コンテンツへスキップ

最高にかっこいい映画監督

青山真治監督が亡くなった。私は監督に近い人からなんとなく状況を聞いていたので、心の準備をしながら最近の日々を過ごしていた。もしなにも知らずに訃報に触れていたならば、ほんとうに打ちのめされるようなショックを受けただろうと思う。もちろん喪失感は大きい。監督が boid マガジンに連載していた日記を少しでも読めば誰にでもわかるように、現在の日本における最大級の映画的知性が失われてしまったのだから。最近の日記ではとりわけケリー・ライカールトについて綴られた言葉に深く揺さぶられた。そこで監督は「ナイター」という言葉の出自から語り始め、映画において「夜」というものが、映画の経済的桎梏を顕にすると同時に俳優の身体にダメージを強いるものであったことを指摘する。そのうえで監督はライカールトの10年間の沈黙について語り始める。その10年の沈黙を経て撮られた『オールド・ジョイ』には、ルーシーという犬の参加によって生じた映画話法の決定的な変容が見いだせると監督は書く。さらに監督はこの指摘を糸口にして、1990年代以降のアメリカ映画に底流するオルタナティブな「ナイターの感覚」の系譜を作品名を列挙しながら浮き上がらせてみせる。こうした思考に触れることがもはやかなわないということ。そしてその思考から生まれる新作に立ち会うことがもはや起こりえないということ。その喪失の巨大さたるや。

 いま述べたライカールトについての一節が私の心を揺さぶったのは、青山監督が語る「ライカールトの沈黙の10年間」に監督自身が強いられた沈黙の時間を重ねずにはいられなかったからでもある。青山監督のフィルモグラフィを振り返ると、2つの長い沈黙の期間が存在したことに気がつく。ひとつは『サッド ヴァケイション』(2007年)から『東京公園』(2011年)までであり、もうひとつは『共喰い』(2013年)から『空に住む』(2020年)までである。加えて言えば、『サッド ヴァケイション』を最後にオリジナル脚本の長編映画を撮ることはついにかなわなかった。私は業界人ではないので、『サッド ヴァケイション』と『共喰い』という「商業映画」としてもじゅうぶんに成立していた作品の後で、どうしてあれほど長い沈黙を強いられたのかまるで理解できなかった。もちろんそのあいだに監督は小説を書き、舞台の演出を手がけていたけれども、長編映画の不在は巨大な空白として監督に重くのしかかっていたのではないかと想像する。あれほど優れた監督にオリジナル脚本の長編映画を撮ることを許さなかった日本の映画業界に対して、私は憤りに近い感情を抱かざるを得ない。

 私が『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』で最初にした仕事のひとつは Dowser の長嶌寛幸さんへのインタビュー(1998年)で、その中で「今後一緒に仕事をしてみたい監督はいるか」という私の質問に長嶌さんは「日本なら青山真治」と即答した。私は「近い未来に長嶌寛幸の音楽が世界と向かい合う映画作家たちの映像と遭遇することを待望しよう」という言葉でインタビュー記事を締めくくっているが、その翌年、青山監督は『カオスの縁』ではじめて長嶌さんと仕事をすることになる。

 青山作品における Dowser の仕事について書いた文章(2007年)でも述べたことだが、私の青山作品との最初の出会いは、『Helpless』の冒頭、病院の入り口にバイクで乗りつけた浅野忠信が、病院を立ち去るさいに、自動ドアを通り抜けながらヘルメットをドアにぶつけて立てた「ゴォン」という鈍い響きの衝撃とともにある。あの瞬間にものすごい映画を撮る監督が現れたと直感した。その後『ユリイカ』の公開前に、監督に4万字超えのロングインタビュー(2000年5月)を行った。五反田のIMAGICAで初号試写を見て衝撃を受け、監督に申し込んだのだった。あの初号試写の日、上映が終わり試写室が明るくなったときの雰囲気を忘れることができない。そこにいた誰もが「何かものすごいものを見てしまった」と感じているのが手に取るようにわかった。

 このインタビューの背景として触れておきたいのは、じつは『ユリイカ』が公開されるまで、青山監督は知名度こそそれなりに高かったものの、批評やインタビューの対象になることの少ない監督だったということである。監督自身が優れた批評の書き手であり、しばしば現代思想の言説などに言及しながら自作を語っていたこともあって、難しいことを言う、ややとっつきにくい監督として距離をもって遇されていたようなところがあった。それゆえ私はこの機会を利用して、それまでの監督の諸作品について、こちらからも率直に疑問をぶつけながらじっくり語ってもらおうと思ったのだった。当時の私はまだ博士課程の院生でいまから思うと怖い物知らずでもあって、監督の言葉をありがたく伺うようなインタビューではなく私の方からも意見を言わせてもらう形にしたいと思いますと伝えたのだが、監督は快諾して長時間のインタビューに応じてくれた(場所はかつて映画美学校が入っていた京橋の片倉ビルの一室だった)。年が明けて2001年1月に『ユリイカ』が劇場公開されると、当然のことだが大きな話題作となり、監督もすっかりメジャーな存在になって、作品評や対談やインタビューが頻繁に各種のメディアに掲載されることになった。状況が劇的に変わったのであり、わざわざ私が苦手なインタビューをする必要はなくなった。ちなみにこのインタビューの抜粋が掲載された『カイエ・デュ・シネマ』31号(2001年1月)は満を持しての青山真治特集で、私は『EM EMBALMING』の作品評を寄稿した。

 2002年にベルリンに留学中だった私は boid にベルリン映画祭報告を執筆したが、その年にはちょうど青山監督の『名前のない森』がフォーラム部門に出品されていた。私はそれを見てすぐに短い批評を書いたが、その後、boid のサイトは移転し記事も読めなくなってしまった。2018年に京都みなみ会館でこの作品の上映が決まったとき、私が Twitter で行方不明の批評文のことに触れたら、青山監督がその文章を覚えてくれていて、ぜひ発掘して再公開するようにと伝えてきてくれたのは嬉しかった。そして今年の2月、監督が多摩美術大学で教えていたときに作った『FUGAKU』シリーズがストリーミング公開されるのに合わせて紹介的批評文を寄せたのが、監督存命中の最後の文章になってしまった。この文章は普段私が批評を書くやり方とはまったく異なる仕方で書かれていて、作品評というよりも、映画の仕事をする監督自身の生きざまにフォーカスしていたように思う。

 私にとって青山監督は最高にかっこいい監督だった。それは最高にかっこいい画を撮れる監督ということである。『FUGAKU』第一部『犬小屋のゾンビ』の冒頭で、車が走り出し、音楽が流れ始めるのと同時に、バンの後部に積まれた撮影機材が揺れる映像に ZOMBIE UNDER KENNEL という字幕が出るあたりのかっこよさ。『AA』第一部の冒頭で灰野敬二さんがアコースティック・ギターのソロ演奏を披露するときの長回しのかっこよさ。他の同時代の日本の監督の作品ではちょっと見られないような、突き抜けたスケール感のあるショットが大好きだった。また青山監督は、ほとんど誰も気にとめることのないような、人生に行きづまってしまったような、一見して惨めな存在に深い慈愛の眼差しを注ぐ監督でもあったと思う。『秋聲旅日記』のとよた真帆さん、『軒下のならず者みたいに』の斉藤陽一郎さん、『共喰い』の田中裕子さんを思い出す。私はこれからも監督の作品や言葉と対話しながら、映画を見続けるだろう。

Related Posts