりも、ずっとありふれた素材であるナイロンのストッキングのほうが、録音においてずっと良く描出する〔しっくりくる〕ことが明らかになり得たのである。

 したがって、クロード・リーシュによって演じられた遊び人は、シルクが、じっさいには、官能性、贅沢さ、そしてシルクの手触りを物語る音を生み出さないという経験をしたのだった。しかし、彼はまた、そこから結論を導き出すことなく、もうひとつ別の経験もしていた。すなわち、ナイロンのストッキングの音自体もまた、それが喚起力を発揮するには、言葉による説明を必要とするのである。

 それは、私たちが映画のなかで聴く音——それはおそらくフォーリー・アーティストの仕事だろう——を作り出さねばならなかったときに、トリュフォーが導いた結論だったろう。

 したがって、私たちは次のように言うことができる。ひとつの映画作品から引かれたこの事例において、経験によってもたらされる二つの教訓のうち、一方(ナイロンのストッキングのほうが、シルクのストッキングよりも良く描出する)が、他方(それぞれの音源に立返るには、それらの音が名指される必要がある)を覆い隠している。それら二つの教訓が同時に互いを指し示し合うことで、両者が依拠する共通の幻想を一掃する、ということは起こらない。この共通の幻想とは、音声の自然な物語性である。

 一般的な信念では、二つの特性が音に貸し与えられ続けている。すなわち、音は、みずから客観的にそれが由来する音源を物語るだけでなく、その音源と結びついた印象をも呼び覚ますと信じられているのである。たとえば、愛撫の音について、ただちに、肌と肌が擦れ合っていると言われるだけでなく、官能的に——臨床的にではなく——語られもする。実のところ、これは魔術的な信仰であり、ある人物の映像がその人物の魂のいくばくかを保持していると想像するようなものである。しかし、この信念は、音声が語るものの不明瞭さを執拗に無視し続けている。

 

(2)描出されるのは、諸感覚の「かたまり」である

なぜそのような信仰が存続しているのだろう? なぜ音声はみずからその音源を「描出」しなければならないのだろうか? 映画のフォーリー・アーティストたちは、このような信仰から十分に覚醒できる位置にいる。確かに音声はほとんど客体化されていないし、ほとんど名指されても限定されてもいない。また音声には、それ固有の語りの不明瞭さもある。こうしたことが原因となって、音声は、それを取り巻く不明瞭さと不可解さに結びついた磁気作用によって、実際には取り立ててみずからがその原因であるわけではない諸々の情動を引き寄せることになる。

 描出の問題とは、ある感覚の領域を別の感覚の領域に翻訳するという問題に帰着する、と考える者もいるかもしれない。たとえば、前述のトリュフォーの映画のシークエンスでは、聴覚的な感覚に「転写された」触覚的な感覚が問題になっていると言えるだろう。すなわち、ナイロンのストッキングの擦れる音は、シルクで覆われた足の感触を描出しなければならないのだとみなされることになる。

 しかし、現実には、描出の関心は、ある特定の感覚に帰属するのではない知覚に向けられている。音声が人間の身体の落下を描出しないことにレオナルド・ダ・ヴィンチが驚いたとき、彼は身体の重さだけを考えていたわけではない。彼は身体の量感や落下の感覚や着地する者が受ける衝撃などについても考えていた。要するに、単一の感覚的メッセージに還元できない何かについて考えていたのだ。だからこそ、落下を示す大多数の映画作品において、私たちは——現実の経験とは矛盾するが——大音響を聴かされるのである。この大音響は、その音量によって、重さと激しさ(violence)と苦痛を「描出する」役目を担っている。

 実際、私たちの感覚的経験のほとんどは、集積した諸感覚のかたまりである。

 夏の日の朝、私は自分の部屋の雨戸を開く。突如、まるで滝のように、私を眩暈させるイメージが私に降り注ぐ。荒々しい光の感覚を角膜に感じながら、天気が良ければ太陽の暖かさを感じ、だんだん大きくなる戸外の物音が聴こえてくる。これらすべては、一緒になって私に与えられるのであり、個々に分離してはいない。

