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〈新しい映画〉の速さについて
『あとのまつり』小論

『あとのまつり』は疾走する。瀬田なつきの映画はどれも「速い」が、『あとのまつり』の速度は格別だ。ホップ、ステップ、ジャンプ!の三段跳びなら私たちにも十分ついていける。しかし『あとのまつり』はホップ、ジャンプ!だ。だから私たちは置いてきぼりを食らう。そして、あっけにとられて、大慌てで映画の後ろ姿を追いかける。映画だけでなく、私たちもまた疾走するのだ。

疾走するといえば、『とどまるか、なくなるか』の主人公がそうだった。映画の冒頭、学校の冬服を着た少女が並木道を息を切らして走ってくる。ショットが変わる。すると少女はなぜか墓地のなかにいて、墓石の間を縫うように走っている。そして再びショットが変わり、住宅街の坂道でバッグからこぼれ落ちたテニスボールを少女が何とか取り押さえるとき、さっきまで明るかったはずの周囲はすっかり暗くなっている。その夜の家族の団欒に続く場面では、少女が再び走って登校する。しかし、そのとき彼女が身に着けているのは白い夏服だ。いつの間にか季節が変わっているのである。かすかに蝉の鳴声が聞こえる。その後も矢継ぎ早に、少女の兄が失踪し、父が転勤し、母は病に倒れる。瀬田作品に特有な〈速さ〉の一例がここにある。それは最初の作品にすでに表れていたのだが、まだ私たちを慌てさせるほどではなかった。

『あとのまつり』の格別な〈速さ〉は、映画表現の根幹に触れる場面に典型的に表れている。そしてそのことは、この作品が映画表現の可能性そのものに触れていることを意味している。では大急ぎで順番に見ていこう。

似姿を映し出すこと、あるいはイメージの不確かさ。映画の冒頭、少女がカメラに向かって語りかける。どうやら彼女は鏡に向かって話しているらしい。だが私たちは、こちらを見つめて語りかける少女のイメージが彼女自身なのか、それとも鏡に映った似姿なのか決めかねて、とまどってしまう。『あとのまつり』は最初から現実の似姿の不確実性のただなかに私たちを引きずり込むのだ。その後、少女は再び鏡の前に立ち自分の像に語りかける。この見事な切り返しショットのシークエンスで語るのは、もっぱら鏡に映った似姿のほうである。少女と彼女の似姿は「はじめまして!」と挨拶を交わす。私と私の似姿が他人同士になるということ。人々が記憶を失っていく世界、それは自己とその似姿との結びつきが失われていく世界だ。『あとのまつり』は映像の決定的な不確かさから、新しい風景を切り開いてみせる。

枠で囲むこと、あるいはフレーミング。鏡の場面のさらに前、映画の最初のショットではテーブルに置かれたモニターが示される。このフレームの二重化は、現在(2009年)と未来(2095年)、二つの時間を重ね合わせる。『彼方からの手紙』のマンションの場面を見ればわかる通り、瀬田作品のフレームは単に外に広がる世界を枠づけ切り取る窓ではない。それは「ここではないどこか」、「いまではないいつか」、すなわち瀬田なつきが「彼方」と名づける時空につながる境界面である。だからこそ、遠くを走り去るゆりかもめを見送った少年少女が互いの指を組み合わせて四角いフレームを作るとき、コンクリートの壁は不意にモニター画面に変容し、カメラとともに私たちもその中に入っていくのである。

走ること、あるいは運動。『あとのまつり』で最も印象的な場面のひとつは、少女と少年が横浜の遊歩道を疾走する場面だろう。最初はケータイをめぐる追いかけっこだったものが、いつの間にか走ることそれ自体の純然たる楽しさに変わり、さらにそれはそのままダンスシーンへと移行する。ここに描かれた疾走にも、瀬田作品特有の〈速さ〉が感じられる。たとえば、この場面を井口奈巳監督の『犬猫』にある主人公の疾走場面と比較してみよう。『犬猫』では疾走場面は長いワンシーン・ワンショットで撮影されており、主人公に伴走するカメラが主人公を追い抜いたり、後れを取ったりすることでかえってショットの持続感覚を強めている。それに対して、『あとのまつり』の疾走場面を特徴づけているのはショットの不連続性と現在の複数化だ。最初は赤いパーカーとショートパンツを着ていた少女の服装は、突然、緑のカーディガンとワンピースに変化する。そして二人がバンドの前で立ち止まりダンスを始めると、今度は軽快にステップを踏む二人のショットの合間に、いまだ疾走し続けている二人の映像が挿入されるのだ。つまり、ひとつだった時間の流れが途中で二つに分岐しているのである。しかもこれらのことがすべて信じがたい自然さで起こるので、私たちは呆気にとられて映像と音を追いかけることしかできない。

ショートサーキット、あるいはモンタージュ。これまで言及してきた場面からも明らかな通り、『あとのまつり』は編集の映画だ。瀬田作品の魅力は独特なリズムを持つ編集によって生み出される。冒頭で述べた「ホップ、ジャンプ」とは、このリズムのことを指している。〈ホップ〉と〈ジャンプ〉を〈ステップ〉なしに結びつけること。それを別の仕方で言い表すと、〈ここ〉と〈よそ〉を短絡させること、となる。瀬田作品における〈ここ〉と〈よそ〉とは、現在と未来(あるいは過去)であり、現実と空想であり、日常的所作とダンスであり、生と死、映像と音響、世界の片隅とその広大な広がり、〈いまここ〉と〈彼方〉であるだろう。これまで述べてきた瀬田作品の〈速さ〉の核心は、この短絡にある。そして『あとのまつり』で多用されるジャンプカットは、この〈速さ〉を実現する特権的な技法だ。二人の登場人物の特徴的な台詞回しも、ジャンプカット的だと言えるだろう。こうしてみると、『あとのまつり』がミュージカル映画に接近するのも、偶然ではないことがわかる。というのも、ミュージカル映画こそは、〈ここ=現実〉と〈よそ=夢〉の両極性とそれら両極間の移行に立脚した映画ジャンルだったのだから。だが古典的なミュージカル映画では、日常世界から歌とダンスの世界への移行は、かならず中間段階(鼻歌や楽器の演奏など)によって媒介されていた。それに対して、『あとのまつり』にはそのような移行段階が全くない。すべては唐突に始まるのだ。ホップ、ジャンプである。そして、作品後半、二人の背後で抽象的な映像が流れていくところでも、前景と背景は媒介なしに重ね合わせられる。

こうして『あとのまつり』は疾走する。この作品はじつに軽やかに映画表現(映像、フレーミング、運動、モンタージュ)の可能性を更新していく。その大部分が「間違ったつなぎ」からできているにもかかわらず、『あとのまつり』にはいささかの前衛性もなく、ひたすら楽しい映画としてそこにある。私たちはそのことにあらためて驚いてしまう。とにもかくにも、『あとのまつり』が切り開く映画の新たな風景を見てしまった私たちは、もはやそれを忘れることができない。もっと見たい!とジリジリしながら日々をやり過ごすしかないのだ。そう。「あとのまつり」なのである。

(初出: 映画祭パンフレット『Natsuki Seta Hours 2010.3.13-14』)

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