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2024年版『蛇の道』雑感
黒沢作品の現在についてのメモ

先日の出町座でのトークでも少し話したけれど、黒沢清監督の近年の作品は、あからさまな反復の印のもとにある。蒼井優に始まり(『贖罪』第一話、2011年)蒼井優で終った(『スパイの妻』、2020年)10年間の黒沢作品が、一見するとじつに多彩で、自己反復を拒否するかにみえながら、ときに抑えがたい既視感を観客に抱かせるものだったのとは対照的に、『モダンラブ・東京 彼を信じていた13⽇間』(2022年)に始まる一連の作品は、いずれも正々堂々と自作を反復してみせる。あからさまな旧作の繰り返し、あるいは自己引用。これが2020年代の黒沢作品の特徴である。

ざっと列挙してみよう。

 たとえば『モダンラブ・東京』。冒頭のカフェの場面は『贖罪』の第一話で蒼井優がお見合いするカフェの場面を反復しているし、永作博美が姿を消したユースケ・サンタマリアを探して福祉施設を訪ねる場面でも、通路で列をなすホームレス(?)の人々の姿が、ただちに『トウキョウソナタ』(2008年)のハローワークの場面を思い出させる。そもそも、『モダンラブ・東京』のエピソードの全体は、永作博美とユースケ・サンタマリアのキャスティングという点でも、(他人と入れ替わる)正体不明の男をそのまま受け入れる女性の物語という点でも、『ドッペルゲンガー』(2003年)のリメイクだと言っていい。

 『蛇の道』(2024年)が1997年公開の同名映画のリメイク(つまり反復)であることは言うまでもないけれども、それだけでなく、この映画には他の旧作の一場面の明瞭な繰り返しが見いだされる。それは柴咲コウが病院の診察室で西島秀俊を診察する場面のことで、ここでは明らかに『キュア』(1997年)における洞口依子と萩原聖人の場面が反復されている。『キュア』では医師の洞口が萩原に背を向けたまま言葉を交わしていたが、『蛇の道』でも柴咲は西島に背を向けたまま会話する。二人の位置関係を示すショットとその関係性の変化が『キュア』を思い起こさせるのである。そのさい『蛇の道』では、医者と患者の関係が『キュア』の場合とは逆になっている。『キュア』では、最初、もっぱら医師である洞口が萩原に質問し、その関係が途中で反転して萩原が洞口に催眠暗示をかけることになる。いっぽう『蛇の道』では、語りかけるのは患者である西島のほうであり、二回目の診察のさいに西島のほうに向き直り、暗示をかけるのは柴咲である。「帰国したらそれこそ終わりですよ」と言う西島の言葉を聞いた柴咲は、振り返って西島を見つめ、「むしろ終らないことこそが苦しみでしょう、あなたならできますよ」というようなことを言う。ここで柴咲が「できる」と言っているのはみずから命を断つということであり、西島はそれを了解し、柴咲が示唆した行動を実行に移すことになる。

 『Chime』(2024年)でも旧作のあからさまな反復は欠けていない。とりわけ印象的なのは、主人公(吉岡睦雄)の家族が食事をする場面で、そこではテーブルを囲んで座る、父親、母親、息子の三人が示される。意味もなく威張り散らす父親、夫に従順にしたがう母親、そんな父親に冷ややかな態度をとる息子が食卓を囲むこの場面は、もちろん『トウキョウソナタ』にある一場面の繰り返しである。ただ、原因なき結果(効果)のみから構成された音の映画である『Chime』では、家族の唯一の機能は、不協和なノイズ(唐突な笑い声、空き缶の騒音)を発生させることに還元されている。また、映画の終わりのほうで、レストランのシェフになるための面接に失敗した主人公がファミレスのような店を出ようとするときに、一人の男性客が不意に近くにいた女性客にナイフで襲いかかる場面は『キュア』のラストシーンを想起させる。

