ポン・ジュノ or ホン・サンス? – ポン・ジュノ and ホン・サンス!
『ドライブ・マイ・カー』&『偶然と想像』

ナンニ・モレッティの『親愛なる日記』にとても好きな場面がある。それは三部構成の第一部「ベスパに乗って」の一場面で、モレッティが交差点で信号待ちをしていると隣にオープンカーがやってきて停車する。この車とそれを運転している男を見たモレッティは、不意にベスパから降りて男に近づき、一方的にまくしたてる。「悲しいことだけど、いつの日か社会がまとまになったとしても、僕はやっぱり少数派なんだよ! 僕は人間を信じてる。だけど多数派は信じられないんだ! わかる?」ーおおよそこんな内容の独白を聞いた男性は「そうなんだ、がんばってね」という感じの相槌をうって走り去る。そういう場面である。別にマイノリティを気取っているわけではないし、大衆を軽蔑しているわけでもない。むしろ民衆を愛しているけれども、マジョリティであることにはどうしてもなじむことができないのだ。そうだとしたら、映画作家にできるのは人々(民衆)を代弁することでも代表することでもない。できるのは、ただ自分自身であり続けること、自分の身体から出発することだけであり、自分の身体から出発して世界を見つめ、人々との関係を考察することだけだ。この場面の直後にはモレッティが屋外のダンスパーティーに乱入する素晴らしい場面が続くのだが、そこにはモレッティと世界との関係のありようが見事に描き出されている。

 いま触れた場面でモレッティはオープンカーに乗った男に語りかけるが、両者のあいだにコミュニケーションはまるで成立していない。おそらくモレッティの映画が彼のような人々に届くことはないのだろう。こうした場面を見て、僕はそれでもコミュニケートすることをやめないモレッティの姿に感動するが、だからといって、オープンカーの男のような人々(マジョリティ)に、自分自身を裏切ることなく作品を届けることのできる監督を、いぶかしく思うわけではない。むしろ、そういう監督の仕事に触れると、ごく素直に「立派だなぁ」と思うのである。

 『寝ても覚めても』以後の濱口監督の作品は、僕にとってなによりもまず「立派だなぁ」という感想をもたらすものとしてある。『寝ても覚めても』は芥川賞作家の原作で、東出昌大というスターが主演しているだけでなく、それまでとは全然違う規模のバジェットで製作されており、それゆえにステークホルダーの数も多く、日本全国の多数の劇場で多くの観客に観てもらうことが(経済的に)必須の作品である。にもかかわらず、『寝ても覚めても』は、それまでの濱口監督の仕事を裏切っていない。裏切っていないだけでなく、それまでの映画作りの経験を商業映画のフォーマットのなかで活かすことで、幅広い観客に届く作品になっていた。なによりもそのことに驚いてしまった。それまでの濱口監督の作品を見てきてきた観客も、原作に惹かれて映画を見にきた観客も、東出さんや唐田さんのファンの人たちも、それぞれの仕方で作品にアクセスでき、それと対話できるようになっている。テーマ的にいっても、大阪のローカルなカラーもあり、東日本大震災というトピックもありで、恋愛以外の切り口がしっかり用意されている。とにかく幅広い観客に対して、いくつもの入口が用意されているのである。そしてそうした入口のひとつから入った観客は、ひょっとしたら、いつも観ている映画とはかなり肌触りの異なる映画を受け入れて、その魅力を発見することになるのかもしれない。だとすると、『寝ても覚めても』は日本の人々が映画について抱いている理解を押し広げるのに貢献していることになる。これはやっぱり「立派な」ことだ。

 それと公開当時に思ったのは、濱口監督がこのような仕方で「メジャーデビュー」できた背景には、東京芸大映像研究科や映画美学校の卒業生たちが商業映画制作の現場で各部門のチーフ的なポジションを務めるようになってきたことも関係しているのかもしれないということだった。『寝ても覚めても』は監督・脚本・撮影・編集のチーフが映像研究科のOBだったと思う。これはまったくの憶測にすぎないので、東京芸大映像研究科や映画美学校が日本の映画制作現場にもたらしつつある(かもしれない)インパクトについて、誰かが網羅的に調査してくれればと思う。

 『寝ても覚めても』は見事な日本の商業映画だったが、このあと濱口監督はどうするのだろうと考えたとき(余計なお世話だが)、ちょっとわからなかった。しかし、2019年にポン・ジュノの『パラサイト』がカンヌでパルム・ドールを獲り、翌年のアカデミー賞で(国際長編映画賞だけでなく)作品賞&監督賞を受賞したとき、なるほどこれからの東アジアの映画監督には2つのストラテジーがあるのかと思った。つまり、ポン・ジュノのやり方とホン・サンスのやり方である。

