睡眠と覚醒の間に広がる中間領域、たとえば、眠りに落ちる寸前や目が醒める直前のまどろみは、誰もが身をもって知っているように、じつはまどろみなどではない。それは知覚が異常に鋭敏になり、通常は感知されない物音やイメージが生々しく迫ってくる瞬間である。たとえば、そのときひとは、みずからの血液の流れる音や心臓の鼓動、内臓器官の動きを鋭敏に知覚することになる。『名前のない森』は、そうした経験が生じる時間の持続から構成されている(これはまた Dowserの見事な音響に負うところも多い)。この特異な経験の場において、ひとは外界の刺激から身を振りほどき、みずからの内に退くのだが、そうすることで社会的に構成された自我からも解放される。固有名を消し去ることは、そうした知覚の鋭敏化とみずからの内奥への退避に結びついており、だからこそ、「本当の自分を探すために」山荘を訪れる若者たちは、固有名を放棄し、一見自己の固有性の対極にあるかに見える番号でお互いを呼び合うことになる。
固有名は周知のとおり、社会的である。だれも自分の名前をみずから決めることはできない。気がついたときには、すでに他人によって勝手に名づけられているのだ。固有名とはそんな不当な他者の所業なのだから、あとから自分に別の名前を与えようとする者がいるのも、不思議ではない。しかし、たとえ自分で決めた名前であっても、決して他者との葛藤なしにすむものではない。この映画の冒頭の場面が示しているように、他人がその名前を受け入れない(たんに覚えられない)可能性がつねに存在するのである(濱マイクは本名で活動する探偵であるという設定だが、それが親から与えられた名前であるのかは定かでない)。しかし、他方ではまた、そうした他者との名前を介した結びつきは、救いにもなりうる。睡眠と覚醒の間の中間地帯に人間を位置づける装置のようなこの映画の山荘で、マイクが「先生」に詰め寄り、「何者なんだ、お前は!」と問い質すとき、「先生」は逆に「あなたは誰なの?」と問い返す。マイクはその問いに答えることができないのだが、そんな彼の窮地を救うのは、山本金融の「マイク! マイク!」という呼び声である。「私(マイク)とは何者か?」という問いは、他者による「呼びかけ」という出来事においてのみ答えられうるのである。
「自分を見いだすために」固有名を消し去ること、それは危険な誘惑である。そのときひとは、上述の覚醒と睡眠の間の中間領域に身を置くことになるのだが、その領域を越えて完全に自己の内へと沈み込み、もはや戻れなくなる可能性がつねに存在する。「本当の自分」に到達したと信じるそのとき、ひとはもはや空虚しか見出すことができない。それがあの山荘の人間たちの精神状態だ(そして、名前を失った者は、それと同時に他者との ––– 最初の、そしておそらくは最後の ––– 絆をも失ったのだから、彼らが自殺や他者の殺戮に駆られるのも無理はない)。このことはまた、フレームから消えた人物を追うかに見せかけながら、くりかえし空虚な空間の提示に終わる山荘内のシーンで多用されるカメラワークによっても示されている。
ちなみに「先生」はそれらのことすべてを知っている。彼女はマイクに「森の中にあなたに似た木がある」と言い、彼をみずから案内するのだが、遅れるマイクを待とうともしない。なぜなら、彼女は知っているからである。マイクは自分の欲望にしたがって木を探しているのであって、彼女が誘ったからついて来たわけでないことを。そして、マイクがついにその木の前に立つとき、「先生」の言うとおり、彼は自分の欲望をそこに見る。彼が(無意識に)見たいと思っていたものを。そして、これもまた「先生」の予言どおり、マイクは依頼を果たした後で、いまや無人の「山荘」に舞い戻る。そこで彼は、「先生」が座っていた椅子に腰掛け、「自分の欲望」を笑うのだが、この笑いはマイクにとって最終的な答えなのだろうか? それとも彼は、いつかまた「先生」の「方法」の危険な誘惑に屈することになるのだろうか? 『名前のない森』は、この問いを開かれたままにしているようにみえる。確かにそれに答えることは、このフィルムにとって最も重要な事柄ではない(いずれにせよ、マイク自身、その問いに答えることができないのだ)。それよりもはるかに重要なのは、この固有名を失うという経験 –––「本当の自分」の探求 ––– の危険な「誘惑」と、その誘惑に屈することの「不快感」を、できるかぎり精密に測定することであり、例の中間領域を映画的知覚の対象として見いだすことだったろう。
(初出:「第52回ベルリン映画祭報告」、boid.net、2002年)