前回のポストからあっという間に一年以上経ってしまった・・・。去年の5月からのおよそ1年間は、本を書く作業に注力していた。テーマは人形浄瑠璃の観客史で、昭和初年の大阪に登場した新しい観客たちに注目することで人形浄瑠璃の「近代」に新たな角度から光を当てることを試みている。傍目からは突拍子もない企てのようにみえるかもしれないけれど、過去十年にわたって進めてきた研究の成果である(7月末に和泉書院から刊行予定)。古典芸能ファンでなくても(いや、古典芸能を毛嫌いしている人でさえ)面白く読める珍しい本なので、ぜひ手にとっていただけたらと思う。
この間、大量の資料を扱う執筆作業に没頭していたので、新作映画をフォローすることはあまりできなかった。ようやく先月あたりから余裕ができてきて、映画館で定期的に映画を見れるようになってきたものの、これだけブランクが生じると、批評的な文章を書くことは難しくなる。批評文を書くことは、運動競技や楽器の演奏に似たところがあって、しばらくやらないとすぐに鈍ってしまう。じっさい、いまもまだリハビリの途上という感じなのだが、先日、瀬田なつき監督の『違国日記』を見て、なにやらとても感慨深かったので、忘れないうちに少しメモしておきたい。
私はこれまで瀬田監督の映画については何度か文章を書いていて、その仕事にはつねに注目してきた。2010年に大阪でいち早く開催された特集上映のパンフレットでは『あとのまつり』について、2012年の『5 Windows』(再編集版)の劇場公開のさいには boid paper で同作品について書いている。私が考える瀬田作品の魅力についてはこれらの文章を参照して欲しいが、実験性と瑞々しさの希有な融合のもとで映画の表現を刷新していくような作品群(『彼方からの手紙』、『あとのまつり』、『5 Windows』など)に魅了されてきた。
だからこそ、なのだが、商業映画デビューを果たしてからの瀬田監督の長編作品の歩みには複雑な思いを抱いていた。自主制作だろうと商業映画であろうと、劇映画の制作がつねに集団作業であることは言うまでもないが、初めて商業映画の現場に入り、大勢のプロのスタッフたちに囲まれて作品を撮ることは、新人監督にとって、新しい身体を身に纏う(妙な表現だが)ようなものなのではないかと想像する。新しい身体はもちろんちゃんと機能するものの、最初からしっくりくることはむしろ稀で、手探りで自分の身体の大きさと挙動を確かめながら歩みを進めるようなものなのではないか。少なくとも瀬田監督の商業映画デビュー作となった『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(2011年)を見たとき、私は与えられた条件のなかで必死に格闘する監督の姿を感じ取ったのだった。原作はストーリーだけを見るとかなり突飛かつ猟奇的なライトノベルで、一本の映画の脚本にまとめるのは大変そうだったし、暗く陰惨な暴力場面は瀬田監督の持ち味ときわめて相性が悪く、そうした場面と他の場面ではまったく別の映画ようになっていた(暴力描写は黒沢監督をお手本にしたように思える)。ジャンプカット的なリズムを持つ編集や言葉遊び的な台詞の扱い、ヴォイスオーバーやカメラ目線を多用した遊戯的な語り口といった瀬田監督の「色」はもちろん「出せている」のだが、それが題材と調和しているようには必ずしも思えなかった。
その後、しばらく時間が経ち、『Parks パークス』(2017年)の話を聞いたときには、いよいよ瀬田監督の本領発揮か、とワクワクした。この映画は井の頭公園100周年を記念した企画で、BAUSシアターの社長が出資し、boid の樋口さんも制作に関わっていたから、前作よりもはるかに自由に作れるのではないかと思われた。じっさい完成した作品を見ても、とても魅力的な映画になっていて、瀬田監督の持ち味も存分に発揮されていた。にもかかわらず、私には「長編映画」としてどこかしっくりこない感じがしたのだった。ひとつひとつの場面はとても魅力的なのに、長編映画になくてはならない大きな「グルーヴ」というか、映画全体を突き動かす「うねり」のようなものが感じられなかったのである。いくつかの中短編映画的なシークエンスを急ごしらえの筋書きで結び合わせたような印象と言ったらよいだろうか。主演女優二人の存在感にもバラツキがあったように思う。
次の『ジオラマボーイ パノラマガール』(2020年)でも印象はあまり変わらなかった。原作のマンガは傑作だし、瀬田監督が撮ったら面白くなりそうな要素が満載のようにも思われて、じっさい魅力的な場面もいくつもあったのに、なぜか長編映画としてドライヴがかかりきらない感じがした。これはいったいどういうことなのだろうと思ったのを覚えている。いつもの通り、移り変わっていく東京周辺の風景は魅力的に切り取られていたし、主演の二人もチャーミングで、編集のリズムも台詞回しも軽やかなのに・・・。
2022年に瀬田監督はアマゾン・プライムで『HOMESTAY(ホームステイ)』を撮る。この作品を見たとき、正直、とても驚いた。というのも、ここではそれまでの瀬田監督作品に必ず見られた特徴的なスタイルがほぼ封印されていたからである。不規則なリズムを刻む編集や連想ゲーム的な台詞回しはすっかり姿を消し、ヴォイスオーバーも観客と戯れるような語り口の仕掛けとしてではなく、ごく素直に主人公の内面の声を表現する手段として用いられていた。的確なカット割りでひとつひとつの場面が丁寧に演出され、物語はストレートに語られていた。若い俳優が魅力的なのはいつものことだが、この映画の山田杏奈は『ジオラマボーイ パノラマガール』とは比較にならないほど輝いていた。要するに『HOMESTAY(ホームステイ)』は堂々たる商業映画で、幅広い観客にしっかり届く作品になっていたのである。と同時に、それは瀬田監督のキャリアのなかでもっとも匿名的な作品でもあった。