 ポン・ジュノの映画は、彼のこれまでの映画作りの延長線上にありながらも、見事にグローバルな観客に受け入れられる表現になっている。『パラサイト』はソウルが舞台で、台詞もすべて韓国語、韓国の俳優が出演して現在の韓国社会を描いているが、画作りやセットはそれなりにゴージャスで洗練されていて、メジャーなハリウッド映画やネットフリックスのシリーズを見慣れている観客にも受け入れやすくなっている。さらに「99%」や「オキュパイ運動」といった、グローバル資本主義がもたらす貧富の格差の拡大をめぐる同時代的言説を、きちっとケアしている。もちろん家族の絆という普遍的なテーマを扱い、しっかり観客を楽しませる見せ場もある。そういうわけで『パラサイト』は、映画作家としてのポン・ジュノの作品を見に行く映画ファンだけでなく、現代的な問題意識をもったインテリや、ただ面白い映画を見たいだけの観客にもしっかりアピールできる作品になっている。アメリカに行ってハリウッドスターを使って映画を作らなくても、十分にアカデミー賞の監督賞や作品賞を狙える作品を作り得るということを、ポン・ジュノは証明してみせた。一方、ホン・サンスのほうは、『緑の光線』の頃のエリック・ロメールのように少人数の撮影チームを仕立て、主題と形式をミニマルに変奏する(「形式をプレイする」by 赤坂太輔)コンセプチュアル&低予算の作品を次々に発表している。近年はひとりの主演女優(キム・ミニ)を軸にした作品が多いが、必ずしも俳優が固定されているわけではなく、作品の舞台も韓国とは限らない。こちらはもちろん『パラサイト』のような商業的成功とは無縁だが、ヨーロッパの国際映画祭のコンペティションの常連であり、批評的にはすっかり国際的評価を確立している(2020年、2021年と連続でベルリンで受賞)。

 そういうわけで、2021年に『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』が公開されることになったとき、個人的にはポン・ジュノとホン・サンスのどちらの路線になるのかなと思いながら両作品を見に行った。そして実際にスクリーンで2つの作品を見て驚いてしまった。ポン・ジュノとホン・サンスを同時並行でやるということだったからである。『寝ても覚めても』が日本の観客にきっちりと照準を合わせた作品だったのに対して、『ドライブ・マイ・カー』は、『パラサイト』と同様に、グローバルな観客をターゲットにした作りになっていた。原作は村上春樹で、チェーホフ、ベケットが参照され、東京だけでなく広島がロケーションに選ばれている。さらに、見事に練り上げられた脚本は、グローバル化、ダイバーシティ、ジェンダー、ディスアビリティ、インクルージョン、トラウマといった現代の知的主題を見事に消化してドラマに織り込んでいる。日本を舞台にした日本の社会を描いた物語でありながら、世界各地の幅広い観客層に呼びかける入口が多数用意されているのだ。作品評はすでにたくさん書かれているので差し控えるが、一番驚いたのは、家福(西島秀俊)とみさき(三浦透子)の雪山の場面における西島秀俊の演技で、「あ、ちゃんと全部言っちゃうんだ」と衝撃を受けた。ここはもちろんこの映画の重要な場面で、この場面がちゃんと伝わるかどうかで観客の映画に対する印象が決定されてしまいかない部分なのだが、どれほどぼんやりとスクリーンを見つめている観客でもキチンと感動できるよう撮られていた(しかも注意深い観客もひどく興醒めしないようになっている)。すべて言葉にしているので(字幕によって)確実に外国の観客にも伝わるだろう。この場面を見てあらためて「立派だなぁ」と思ってしまった。家に帰って、いつもながら微に入り細に入る吉野さんのインタビューを読んでみると、濱口監督自身が、こここそがこの映画の肝で、この物語が「誰にでも届く」かどうか、作品が「商業映画」として成立するかどうかを決する箇所だと思っていたと述べていて、監督の勝負師としての感覚の確かさに感服した。この映画では、ひとつの台詞、ひとつの眼差し、ひとつのカットも無駄遣いされていない。大胆なショット(の繋ぎ)があっても、それが物語を脱臼させることは決してない。すべてはきっちり動機づけの連鎖に収まっている(だから3時間の上映時間が必要だったとも言える)。そういうわけで、独特の演技メソッドや外国語が飛び交う対話劇など実験的な仕掛けには事欠かないにもかかわらず、普段ならこうした映画を見ないような日本や外国の観客たちまでもが作品の魅力に引き込まれ、感動してしまう。『ドライブ・マイ・カー』を見ながら、濱口監督は数年後にはアカデミー賞の監督賞や作品賞(国際長編映画賞ではなく)を獲ってしまうかもしれないなと思った。