 また、私たちが道路の端にいるときに、猛スピードで側を走り抜ける自動車の例を引き合いに出すこともできる。かなり遠くから近づいてきて、ひとたび自動車が通り過ぎると、消え去るまでにやや時間を要する騒音、地面の振動の知覚、乗り物による視野の横断、空気の動きの感覚、温度の変化などが、私たちの唐突な印象において集積する。

 映画において、これら二つの類型的状況を〔観客に〕伝達するには、視覚と聴覚の回路だけで満足しなければならない。すなわち、ひとは映像と音声だけを用いて、それらの状況を「描出」しようと努めねばならないだ。感覚の荒々しさ(violence)と唐突さを描出するために、とりわけ音声が強調される。例として挙げた二つの場面の生きられた〔現実の〕経験では、雨戸を開けるときや自動車が通りすぎるときの音量の変化は、漸進的で相対的だろう。ひょっとしたら慎ましい変化かもしれない。いずれにしても、それがひとを驚かせることは決してない(窓を開けたり、自動者が通り過ぎたりする前に、ひとはすでに音を聴いているのだから)。それに対して、映画では、ひとは一貫して〔音声の〕強度のコントラストを強調しようとするだろう。この悪意のない嘘は、同時録音の映画にすら見いだされる。ときには、窓が開く瞬間や自動車が通り過ぎる瞬間に、突如、静寂の音声を出現させることもあるだろう。こうしたことがなされるのは、ここで音声が語らねばならないのが、複合的な諸感覚の流入だからであって、単なる出来事の音響的現実ではないからである…。

 ある種の映画のテクスト分析によって放棄された、映画における表象的表現(figuration)の問題——古典的な意味での絵画的問題——が存在する。それらのテクスト分析は、映画の表象的(figurative)次元を当然のこととみなしており、そうすることで仕事をやりやすくし、慣れ親しんだ分野である物語分析の諸問題へとまっすぐ進むか、あるいはまた——もちろんジル・ドゥルーズの映画論以後は——過剰に哲学的なアプローチを採用する。それに対して、もし私たちが——ある種の人々にショックを与えたり、驚かせたりしながら——表象的表現の諸問題に大きな重要性を付与するとするなら、その理由は、映画がそれらの問題に取り組むためにシミュラークルとしての自己を危険にさらすことで、新しい若々しさを取り戻すことができると信じるからである。

 

(3)物質性を付与する音声的指標(Les indices sonores matérialisants)

音声において、音源の物質性の感覚と音声産出の具体的過程へと私たちを送り返す指標を、物質性を付与する音声的指標と名付けることにする。そうした指標は、なによりもまず、私たちに対して、音声を産出する物質(木材、金属、紙、繊維)についての情報や、音声が維持される仕方(摩擦、衝撃、乱雑な振動、周期的運動など)や——第9章6節で分析されるベルイマン監督の『沈黙』のシークエンスのように——乗り物〔戦車〕の老朽化した状態についての情報を与える傾向がある。私たちの周りにあるもっとも日常的な物音のなかには、物質性を付与する指標に乏しく、音源から切り離されてアクスマティック化された状態で聴くと、謎めいたものになる音もある。たとえば、エンジンの音や物体が軋む音は、〔音源の映像から切り離して聴かれると〕途端に抽象的になり、参照物を欠いた状態になるだろう。

 多くの音楽文化において、歌手や演奏家が上達するさいに目指す目標は、みずからが作り出す音声から、あらゆる物質性を付与する指標——息継ぎの音や擦れたり軋んだりする音、あるいは音の産出と結びついた他の付随的振動——を最大限に取り除くことにある。演奏者が、物質性と音が飛翔するさいのノイズの洗練された残余を——ほんのわずかだけ——保持しようと配慮する場合でさえ、音楽家の努力は、この残余を因果性から解放することに向けられているのである。

 他の音楽文化——他の時代あるいは他の音楽ジャンル——では、正反対のことが目指される。すなわち、完璧な楽器演奏や歌において、音の物質的起源を隠ぺいするのではなく、それを際立たせる補足的なノイズによって、楽器の音声をより豊かにすることが目指される。

