コンテンツへスキップ

隔てる音と架橋する声 / 『ケイコ 目を澄ませて』

三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)が音の映画であることはすでに各所で論じられているし、監督自身も音の重要性について語っているけれども、この映画の「音声」において、「音」と「声」が対極的とも言える機能を担っていることは、あまり語られていないように思う。私が映画館(いつもの出町座!)で見て気づいたことを簡単にメモしておきたい。

 観客にとって、この映画との出会いは、まず不可解な音を聴くことから始まる。ラジオやスピーカーのノイズを連想させる不規則に途切れがちに聴こえる音。しかし電気的なノイズにしては鋭さに欠けているし、何かが擦れる音のようにも感じられる。いずれにしても、はっきりしないと同時に妙に鮮明な輪郭を備えてもいる不可解な響き。

 最初にこの音を聞いたとき、私はそれが何の音であるのかまったく見当がつかなかった。なので黒画面からフェードインし、机に向かってノートに何かを書きつけている主人公の姿を見たときには、それがペンと紙の擦れる音だったと知って少なからず驚いた。

 だが、この驚きは初見のときにしか生じない。この映画を2回目に見るときにはすでに私たちは音源を知ってしまっているので、冒頭のノイズはもはやペンと紙の摩擦音にしか聴こえない。それゆえ私たちは、その音が音源を正確に描出していると思い込んでしまう。

 この映画の音の機能を考える場合には、初見の印象を忘れないことが肝心だろう。『ケイコ 目を澄ませて』の冒頭で聴こえる不可解な音は、『黒衣の花嫁』(フランソワ・トリュフォー監督)の一場面を思い出させる。それはクロード・リーシュが、ジャン=クロード・ブリアリにテープレコーダーの音声を聴かせる場面で、ブリアリがテープレコーダーの再生ボタンを押すと、何かが擦れ合うような不可解な音が聴こえてくる。しかし彼にはそれが何の音なのかさっぱりわからない。するとリーシュは、ブリアリの反応を楽しみながら、それは女の穿いたナイロンのストッキングが擦れ合うときに生じる音なのだと種明かししてみせる。しかもリーシュによれば、最初はシルクのストッキングで試したのだが、それでは彼が期待する音の効果は得られなかったのだという。明らかにリーシュはその音にある種の官能性を感じて楽しんでいるのだが、音源を知らない人間にとっては、それはただの不可解なノイズにすぎない。

 この『黒衣の花嫁』の一場面を参照しながら、ミシェル・シオンは、映画において音声が語るものの本質的な不明瞭さを指摘している。『ケイコ 目を澄ませて』の冒頭場面は、音に耳を澄ませるように観客を導くだけでなく、映画の音の本質的な不明瞭さ、つまり音源となる事象について証言する能力の乏しさをも観客に印象づける。

 この映画では様々な仕方で観客の注意が音へと差し向けられる。それら多様な手法に共通するのは、一般的な劇映画の音響のリアリズムから逸脱していることである。すでに多くのひとが指摘しているように、冒頭の場面に続くジムの場面では、本来、同じ室内で同時に鳴り響いているはずの音響(縄跳びの音、筋力トレーニング機器の音、サンドバッグの音)がバラバラに切り離され、順番に重ねられていく。このシークエンスはまるで、これからはじまるケイコの物語のために観客の耳を再調整(recalibrate)しているかのようだ。また何度も登場する荒川の河川敷の場面では、頭上の高速道路を走る自動車のノイズがかなり強調されて鳴り響くにもかかわらず、チョロチョロと川の水の流れる音がしっかりと聴こえ続ける。もっとも「不自然」なのは、ケイコ(岸井ゆきの)がリングに上がりトレーナーのミットにパンチを打ち込む場面で、そのときにはきまって周囲が静まり返り、彼女のパンチがミットに当たるときに生じる衝撃音だけが鳴り響くことになる。ケイコがトレーニングを始めるとなぜか人影が消えていたり、それまで会話をしたりトレーニングをしたりして音を立てていた人たちが、沈黙してケイコを見つめていたり、息を潜めて動いていたりする。直前までコーチと会話していた男性は、ケイコのトレーニングが始まると黙ってケイコを見つめ、ステップを模倣する動きをする。すると隣にいるコーチはなぜか声を出して説明せずに、身振りだけで男性にステップを示してみせる。こうしたあからさまに「不自然な」沈黙を演出することで、観客はケイコのパンチの音に耳を澄ませるように導かれる。

