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夢の映画、音の映画 /『はだかのゆめ』

『はだかのゆめ』(甫木元空監督)は、そのタイトルが示唆するように、夢の構造を備えている。この作品では、私たちが大雑把に「現実」と呼んでいるものの論理は骨抜きにされ、「ここ」と「あそこ」の隔たりも、現在/過去/未来の区別も、生きているものと死んでいるものとの差異も、生物と無生物の違いも、すべてが曖昧になり、繋がり合い、混ざり合ってしまう。そうした夢の映画の作り手としてまっさきに思い出されるのは、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督だが、じっさい『はだかのゆめ』にはアピチャッポンの映画に似た感触がある。『ブンミおじさんの森』の冒頭、夜の森にたたずむ一頭の牛のショットが私たちを直ちに不思議な世界に誘ったように、『はだかのゆめ』では、夜闇に突如現れる、光りを発する生き物のような列車のイメージが、私たちを見知らぬ世界へと一気に導いていく。

 『はだかのゆめ』はまた音の映画でもある。この作品を観るスリルは、そのサウンドワークに多くを負っている(現場録音:川上拓也、音響:菊池信之)。この映画の音は、映像に対してつねにいくらかの距離を保っていて、相対的に自立した次元として映像に関わり続ける。映像と音の緊密な結びつき(同期)は緩められ、それぞれが相対的に独立した状態で関係し合う。ミシェル・シオンはそうした映像と音の関係を「空洞化したオーディオ-ヴィジョン」(audio-vision en creux)と呼んだが、じっさい、この作品が描き出すのは、充実した現前(いまここの具体的な手触り)の世界ではなく、空洞を穿たれた、とらえどころのない、幻影のような世界である。この点でも『はだかのゆめ』はアピチャッポンの作品(『メモリア』)を連想させる。

 作品の冒頭、緑の茂みに立つ一本の木を私たちは見る。川の近くにあるのか、水の流れるような音と蝉の鳴き声が聴こえる。すると突然、画面は暗転し、無数の音が奔流のようにあふれ出す。風の音、蝉の鳴き声、水の流れる音、波の音。それらの音の重なりは、この映画に登場するいくつもの場所の間にあらかじめ通路を開くかのようだ。観客は最初にこの音の奔流をくぐり抜ける。それは夢の構造を持つ世界に通じる門のような働きをしていると言えるだろう。

 この映画の特徴のひとつは、音が聴こえるときに、ほとんどの場合、その音源が映像で示されない点にある。しかもそのとき私たちが聴く音は、私たちが見る映像に対して微妙な距離を保っているので、その音をオフスクリーン(画面外に広がると想定される物語世界の延長)に位置づけて安心することができない。たとえば、主人公の青年がボートに乗ってゆっくりと水面を漂うショットがある。このとき私たちは、渓流のような、水が流れ落ちる音を聞くが、その音源が示されることは決してない。これはオフスクリーンの音声なのだろうか? 画面外の主人公を乗せたボートの近くに滝や浅瀬あって、そこでその水音が発生しているのだろうか? しかし、スクリーンに映される川面はどこまでも穏やかで、豊かな水量を湛えており、近くに急流があるようには感じられない。ではこの音はどこから来るのか? こうして音と映像の間に微かな空洞が穿たれ、音は映像から相対的に自立して響くことになる。

 人物が対話する場面でも同じ原則が採用されているように感じられる。登場人物が台詞を発するとき、カメラが人物に寄ってその表情をはっきり示すことはない(ひとつだけ例外がある)。話す人物は横を向いていたり、カメラに対して半ば背を向けていたりすることが多い。母親が他人と言葉を交わす唯一の場面では、会話の相手の頭部はフレーム外にあり、背中だけが見えている。こうした演出のおかげで、アフレコではないにもかかわらず、登場人物の声とその身体の映像との間に微妙な隔たりが生じることになる。

 母親が夜道で軽自動車を運転し、息子の姿が描かれた看板の前で急停車する場面もまた、音の相対的な自立性を際立たせる。最初カメラは夜の暗闇の中を進む自動車を後方からの移動撮影で示す。このとき周囲にはかなり喧しい虫の鳴き声が響いている。次に母親の車が急停車すると、ショットの視点は車内に移行する。しかし喧しい虫の鳴き声にはなんの変化も起こらない。音響のリアリズムの慣例に従うなら、路上のショットから車内のショットに移行したときに聴取点も移行させ、虫の鳴き声の聴こえ方を変化させるのが定石である。だがこの場面では、虫の鳴き声はカメラの視点の変化など意に介さずに、一貫して同じ仕方で響き続ける。こうした瞬間にも、この映画に特徴的な音と映像との関係が顕在化する。