 ノイズ〔雑音〕という複合的で文化的な観念は、そもそも物質性を付与する指標の問題に密接に結びついている。

 視聴覚的契約において、物質性を付与する音声的指標を配合することは、場面の演出、構造化、そしてドラマ化の卓越した手段である。この配合のさじ加減は、撮影時に物音〔雑音〕を作り出し、それを録音する方法を通して、出自においてコントロールされることもあれば、音響効果やアフレコのさいにコントロールされることもあり、また今日では音響デザインによってそれがなされることもある。

 たとえば、足音は、物質性を付与する指標をおのずから最小限しか含んでいないこともあり得る(たとえば、アメリカの古い連続テレビドラマにあるような、目立たないコツコツという抽象的な足音)。あるいは反対に、革や繊維の感覚(シュッという音)を与える組成の細部や、地面の材質——きしる砂利の地面や軋む木の床など——に関わる細部〔物質性を付与する指標〕を豊富に含んでいることもある。同じ映像に対して、どちらを選択することも可能である。観客はどちらも承認する用意ができているし、同期的統合に従って、提案された音声を採用できる状態にある。

 『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ監督、1958年)の冒頭、アルペル家の起床の場面で、息子のジェラールの歩みは、庭のコンクリートの上に、感じが良くて具体性のある、擦れるような音を立てる。それに対して、彼の父親——堅苦しく不幸な太った男だ——の歩みは、か細く現実味のない「ティン」という小さな音を鳴らす。そして、それとは対照的に、母親の歩みは、主婦の部屋着の衣擦れの音と結びついて、多くの空間を占めることになる。というのも、彼女は活発に家と庭とを行き来するだけでなく、そのとき〔カンカンと音を立てる〕サンダルを履いているからである。

 『Once Upon a Time in America』(セルジオ・レオーネ監督、1984年)のオープニング・クレジットで、私たちは文字の背景をなす黒い映像に合わせて、規則的な足音を聴く。物語が始まって最初の映像が現れるさいに観客に驚きの余地を残しておくためには、この足音にいかなる特徴づけも付与されてはならない。それは女性的であっても男性的であってもならないし、戸外であっても建物の中であってもならないである。

 物質性を付与する音声的指標は、しばしば、音声の状態の不均衡によって構成される。この不均衡は、運動や機械的な過程における抵抗、不具合、がたつきを表すのである…。物質性を付与する音声的指標はまた、声においては、息遣いの存在や、口や咽に由来する雑音の存在として、また響きの変化(ひび割れたり、調子が狂ったり、かすれたりする変化)としても見出される。それとして同定された楽器の音においては、アタックノイズの存在や、音の不均衡、摩擦音、息遣い、鍵盤に爪が当たる音などの存在が、物質性を付与する音声的指標となる。ピアノ作品における不調和な響きや声楽作品における間違った発声も同様に、音声の聴取にとって、物質性を付与する効果を持つ。これらの物質性を付与する指標は、言わば、音声をその発信者に送り返すのである。それらは、音と音符それ自体の利益のために発信者の作業とその過失を忘却するのではなく、それを際立たせるのである。

 マックス・オフュルス監督の『快楽』の聖体拝領のミサの場面で、監督は、司祭の強く物質性を帯びた発声(非常に鈍重で、しわがれた、調子の外れた声)を、聖体拝領者の子どもたちの非の打ちどころのない純粋な声と——意図的に——対照させている。さらに私たちは子どもたちが歌うのを見ることはないが、司祭たちの汗ばんだ顔を見ることは免除されていない。

 所与の映像に対して、正しく調律されたピアノで弾かれた音楽が及ぼす効果と、やや調子の外れたピアノで不安定に演奏された音楽が及ぼす効果を比較してみよう。私たちは、前者の音楽がより容易に「オーケストラピットの音楽」〔オフの音楽〕として位置づけられるのを見るだろう。それに対して、後者の音楽の場合には、たとえ楽器が映像で示されておらず、言葉で名指されてもいないとしても、私たちは、セットの中に楽器が現実に具体的に存在していると感じることになる。

 ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』(1993年)で、女性主人公が演奏する現実のピアノは、意図的にコンサートのピアノのように鳴り響く。演奏の調子が乱れる理由に事欠かないであろう屋外の自然環境であるにもかかわらず、〔演奏が〕抽象的かつ理念的に感じられるように、物質性を付与する音声的指標(演奏のミスなど)が聴こえてはならなかった。それによって最後の場面にさらに大きな力が与えられることになる。その場面の驚きは観客に委ねられねばならないが、そこでみずからの演奏に物質性を付与する音声的指標を導入するのは、ピアニスト自身なのである。

 空間的な音響効果(音源とマイクロフォンとの間の距離の感覚、そして具体的な空間内で産出されたものとして音声を示す特徴的な残響)もまた、音声に物質性を付与するのに寄与する。とはいえ、一貫してそうであるわけではない。なぜなら、映像に示される空間と矛盾する非現実的な残響のある種の類型は、それとは逆に、物質性を消去し、象徴化するものとしてコード化され得るからである。

 音声に関して物質性を付与する音声的指標を強化すること、あるいは逆にそれを除去することは、ひとつの宇宙を創造し、形而上学的な意味を帯びることもあり得る。ロベール・ブレッソンやアンドレイ・タルコフスキーは、私たちをいまここに浸す物質性を付与する指標を好んでいる(前者の映画における木靴や古い靴の引きずるような歩み、後者の映画における痛々しい咳や苦しそうな呼吸)。一方、ジャック・タチは、物質性を付与する指標を除去することによって、軽やかで繊細な知覚を私たちに与える(『ぼくの伯父さんの休暇』におけるレストランのスイングドアの「ゴン」という音は抽象的で物質性を消去されている)。

 『裏窓』におけるグレイス・ケリーの登場を、再度、取り上げよう。そこで彼女はジェームズ・スチュアートの部屋に予告なしに侵入する。有名デザイナーのドレスを着た素晴らしい女性は、足音をさせずに、車椅子に座って眠っている男に進み寄る(彼の片足はギプスで固定されている)。彼女は彼にキスするために顔を近づける。これらすべては魔法のような疑似的静寂のなかで起こるが(サスペンス効果)、その静寂は音階を練習する隣人の歌手の声によって強調されており、ぎこちないスローモーションの視覚効果を伴っている。これらは非常によくまとまっているように見える。バストショットで捉えられ、その足元が見えないグラマラスなスター女優が、沈黙した妖精のように現れる。しかし、その直後、かすかな音響効果が(スター俳優自身によってセットで「提供された」のであれ、後から音声編集によって作り出されたのであれ)、彼らの甘いキスの映像に、控えめだが生理的な——口と唇による——湿り気のあるノイズをわずかに混ぜ合わせる。つねにグラマラスな映像との矛盾だろうか? そうではない。というのも、その瞬間に、忘れてはならない別の要素が介入するからである。すなわち、彼らの会話である。じっさい、リーザとジェフリーは現実離れした言葉を語るのではない。月並さとロマンティシズムのあいだで、語られること〔言葉〕と示されること〔映像〕を対照させることへのヒッチコックの好みにしたがって、彼らは、「足の調子はどう?」あるいは「お腹は空いてる?」といった言葉を語るのである。(彼女はみずからの神々しい存在を、彼のもとにもたらしただけでなく、食べ物も持参しているのだ…)

 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の『西瓜』(2005年)では、映像が私たちにポルノ映画の〔性行為の〕真似事を示すのに対して、音声は性行為の有機的次元を模倣し、それに物質性を付与している。

 同時録音で撮影された映画作品では、録音条件(正面から録られた声なのか背中越しに録られた声なのか)と結びついた音色の変化が、物質性を付与する指標としての効果を持ち得る。なぜなら、そうした変化は、その声を具体的な空間内に位置づけ、それをある瞬間に、より敏感な現実の培養土に根づかせるからである。

 

