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映画が姿をあらわすとき
『FUGAKU』シリーズのためのいくつかの補助線

 青山真治監督が多摩美術大学で教鞭を執っていたときに学生たちと制作したした『FUGAKU』シリーズが、ストリーミングサイト GHOST STREAM で配信されることになりました。配信開始に合わせて、3つの中編からなるこのシリーズのユニークな魅力について、いくつかの切り口から考察しました。監督のインタビューともども、作品鑑賞と合わせてご一読いただければ幸いです。

 青山監督は『ユリイカ』をはじめとする長編映画の監督として知られていますが、じつはすぐれた短編・中編の作り手でもあります。『路地へ 中上健次の残したフィルム』、『軒下のならず者みたいに』、『秋聲旅日記』など、2000年代前半に撮られた一連の中編作品は、私の大好きな青山作品です。実験性、軽やかさ、そして敏感さが独特の仕方でブレンドされた短編・中編作品の魅力は、今回ストリーミング公開される『FUGAKU 』シリーズにもぎっしり詰まっています。ぜひご覧ください。

 なお私の文章は boid マガジンでも公開されています。

 また青山監督の日記文学とも言える著作『宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016‒2020』を boid のサイトで注文すると、『FUGAKU 』シリーズを無料で視聴できる特典が付いてくるようです。こちらも是非!


映画が姿をあらわすとき
『FUGAKU』シリーズのためのいくつかの補助線

海老根剛

 『FUGAKU』と題された3つの映像作品からなるシリーズは、その不思議な感触で私たちを魅了する。多摩美術大学の演習の一環として撮られたこれらの作品は、商業映画の制作環境とはまったく異なる条件のもと、ずっと慎ましい予算で、学生たちを主要なスタッフとして作られている。それゆえに、と即断することは避けるべきなのだが、『FUGAKU』シリーズには、それらが「映画」であり「作品」であることを自明視させない危うさがある。このシリーズの独特の魅力は、そんな危ういたたずまいと不可分の関係にある。

 『FUGAKU』シリーズの「映画」としての危うさ。それはもちろん作り手であるスタッフの経験の浅さからくる心許なさではないし、商業映画の制作を支えるインフラ(スタッフ、機材、スタジオ etc.)を欠いていることから生じる消極的な不安定性でもない。そうではなく、それは商業的な枠組みで作られる映画を支えると同時に拘束してもいるインフラの不在を逆手にとって、必要最小限の要素から「映画」が立ち上がる瞬間を見とどけようとする実験性に由来する積極的な危うさである。シリーズ第1作の『犬小屋のゾンビ』には、とても印象的なトラッキングショットがある。そこでは歩道を歩く2人の男の背後に広がる森の木々のあいだから、カラフルな衣装をまとった女性たちが不意にあらわれる。まさしく彼女たちのように、『FUGAKU』シリーズでは、「映画」がぎこちない足どりで(しかし力強く)不意に姿をあらわす。その瞬間を目撃することのスリル。そこにこそ、このシリーズを見る楽しみがある。
 「作品」としての危うさについて言えば、『FUGAKU』シリーズは作品としての輪郭がきわめて曖昧である点に特徴がある。私たちが見るのは、現実から鋭く一線を画し、内的な首尾一貫性を備えて屹立する「作品」ではない。それはむしろスクリーンの外部に広がる現実と切り離しがたく結びついた何かである。すなわち、撮影前、撮影中、撮影後を通じて監督が学生たちとともに生きたであろう時間の厚みが、スクリーンの内部にまで浸潤しており、その気配を私たちに感じさせずにはおかないのである。言い換えれば、『FUGAKU』シリーズは、それぞれのパートを別個に見ることのできる作品集であると同時に、全体として、ひとりの映画作家と学生たちとの出会いの記録でもある。この側面がもっとも濃密にあらわれているのはシリーズ第3作の『さらば愛しの eien』だが、それはすでに『犬小屋のゾンビ』にも十分に感じとることができる。たとえば、この作品には、さしたる理由もなくあらわれては人びとの周囲を走り回り、なにやら謎めいた言葉を吐いて姿を消す一輪車に乗った女性が登場する。彼女は間違いなく、このシリーズ全体でもっとも愉快な存在であるが、その出自は監督の脳裏にではなく、共有された時間のうちにあったはずだ。

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