 『Cloud クラウド』(2024年)にも、もちろん旧作の反復がある。まず菅田将輝演じる主人公の転売ヤーという設定と彼のアパート及び湖畔の事務所兼自宅の設えは、『贖罪』第三話の加瀬亮の仕事と彼の事務所兼自宅に似ていなくもない。しかし決定的な反復はむしろ映画の後半に見出される。この映画の最後のパートの始まりを告げるのは、唐突な松重豊の登場である。彼はある組織のメンバーらしく、菅田将輝の守護役を買って出た青年(奥平大兼)に武器を手渡すために駅のホームに現れる。結局のところ、主人公が無傷で生き延びることができたのは、松重が提供した武器と彼が按配する事後処理のおかげなのだから、この人物はこの映画の物語を丸く収めることを可能にする存在だと言える。廃工場での銃撃戦の大詰め近く、菅田と奥平は半透明のビニールシートが吊り下がった一角にやってくる。このビニールシートは多くの黒沢作品に登場する「the 黒沢清」なアイテムだが、松重の唐突にして印象的な登場を見ている観客は、どうしたって『地獄の警備員』の給湯施設の場面を思いださずにはいられない。じっさい、このビニールシートの向こうに広がる廃工場の一角はロッカーと戸棚が立ち並んでいて、『地獄の警備員』のビルの地下室そっくりである。二人が警戒しながら戸棚やロッカーあいだを歩いていくと、不意にひとつのロッカーの扉が開き、中に潜んでいた菅田の先輩(窪田正孝)が奥平に飛びかかる。後から羽交い締めにして奥平に銃口を突きつけた窪田は、菅田に向かって「地獄」というキーワードを口にする。しかし、結局、窪田は馬鹿げたミスをしてあっさり奥平に逃げられ、菅田のピストルから発せられる銃弾によってロッカーのなかにくずおれる。『地獄の警備員』でもロッカーは死体が横たわる場所だった。というわけで、この場面はどうみても『地獄の警備員』の反復(引用)なのである。だとすると、ラストシーンの明らかに動いていない自動車の移動場面も、『キュア』のバスの場面というより、むしろ『地獄の警備員』冒頭のタクシーの場面の繰り返しのように見えてくる。というのも、このラストシーンでも、今度は菅田の口から「地獄」というキーワードが呟かれるからである。おそらくこれは意識的な自己引用で、「原点回帰」を示唆する身ぶりなのだろう。

 こうしてみると、黒沢監督がこのタイミングで『蛇の道』のリメイクに取り組んだのは、ほとんど必然の成り行きに思えてくる。じっさい、2024年版の『蛇の道』は、自作の反復が生産的でありうることを証明する作品でもある。この作品はリメイクという意味で反復であるだけでなく、物語自体がいくつもの反復によって構成されている。ひとりの女性(柴咲コウ)が我が子を殺した犯罪集団に復讐するために、その組織の一員であった男に近づき、彼の復讐を手助けする。この復讐の過程で、三人の男がアジトに拉致されて、同じ手法で拷問される。映画の終盤、ついに二人は組織の中枢に乗り込み、黒幕であった人物を殺害する。だが復讐が完了したと思われたそのとき、主人公の本当の復讐が始まるのだった。同じ復讐のプロセスが四回繰り返され、最後の一回の始まりを示唆するところで映画は終わる。

 この復讐の反復構造は1997年版の『蛇の道』にもあったものだ。しかし両方のバージョンを見較べてみると、そこには決定的な違いが存在する。

 それは主人公が男から女に変わっていることではない。たしかに作品公開時のインタビューでは、監督自身、主人公の性別変更の意味を語り、1997年版の哀川翔が非人間的な復讐機械のような人物だったのに対して、2024年版の柴咲コウがあくまでも人間的な存在であることに言及していた。また、おそらくこの発言に影響されてのことだと思うが、この作品の主人公に現代を生きる女性の姿を読みとる生真面目な批評も書かれている。だが少なくとも私にとって、2024年版『蛇の道』で注目すべき点はそこではない。

 私見では、2024年版の『蛇の道』の魅力は、徹底した語りの経済性の追求と俳優の演技の豊かさにある。2024年版の『蛇の道』は、1997年の元ネタにあった復讐の構造をラディカルに形式化してみせる。1997年版にはまだ多分に含まれていた夾雑物を取り除くことで、ほとんど古典的といってもよい簡潔さとリズムが生まれ、その簡潔さとリズムのもとで俳優のアクションがバリエーション豊かに展開するのである。