ここでようやく本題に入るが、『違国日記』を見たとき、私はこの作品が『HOMESTAY(ホームステイ)』と同様に堂々たる商業映画として成立しているだけでなく、初期作品から現在に至る瀬田作品の魅力をも見事に溶け込ませているのを発見し、心動かされた。そしてなによりもまず、この映画には長編映画にふさわしい大きなグルーヴがあった。『違国日記』は、同じ人物の妹であり娘であるという点以外、ほとんど共通点を持たない二人の人物が、同じ時間を共有することで少しずつ、しかし不可逆的な仕方で変わっていく様子を丁寧に描き出す。ひとつひとつの場面はささやかでありながらも、そこで生じた小さな変化が最後には大きな波となって、登場人物だけでなく、映画そのものをもドライヴさせるに至るのである。
映画の冒頭、新垣結衣と早瀬憇が最初に言葉を交わす場面では、二人は病院の廊下に置かれたベンチに並んで座っている。「母が死んで悲しいか」と尋ねる新垣とその直接的な問いかけに戸惑う早瀬の会話は、視線の軸を微妙に跨いだショット・リバースショットで示される。シンメトリックには交わらない二つの眼差しから、この映画はスタートする。次に二人が言葉を交わすのは、葬儀の後の親族の食事の場面である。このとき早瀬は親族たちのヒソヒソ話と居場所をなくした不安でパニックに陥るのだが、そんな早瀬に向かって新垣は「あなたの母親が大嫌いだった、だからあなたを愛せるかはわからない、それでもあなたを見捨てたりはしない」と断言する。このときカメラはまず二人の位置関係を観客に印象づける。二人は向き合って座っているのではなく、テーブルを挟んで斜めの位置関係にある。ところが、新垣が早瀬を見つめて語り始めるとき、二人の表情を映すショット・リバースショットは、二人の顔をクロースアップで真正面から画面中央に配置する。その結果、観客には、二人がまるで向き合って座っているかのように感じられることになる。しかし、観客はすでに二人が斜めの位置関係にいることを知っているので、この正面性を強調した切り返しは微妙な違和感を残すことになる。三回目に二人が言葉を交わすのは、早瀬が卒業式に行く朝の場面で、慌てて起き出した新垣が早瀬に言葉をかける。このときも二人を交互に示すショット・リバースショットはアンバランスであり、視線の軸を跨いだ位置にカメラが配置されている。映画はこうした演出によって二人の共同生活のぎこちない始まりを丁寧に描き出す。
二人の距離が少し縮まるのは、二人が両親の家で片づけをする場面である。ここでは二人が冷蔵庫にあったピクルスをめぐって会話する様子が長めのツーショットで示されていく。最初は嫌いであったものがいつか好きなものに変わっていくという会話の内容は、もちろんこの映画の主題を先取りしている。ところが会話が早瀬の母親(新垣の姉)の話題になると、二人の関係は急変することになる。新垣は私の感情は私だけのものであなたには理解できないし、それを変えることもできないと言い放ち、早瀬は母親を好きになって欲しいと迫る。このとき長めのショットで構成されていた場面のリズムは急変し、視線の軸を跨いだショット・リバースショットが再び現れる。二人のあいだの距離感の変化が、的確なショット構成と人物の動きによって演出されていくのである。ちなみに、同様の作業は、新垣と元恋人の瀬戸康史の一連の場面にも見られる。いずれにおいても、向き合っていた人物が最後には横に並ぶことになる。海岸に立つ新垣を早瀬が母親と間違えるところから始まる場面は、この映画のもっとも素晴らしい部分だと思うが、映画全体を通して差異とともに繰り返されてきた眼差しの交換と二つの身体の距離の変化を、再度、新たなヴァリエーションのもとで展開し、ひとつに結び合わせる。早瀬と並んで階段に腰かけた新垣は、姉への気持ちを変えたくないとつぶやく。このとき観客は、彼女の語る言葉が彼女の身体が示すものと食い違っており、彼女がすでに変化していることを感知する。とても映画的な瞬間である。この場面からバスの車内のショットを経てラストシーンまで、映画は大きなうねりとなって進んでいく。
先にこの映画には瀬田監督の初期作品の魅了が溶け込んでいると書いたが、それはたとえば、早瀬が新垣のいない部屋で「怪獣たちのバラード」を歌いながら動き回るシーンの編集のリズムや、早瀬が初めて作った歌詞を新垣に見せた後で、「エコー」という言葉から連想して歌詞を作ってみたらいいという新垣の提案を受けて単語を発話し、それが二人の連想ゲームに移行するところにみることができる。これらの細部はそれ自体で際立つことはもはやなく、場面の演出の一部にきれいに組み込まれている。同様に、新垣と夏帆が公園を散歩しているところに下校してきた早瀬が合流する場面では、最初は早瀬の学校でのエピソードについての相談であった会話が、いつの間にか歌を一緒に歌うことの楽しみへと横滑りしていく。同様の純粋な楽しさへの横滑りは体育館の場面にも見られるが、瀬田監督の初期作品にはおなじみのものだ。それがここでは映画の大きな流れのなかにしっかりと組み込まれているのである。
そういうわけで、『違国日記』を見ながら私は、ひょっとしたらこれは瀬田監督の映画の第二章の始まりなのではないかと思ったのだった。思い違いかもしれないけれど。