(4)描出の二つの具体例:『子熊物語』と『ロジャー・ラビット』

クリスマス休暇に先立って、1988年秋の映画シーズンには、動物が人間からを花形の座を掠め取るのが見られた。一方には、描かれアニメーション化されたウサギがいたが、このウサギは現実の〔生身の〕人間と会話し、人間の肉体がある空間にみずからをはめ込んで、床に自分の影を投げかけ、本物の壁を打ち壊し、固体の事物を手で扱った(ロバート・ゼメキス監督の『ロジャー・ラビット』)。他方には、早まって手に入れたと思い込んではならない毛皮で覆われた体重数百キロの動物〔熊〕がおり、この動物はまるでジョン・ウェインを撮影しているかのような入念なショットによって、巧みにフレーミングされた。これはジャン=ジャック・アノー監督の『子熊物語』である。

 これらの二本の新作についてなされた誇大な宣伝では、いつものことだが、映画制作と映像撮影に関するいくつかの「秘話」が明かされた。しかし、これらの映画の音声が提示し得る諸問題については、ほとんど言及されなかった。

 たとえば、『ロジャー・ラビット』の音声編集を担当したチャールズ・L・キャンベルとルイス・エデマンは、主人公のウサギの音響効果の問題にどのように取り組んだのだろうか? 彼らは明らかに、トゥーン〔描かれた登場人物は作品内でこう呼ばれる〕の逆説的なコンセプトそのものから出発した。トゥーンたちは、図像的で、あからさまに描かれていると同時に、三次元的にモデリングされており、平面的な描画に影と量感の戯れが付加されている。またキャンベルとエデマンは、具体的な世界を飛び回るこの生き物が、歩いたり、滑ったり、何かにぶつかったりするときに、どんな音がするだろうか、と自問せねばならなかった。

 伝統的なアニメーションの世界がどれほど騒がしいものであったとしても、そこではこうした問題は生じなかった。伝統的なアニメーションでは、動きと同期した様式化された音響効果が用いられたが、それは衝撃と運動を表す音声的な象徴を用いてアクションに付き従う一方で、運動する存在〔キャラクター〕がどのような物質や素材から出来ているのかを厳密に述べたりはしなかった。ジャック・タチやブレイク・エドワーズ〔『ピンク・パンサー』シリーズ〕のようなコメディ映画の監督たちが、音声を用いて人間の俳優たちを同様の仕方で扱うことを楽しんでいたのを観察してみるとよい。

 『ロジャー・ラビット』は、それとは正反対である。というのも、ここで私たちが向き合っているは、描画された存在〔キャラクター〕に対して物質的な一貫性を付与しようとする音響効果だからである。トゥーンの身体が発する音は軽やかであり続けており、この映画で観客がはっきりそれとして気づく音響効果を含んだ唯一の瞬間は、肉感的なジェシカ〔アニメのキャラクター〕がボブ・ホスキンス演じる人間の探偵に身体をすり寄せるときである。後者のとても具体的な頭が、前者の描かれた豊満な胸に衝突するとき、私たちは「コトン」という音を聴く。その空虚な音声は映画館を笑いで包むことになる。

 したがって、『ロジャー・ラビット』のフォーリー・アーティストたちは、音声によってトゥーンたちが空っぽで体重が軽いことを知らせているのである。もし観客がそれらの音声に特別な注意を払わないとしても、そのことでそれらの音声を聴くことが妨げられるわけではないし、映像を知覚したときにそれらの音声によって影響されることが妨げられることもない。スクリーンを前にした観客は、実際には聴きながら見ているものを、単に見ているだけだと信じるのである。これは私たちが付加価値と命名した現象に基づいている。

 『子熊物語』でジャン=ジャック・アノーとともに働いた異なるデザイナーや技術者たちが、〔『ロジャー・ラビット』から〕まったくかけ離れたプロジェクトに取り組んでいたかどうかは定かでない。もちろん、彼らは正反対の前提から出発している。つまり、本物の(ただし調教された)熊を人間の俳優のように演出しているのだ。ただし彼らは、熊の力強さ、その体臭、その重さ、そしてその獣の獣性を映像に収めるには、熊を撮影するだけでは不十分であることを知っていた。そして彼らは、それらの性質すべてを描出するために、音声を利用しようとしたのである。       