 もうひとつどうでもいいような細部で驚いたことをメモしておこう。たぶん誰も触れないと思うので。『ドライブ・マイ・カー』で最も驚いたことのひとつは、キスの場面で使われているフォーリーサウンドである。この映画の前半にはベッドシーンが結構あるが、ベッドシーンでない場面でも、家福と音(霧島れいか)がキスをするところがいくつかある。そのときに必ず「クチュッ」というとてもエロチックな効果音が使われているのである。『寝ても覚めても』にもわりと濃厚なキスシーンはあったが、このような音作りはされていなかった。これは濱口作品としては異例だが、メジャーなハリウッド作品を見慣れた世界中の観客にとってはむしろ自然な音作りだろう。ここにも濱口監督が今回の作品をどのような観客たちに届かせようとしているのかが表れていると思う。

 『偶然と想像』のほうは、少人数のスタッフで撮られたコンセプチュアルな構成の短編集だが、3部構成はホン・サンスの映画によくみられる形式だ(最近では『逃げた女』も3部構成だった)。すでに見事な分析で指摘されている通り、ここで私たちが見るのは二人の人物の対話をどのように示すのかというミニマルな「形式のプレイ」である。「ああ、こっちはホン・サンス路線か」と思って見ていたら、本当にズームが用いられたのでびっくりしてしまった。それにしても、この映画の俳優たちは楽しそうだ。個人的には、この映画の対話はあまりにも語彙や言い回しが豊かで、見事に書かれた戯曲のテクストを聞いているような心地よさはあるものの、ときおり too much な感じもした。『ハッピーアワー』のときに俳優の身体が受け入れない台詞は言わせられないという話を監督はしていたが、プロの俳優たちの身体はそれだけ強く豊かな言葉を受け入れられるということなのだろう。濱口監督の演技メソッドは『ドライブ・マイ・カー』よりも『偶然と想像』にずっと強く表れている。ここにも濱口監督の巧みなバランス感覚がよく示されている。この映画の観客は、『ドライブ・マイ・カー』の観客層ほど幅広くない。濱口竜介という作家の映画を見にくる人たちがメインの観客だ。なので少し敷居を高くしても問題ない。しかし、『ドライブ・マイ・カー』を見た観客は『偶然と想像』も見てみようと思うかもしれない。『パラサイト』を見て面白いと思った観客が『逃げた女』を見ることはないだろうし、見ても面白いと思う可能性は低いだろう。一方、『ドライブ・マイ・カー』を見て感動した観客が『偶然と想像』も面白いと思う可能性はかなり高そうだ。濱口監督は2本の作品を通して、多くの観客が感じる映画の楽しみの幅(許容域)を押し広げてしまうのかもしれない。

 濱口監督は、最近、商業映画の制作の方法を変えていくことの重要性についてしばしば発言している。もちろん、映画はビジネスなので、作品が興行的に成功しなければ、いくら批評的に成功しても、現場の制作方法を変えていくことはできない。その意味でも、『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』という2本のまったく異なる映画を批評的・興行的に成功させてしまう濱口監督は「立派だなぁ」というしかないのである。

【2022/01/28 追記】
The Hollywood Reporter の記事によれば、『パラサイト』がアカデミー賞作品賞を受賞した背景には、2016年以降に進んだアカデミー会員の多様化と、それに伴う外国に拠点を持つ会員数の増加(2021年には全会員の25%に及ぶという)があるという。さらに今年からはDVDなどのハードコピーを会員に送り付けることが禁止され、アカデミー会員専用のストリーミングサイトが開設されたという。それによって会員が外国作品や小規模作品を見る機会がさらに増大した。その結果、アカデミー賞はハリウッドの映画業界が身内に付与する賞という性格を急速に変えており、業界人には予測が難しくなっているという。『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞以外の部門にノミネートされる可能性が高まっていると言えるだろう。さすがに作品賞や監督賞の受賞は「まだ」ないと思うけれども。
Why the Oscars Have Become Harder Than Ever to Predict.

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