 たとえば、2024年版『蛇の道』では、1997年版にあった語りの冗長性がキレイに取り除かれている。1997年版では、復讐の対象となる男を拉致してアジトに連れて行くときに、移動中の車内の場面が繰り返されていた。また男を別の場所に連れて行く場合にも、車内のカットが繰り返し挿入されていた。2024年版では、最初にマチュー・アマルリックをトランクに入れてアジトに運ぶくだりで車内の移動場面が描かれるだけで、その後の復讐のサイクルでは移動場面はすべて省略されている。なので二人目の復讐対象であるグレゴワール・コランが拉致られる場面では、走り去る車を示す固定ショットのあと、直ちにアジトで鎖につながれるショットになる。三人目の場合にも、男の入った寝袋を引きずる二人のカットの後に、アジトで手錠をかけるショットが直接続く(走り去る車を示すカットすらない)。この作品の随所にみられるこうした省略が、簡潔にして小気味よい語りのリズムを生みだしている。同様のことは、ロケーションの選択についても言えて、1997年版では、最初の男と三人目の男を拉致るときに同じ家が舞台になるが、2024年版では最初の男がアパルトマンの玄関、二番目の男が田舎の小屋、三番目の男がフィットネスクラブとなり、ロケーションの冗長な反復が避けられている。

 また2024年版では、過剰な意味づけを帯びた(いかにも意味ありげな)細部が削除され、登場人物の感情を表す台詞も必要最小限にまで刈り込まれる。1997年版にあった過剰な意味づけを帯びた細部とは、アジトの内部が最初に写されるときに壁の上方に見える十字架のようなシミであり、「世界の法則」を解き明かす謎の数式を操る集団であり、ナイフを格納した白い杖をついて片足を引きずりながら歩く不気味な女性である。こうした象徴性や寓意性を帯びた細部は、2024年版ですべて捨て去られている(代わりに登場するのは純然たる「無-意味」としてのロボット掃除機の動きだ)。台詞に関していうと、1997年版では香川照之がかなり饒舌であり、復讐の相手に対して感情をあらわにする発言が繰り返される。基本的には無口な哀川も、最初の男に水をかけるところで「尻を上げろよ」と言ったりして、あからさまに侮辱的な言動をとる。映画のラストには香川が狂気に陥るかのような描写もあった。2024年版では、基本的にこうした台詞や言動は必要最小限に切り詰められ、ただ復讐のプロットを成り立たせるためだけに配置されている。したがって、1997年版にあった陰惨な雰囲気や復讐の情念のようなものは背景に退いている。

 こうした改変の結果として、2024年版で前面に出てくるのは、俳優のアクションの豊かさである。復讐の構造が徹底して形式化されたことで、かえって俳優のアクションがバリエーション豊かに展開することになる。たとえば、三人の男が拉致される場面に、そうしたアクションのバリエーションの豊かな展開を見ることができる。映画の冒頭では、アパルトマンの玄関にたたずむアジア系の若く美しい女性(柴咲)を見て親切そうに声をかけるアマルリックに、背後からダミアン・ボナールが電気ショックを浴びせかける。二人は気絶したアマルリックを手際よく寝袋に入れて運び出す。一方、二人目のグレゴワール・コランの場合には、電気ショックは用いられず、状況を察したコランがみずから寝袋に入ることになる。田舎の風景の中を引きずられるコランが、寝袋の中で大人しくしているのを想像すると実に愉快だ。三人目のスリマヌ・ダジを拉致しようとする場面では、この男の驚異的な身体能力に手こずり、最後には問答無用の肉弾戦になる(この場面にこそ主人公を女性に変えたことの効果が現れている)。それにしても、この三者三様のアクションの展開のなんと魅力的なことか。復讐のプロットを徹底的に形式化して、骨組みだけにしてしまったことで、アクションのバリエーションがくっきりと浮かび上がるのである。同様のことは、三人の男がアジトに連れて来られてからの場面でも観察できて、そこでも中心を占めるのは俳優たちの魅力的なアクションである。たとえば、大便を漏らしてしまったアマルリックが翌日水を浴びせかけられる場面では、1997年版にあった屈辱的なやりとりはなくなり、ためらいがちに少しずつお尻を水のほうに突き出すアマルリックの身ぶりがじっくり示される。アマルリックとコランが二人とも酷い目にあっているにもかかわらず、最後まで vous と tu で会話するやりとりも滑稽で魅力的だ。そして、どこまでもしぶといスリマヌ・ダジの抵抗ぶりも素晴らしい。なにより最高なのは、この三人による死体の演技である。この映画では死体が三回示される。最初はアマルリック一人、次にアマルリックとコランの二人、最後にアマルリック、コラン、ダジの三人が並んで床に転がる。この三つのショットを見ると、俳優たちが心から楽しんで演じていることが手にとるようにわかる。『蛇の道』(2024年版)には、ほとんどアナーキーとも言える映画作りの楽しさが感じられるのである。これも一種の「原点回帰」と言えるかもしれない。

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