 私たちが知っている通り、映画作家〔アノー〕は、撮影時に同時録音された音声を利用しない決断をした。そのような選択をした実際的な理由は明らかである。オフスクリーン〔画面外〕にいる調教師が命令し怒鳴らないかぎり、そのような大きな動物を操ることはできなかったからである。そういうわけで、私たちは、映画に登場する動物の鳴き声が、動物園で撮り直され、多かれ少なかれ再加工され、ときには人間によって吹き替えられたことを知ることになった。とりわけ、子熊の口を通して様々な擬人的感情を表現するのに役立つ鳴き声が、人間によって吹き替えられた。これらすべては音響監督のローラン・ガクリオの指示のもとでなされた。

 熊を「描出」するにあたって重要な役割を演じたもう一人の裏方の職人は、フォーリー・アーティストのジャン=ピエール・ルロンだった。彼はスタジオで動物の足音を作り直した。大きな熊のバートの最初の登場が上手くいったのは、おそらく彼のおかげである。その登場がもたらす圧倒的な重さの印象は、大部分、この怪物の歩みと同期して鳴り響くくぐもった音声に由来する。

 この場面を『レヴェナント:蘇りし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、2016年)におけるグリズリー・ベアの攻撃と比較することは興味深い。

 『ウォーリー』(アンドリュー・スタントン監督、2008年)のような合成映像〔CGI〕の映画作品で、ロボットに機械の物質性と人間性を付与することに大いに貢献したのは、有名な『スターウォーズ』の音声を手がけたベン・バートである。

 

(5)アニメーションの音声:動きの行程に音を付けること

子どもにおける音楽感覚の始まりを論じた著作で、フランソワ・ドゥラランドとベルナデット・セレストという二人の研究者は、ありふれていて注目されることのない現象を熟考した。すなわち、子どもたちが遊ぶときに、物や人形やフィギュアや小さな自動車などを動かす遊びに句読点を付与する「音声の産出」を考察したのだ。ここで問題になっているのは、子どもたちが登場人物に与える台詞ではなく、彼らが口〔発声〕によって登場人物たちに付け加える音響効果——あるいは音声による効果と想定されるもの——である。著者たちが行った観察は、私たちにとって興味深い。なぜなら、それはまさしく映画における音響効果の問題、とりわけ、生身のものではない絵や線画やフィギュアをアニメーション化するさいの音響効果の問題を提起しているからである。

 実際に二人の研究者が記すところによれば、これらの発声は、あるときには、感情表現のコードの一部をなしており(自分が遊んでいるキャラクターのドレスが破けるときに女児が発する下降する「オーーー」)、またあるときには——特に男児の遊びにおいて——「ブルルル」、「ヴルルル」、「ブジュー」といった唇や咽喉を用いた発声が、音響効果および句読点として機能し、乗り物の移動やロボットや機械の動作に伴うことになる。

 著者たちは、これらの発声のいくつかの機能を明らかにしようとした。その中には、遊びに参加するキャラクターや機械の運動と力を「表象する」機能がある。それは文字通りの再現を意図したものではなく、「機械的で主に運動学的な象徴表現(運動)」に従うものだという。そこで目指されているのは、事物が発する音を模倣することではなく、同形表現によって事物の運動を喚起することである。言い換えれば、「音声とそれが表象する運動との間の運動の類似性」によって、事物の運動を喚起するのである。そういうわけで、遊びを観察された男児の一人が小さな自動車を走らせるのを止めるとき、男児は口を用いて飛行機の急降下を思わせる、滑るような音を作り出す。「おそらく音声の下降部は乗り物の減速を表象しているのだろう。」ここで音声が転写しているのは、運動——その素描——であって、事物から発せられると想定される音の響きではない。「音の質感はまったく似ていない。似ているのは音が素描しているものである。」音と運動の関係のこうした様態が、アニメーション映画、とりわけカートゥーン〔子ども向けのアニメーション〕が利用する音と運動の関係と同じであることに、どうして気づかずにいられるだろうか?