 とりわけ印象的なのは、映画の前半で、主人公の青年が肩にスピーカーを載せた二人の若者を引き連れて山の斜面を上って行くところから始まるシークエンスだろう。その導入部に置かれた山並みをなぞるスケールの大きなパンショットは、もちろん『ユリイカ』や『サッドバケーション』を思い出させずにはおかないが、しばらくすると二人の若者の姿は消え、山の斜面に寝そべっている青年の姿が示される。このとき観客は、海岸に打ち寄せる波の音を聴いて戸惑うことになる。どこにも海の気配など感じられないからである。青年は起き上がり両手で望遠鏡のような形を作って、それを覗く。すると波の音は消え、カメラに向かって振り返る母親のショットが示される。これはこの映画で何度か繰り返される、交わることのないはずの視線の切り返しが最初に起こる瞬間だ。再び手で作った望遠鏡を覗く青年のショットになり、また波の音が聴こえ始める。そして青年が岩場に横たわる男を見つけると、カメラは唐突にズームする。次にショットが切り替わると、私たちは海岸の岩場で酒に酔って寝ころぶ男を見ることになる。青年が近づいて男と言葉を交わす。ここで私たちは、さきほどから聴こえていた波の音がこの場所のものだったことを理解する。この波の音は二つの場所の隔たりを横断して鳴り響いていたのだ。この音の横断性こそが、この作品の夢の構造を支えている。

 波の音の突然の出現は、この映画のもっともスリリングな場面でもう一度起こる。それはそれまで母親に近づくことを躊躇っていた青年が、意を決して母の暮らす家の前にある物干し台の向こう側に足を踏み入れる場面である。

 この映画の始めのほうで、私たちは母親が家の前で作業をしている様子を見る。カメラは少し離れたところから、母親の様子を映し出す。家の軒下にはいくつか物干し竿が架かっていて、画面の奥にも洗濯物の干された物干し台が見える。スクリーンの空間を手前と奥に分割し、母親の活動領域を限定するこの物干し台が重要な映画的意味を持つだろうという直感は、ある程度映画を見てきた観客なら誰しも抱くものだろう。その後、映画のなかで、最初のショットとは反対の側から物干し台で作業する母親の姿が映されることもあるが、母親は物干し台の向こう側(家のある側)にとどまり続ける。映画の中盤で青年は町で母親へのプレゼントを買い、白い紙袋を持って母親の家を訪れる。だが青年は物干し台の前で立ち止まり、結局、物干し竿に紙袋を掛けて立ち去ってしまう。母親と青年との隔たりは、この物干し台によって可視化されるのである。

 だからもう一度母親の暮らす家を訪れた青年が物干し台の向こう側へと進み出す瞬間は、この映画の決定的な転回点となる。この瞬間から、生きているものと死んでいるものは同じ時と場所を分け合うことになる。映画の前半で母親に近づくことのできなかった青年は、思い切って母親に接近しようとする。母親の姿を示すショットは、すべて青年の視点ショットであるかのように感じられるようになる。最終的に青年は、母親が座っていた椅子に座り、彼女が残した日記を読むことになるだろう。このような映画の転回点で、青年が物干し台の向こう側に立つとき、私たちは波の音と水の流れる音を聴く。この音とともに、この物干し台によって限定された小さな空間に、いくつもの時と場所が流れ込むように感じられる。

 映画の終盤で祖父と青年が並んで座るのを私たちが見るのも、この物干し台の向こう側の空間である。そこで祖父は、すでにこの世を去った人々の記憶を守りながら生きる者の心持ちを語る。言葉を発する祖父の表情を近くから捉えたショットは、この作品では例外的に映像と音の強固な結びつきを示しており、観客に圧倒的な現前性を感じさせる。だが、この例外的な瞬間が到来する直前、青年と祖父の姿を遠目から示したショットでは、手前に物干し台が映っており、そこには青年がそれまで着ていた衣類が干されていた。だとすると、これはいつの出来事なのだろう? それは本当に起こったことなのだろうか? この映画のもっともリアルな瞬間はもっとも幻想的な瞬間でもある。

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