すでに5月。2月くらいからここまで猛烈に忙しい。頭はフルに使っているのでまったく退屈することはないけれども、映画について書く時間がなかなか取れない。とはいえ、あんまりなにもしないでいると批評の運動神経が鈍るので、三日前に見た三宅唱監督の作品について簡単に書いてみよう。
三宅監督が中学三年の時に作ったという『1999』のことである。この作品はかなり有名で、これまでも特集上映のときなどにちょくちょく上映されていた。しかしどういうわけかタイミングが合わず、ずっと見ることができずにいたのだった。今回ようやく出町座で見ることができて、ほんとうに恐ろしい作品だなと思った。
何が恐ろしいのかというと、中学生の三宅監督が最初から「被写体」ではなく「映像」を撮っているのが恐ろしいのである。言い換えれば、「映画とは映像である」という唯物論的な事実を完全に理解したうえで映画を作り始めているのである。中学生が「映画を撮ろう」と思い立つこと自体は、それほど珍しいことではないだろう。しかし、そのとき、ほとんどの中学生は「何を撮ろうか?」と思いながら「被写体」のことを考えるはずである。「面白い人物」の「面白い行動」を撮影しようとするはずだ。「面白い人物」が「面白い行動」をするのを撮影すれば、「映画も自動的に面白くなる」。そう素朴に信じているだろう。あるいは「美しい風景」を撮影すれば、自動的に映画も「美しくなる」と考えるかもしれない。ところがもちろん、面白い人物が面白い行動をしても映画は決して面白くならないし、美しい風景を撮影しても映画は決して美しくならない。なぜなら、映画とは映像であり、映像とは決して被写体とイコールで結ばれるものではないからである。映画を面白くするのは映像なのであって、被写体ではない。面白い映画を撮ることは、面白い人物や面白い行動を撮ることとは別の事柄である。映画は——結局のところ——映像として面白くなければならない(この「面白い」の内実はいまは問わないでおく)。劇映画やドキュメンタリーを撮っているプロの監督でも、この唯物論的な事実の過酷さを十分に理解していない人もいるのだから、もし『1999』が本当に処女短編なのだとしたら、空恐ろしいと言うしかない。
『1999』で私たちが見るのは、それ自体として見れば、とくに面白くもない行動である。中学生が校舎で追いかけっこをしているだけのことだ。被写体にも特に面白味はなく、個性的な「登場人物」が出てくるわけではない。映画が示す内容の水準で言えば、いかにも中学生らしい初々しさだ。写されているロケーションは平凡だし、何か超人的なアクションがあるわけでもない。にもかかわらず、この映画の追いかけっこは面白い。なぜなら周到に設計されたショットの連鎖によって、ごく平凡な中学生のふるまいが映画的な「アクション」に変貌しているからである。
この作品において、逃げる生徒と追いかける生徒のアクションは無造作に撮影されてはいない。彼らのアクションはつねにフレーミングとの関係において遂行されている。フレームの片側から入ってきた身体が斜めに画面を横切り反対側のフレームから出て行くとショットが切り替わる。そして次のショットでは、新たにフレームを横断する身体の運動が示される。このようなショットの連鎖のなかで、逃げる生徒と追いかける生徒の運動が継続していくが、そのとき現実の校舎にある階段や廊下の実際の距離は解体され、編集によって構築される映画空間に固有の隔たりに変換される。その結果、私たちは、たった三分間のうちに信じ難いほど多種多様な空間を踏破する身体を見いだすことになる。
逃げる生徒が教室に入ったり、廊下を曲がったりして画面から姿を消すことがある。そのとき追いかける生徒は同じルートを走らずに先回りしようとする。カメラはこの追いかける生徒の動きを追う。フレーム外で生起しているであろう運動を観客に想像させ、先ほど姿を消した身体が再び姿を表す瞬間を待望させる。なぜか廊下に寝そべっている人物がいたり、疾走する生徒の背後で廊下を横切る生徒がいたりする。ひとつの画面のなかで複数の異なる状態にある身体や異なる方向の動きが共存することで、画面が活気づく。後半生徒が窓の外に出る場面では、新しいの動きのリズムが現れ、ささやかではあるが高低差も導入される。
そして狭い部屋に入っていく人物をカメラが背後から追いかけ始めるとき、それまで私たちが見てきた被写体の運動、編集が作り出す運動に加えて、カメラの運動が現れることになる。映画における運動の三つの主要な次元(被写体の運動、カメラの運動、編集による視点の運動)が、ここで出揃うことになる。
こうしてざっと振り返るだけでもわかる通り、この映画は一見したところ初めて映画を撮ろうとした中学生の初々しい試みであるかに見えながら、実際には映画の画面を活気づかせる運動の組織化(映像による運動の構成)についての明晰な意識に貫かれており、極めて老成した表現なのである。若々しさと老成との共存。初期衝動と醒めた反省との渾然一体。これは私が初めて『Playback』を見たときに抱いた感想だが、それはすでに『1999』で実現していたことになる。
周知の通り、追跡劇は劇映画の歴史の最初の主題のひとつであり、モンタージュの誕生とも結びつけられるモチーフである。それだけでなく、『1999』を見る観客は、チャップリンやキートンの映画におなじみの追跡劇やアクション映画の数々の場面をも思い出すだろう。この作品はまったき処女性を擬装しながら、すでに豊かな映画史的記憶を孕んでいる。したがって、この点でもやはり若さと老成が同居していることになる。
若さと老成とが渾然一体となるとき、何が起こるのか。そのような事態は誕生から死へと向かうリニアな時間を混乱させずにはおかないはずだ。『やくたたず』や『Playback』にとりわけ顕著な三宅作品の不思議な時間の感覚はここに由来する。ここでもすでに『1999』は紛れもない三宅作品になっており、映画の終わりは始まりと繋がってしまうのだった。