 それではカートゥーンの良く知られた月並な手法に立ち戻ろう。それは〔キャラクターが〕斜面や階段を駆け上がるときに、上昇する音楽的フレーズを付加するという手法である…。ただし、上っていく登場人物の足音がピッチのスケールを上昇するわけではない。したがって、ここで音の高さ隔たり〔度数〕の普遍的かつ空間的な象徴表現によって模倣されているのは、移動の行程であって、この行程で生じる音ではない。カートゥーン映画にしばしば含まれる移動の大半は、このような仕方で音声を付加されている。

 さらに音楽と映像をペアリングする典型的手法がミッキーマウシングと命名されたのは、アニメーション映画を参照してのことだった。この手法はずっと稀ではあるが、実写映画でも用いられる。ミッキー・マウシングとは、視覚的なアクションの流れをそれと同期した音楽の軌道(ローラーコースターのように上昇し下降するフレーズ)によって追尾したり、アクション(殴打、落下、閉まるドア)に対して楽器による句読点を付与したりする手法である。私たちはすでに『男の敵』を論じた際にこの手法に言及したが、それは明確な機能を持っている。テックス・エイヴリーのカートゥーン映画を音なしで——特に音楽パートなしで——見てみて欲しい。沈黙した視覚的形象〔キャラクター〕が激突するが、うまく知覚に刻み込まれず、走るスピードが速すぎると感じられるだろう。運動する形象を同定し記憶するさいの耳の敏捷さと比較した場合、眼は相対的に不活性であるがゆえに、音声がテンポの速い視覚的感覚を知覚に刻み込むのを助けているのである。だからこそ、音声は運動の行程に関わる(行程の視覚的知覚を支える)のであって、行程に固有の質感に関わるのではないのである。

 偉大なアメリカの映画監督〔テックス・エイヴリー〕の『ピョン助の家出』(1948年)を取り上げてみよう。これはオスの蚤と野良犬の牧歌的な物語である。犬は蚤に対して自分の毛皮を住み家として提供してやるが、ある日、別の犬に住み着いたメスの蚤が現れて…後の展開は想像がつくだろう。蚤が飛び跳ねると、サーカスでのように、音楽もまた飛び跳ねる。だが、いくつかの瞬間に、あちこちに散らばったタッチを通して、現実的で身体的なものが音声の水準に現れる。たとえば、都会の大きな犬が蚤を踵で踏みつぶすとき、控えめだがリアルな押しつぶされる音がする。あるいは、野良犬が大家族を連れて戻ってきたホーマー〔オスの蚤の名前〕と再会するとき、この大所帯を住まわせることを予見して、カートゥーンの犬は喜びのあえぎ声を出す。このあえぎ声はリアリスティックで犬らしい。テックス・エイヴリーにおいては、獣性は決して遠く離れた事柄ではない。この決定不能な音声は、私たちが手にする知覚において非常に厳密かつ鋭敏であり、同時にまた、それが物語り得ることすべてにおいて開かれている。この音声は、安心させてくれるカートゥーンの世界、閉じていて、なんら重大な帰結を持たない〔取るに足りない〕カートゥーンの世界に、不安をかき立てる現実の小さな一滴のように浸透している。

 ここに述べられた見解を過度に一般化して、特定の時代のアメリカのカートゥーン映画だけでなく、アニメーション映画一般にまで拡大して適用してはならない。アニメーション映画は、「実写」映画と同等の多様性を示している。『アナと雪の女王』(クリス・バック、ジェニファー・リー監督、2014年)のような大ヒット作は、アクションと(豊富な)対話をほぼつねにオーケストラピットの音楽〔オフの音楽〕で伴奏している。登場人物たちが歌っていないときですら、そのことに変わりはない。トナカイのキャラクターであるスヴェンは、うなり声や鳴き声で会話する。同様のことは、伝統的なアニメーションを用いる『千と千尋の神隠し』(2003年)のような宮崎駿の作品にも当てはまる。ただし、そこでは擬音的なミッキーマウシング(上昇したり下降したりする音楽的フレーズ)は——あまりに滑稽さと結び付いているがゆえに——用いられず、控えめな物音で置き換えられている。アリ・フォルマン(特に『戦場でワルツを』、2007年)やマルジャン・サトラピ(『ペルセポリス』、2007年)のいくつかの作品について言えば、それらの作品は、魅力的な仕方で実写映画の音声とアニメーションの映像を組み合わせている。あらゆる種類の混合的な定式が現れており、もはやアニメーションといわゆる「実写の」映画制作とを区別する明瞭な境界線を引くことは不可能である。

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