 この作品の緻密な音響設計に導かれて、観客は音に敏感になり、耳を澄ませる。しかしそれは観客と映画の主人公との距離を縮めることにはつながらない。むしろ事態はまったく逆であり、私たちが音に耳を澄ませれば澄ませるほど、私たちはケイコとの隔たりを意識することになる。というのも、これらの音のすべてを、ケイコは聴いていないのだから。私たちがいま知覚しているような仕方では、主人公は世界を知覚していないということを、私たちは意識する。したがって、この映画の音の第一の機能は、観客と主人公とのあいだに容易には乗り越えがたい距離を設定し、両者を別け隔てる点にあるということになる。

 このような音の機能は、耳の聴こえない主人公に聴取点を設定することの拒否や、主人公の感情を説明するような劇伴の不使用、視線つなぎの回避といった他の選択とも整合的である。もちろん、ケイコのパンチによって生じる衝撃音は彼女の身体が感じている衝撃や振動と結びついており、その限りにおいて、彼女の世界との触れい合いについて何がしかのことを語っている。しかし、すでに触れた通り、この映画の冒頭の場面は、そうした音の証言力の本質的な不確かさを私たちに教えていたのだった。ケイコは透明のバリアーで隔てられている人物のように、簡単に共感や理解などできない存在として私たちの前にあり続ける。私たちは不確かな音に耳を澄ませ、想像力を働かせながら、彼女をまっすぐに見つめることを通して、少しづつ彼女に近づこうとする。時間をかけて、彼女を彼女自身として感じ取ろうとする。それこそが、この映画が観客に期待していることのように思える。

 ところが、である。「音」が設定する主人公と観客との隔たりは、映画の後半に響く2つの「声」によってあっさり架橋されてしまう。

 ひとつはケイコの日記を読み上げる、ジムの会長の妻(仙道敦子)の「声」である。この声が聞こえ始めるとき、映像は三浦友和が横たわる病室のベッドの傍らで日記のノートを開く仙道の姿を映し出す。しかし日記を読み上げる仙道の声が響き始めるとき、彼女の口元が動くことはない。この声は、物語世界内の「いま」と「ここ」を超越した「オフ」の声として映画に参入する。じっさい、この仙道の声のテクスチャーは、それまでに私たちが聴いてきた彼女の声とはかなり異なっているので、一瞬、仙道の声かどうか確信が持てないほどだ。物語世界内の「現実」から切り離されたこの声は、いくつもの異なる時間と場所を横断し、同様にオフに移行する音楽の響きと合流しながら、日記に書かれていない場面を召喚し、それまで相対的に独立していたエピソード(会長とケイコの関係、ケイコと弟のガールフレンドとの関係)を結び合わせる。このオフの声を通して、私たちはケイコがトレーニングの日々に何を考えていたのかを知り、その声が重ねられる映像を通して彼女の心境に生じつつある変化を知ることになる。ジムの会長もその妻もケイコと長く時間を共有してきたのだから、この日記の言葉で初めてケイコの気持ちを知るわけではないだろう。このオフの「声」の第一の機能は、登場人物のあいだの隔たりではなく、「音」が設定した観客とケイコとのあいだの隔たりを架橋することにある。

 同様の機能を果たしているのは、この映画で印象的なもうひとつの「声」、つまりケイコの発する声である。この映画において、ケイコが発する声には、ほとんど無媒介的な「真実」のステータスが付与されている。ケイコが2回発する「ハイ」という声がそうであり、なによりもまず、最後の試合で彼女が発するうなり声がそうである。これらの声が響くとき、観客はケイコの真実に触れたと感じてしまう。とりわけ最後のうなり声は、この映画で唯一、観客に対して、主人公の感情をダイレクトに共有する機会を与えている。ここでも「声」は「音」が設定した隔たりを架橋しているのである。

 会長の妻の日記を読む声とケイコのうなり声。この2つの声は『ケイコ 目を澄ませて』が「商業映画」として成立するためには欠かせないものであったろう。それらの声のおかげで、観客は主人公との隔たりを克服でき、ケイコを理解し、その真実に触れることができたと信じられるのだから。その意味で、それらの声は『ドライブ・マイ・カー』の雪山の場面における西島秀俊の演技と同じ機能を担っていると言える。三宅監督の作品が商業的に成功し、批評的に評価されて数々の賞を受賞することは目出度いことではある。しかし、私としては、この映画の音が設定する主人公との距離を別の仕方で踏破してみたかったと思わずにはいられない。「音」に対する「声」の勝利がなかったら、そこにどんな映画的冒険が広がっていただろうと夢想してしまうのである。

 もちろんこの文章は聴者としての観客の経験を前提している。この文章を書きながら、批評の主語としての「私たち」に内在する排除と包摂についても考えさせられた。この作品における「ろう者/聴者の身体のすれ違い」についても書いてみたいところだけれど、長くなってしまいそうなのでひとまずここまでということで。

Related Posts