Ou bien ? アラン・レネのための10章

1.

アラン・レネの新作『恋するシャンソン』は、素晴らしいタイミングでの私たちもとに到来したといえるだろう。アルノー・デプレシャンやパスカル・フェランに代表されるのフランスの若手監督たちのフィルムを見ながら、私たちはアラン・レネのことを考え、彼のフィルムを見たいと思い、新作を待望していたのではないだろうか? デプレシャンの『そして私は恋をする』やフェランの『死者とのちょっとした取引』のような作品には、フィルムとフィルムがそこで生み出されまた語りもする世界との関係を新たに定義しなおすためのヒントを、彼らがレネの作品群のなかに見出していることをはっきりと感じとることができる。そして彼らのフィルムとともに、私たちの映画をめぐる思考もまた、ほとんど必然的にレネのフィルムの方へと導かれていく。つまり、これまで十分に思考され実践的に活用されてきたとは言い難いレネのフィルムが、いまやみずからの潜勢力を映画を撮る者とそれを見る者に対して同時に行使し始めているのである。

レネのフィルムはつねに彼自身の ––– そしてまた私たちの ––– 生きている世界について語り、同時にそのような世界と映画との関係を考察し、更新し続けてきた。このことはなにも『夜と霧』(アウシュヴィッツ)、『二十四時間の情事』(ヒロシマ)や『ミュリエル』(ブーローニュ)––– この三本のフィルムは映画が探求する出来事への三つの異なるアプローチを提示している ––– のような作品にだけ当てはまるのではない。それはサイエンス・フィクションとみなすことができる『アメリカの伯父さん』や最も人工的で反現実主義的にみえる『スモーキング/ノー・スモーキング』にすら ––– いやこれらのフィルムにこそ –––、当てはまる。アラン・レネのフィルムを見るということは、映画が世界と取り結びうる関係の多様性を学ぶということでもあるのだ。

2.

たとえば『恋するシャンソン』は、シャンソンをめぐる(集団的)記憶の独創的なアサンブラージュを作り上げる。オディール(サビーネ・アゼマ)が購入するマンションの広場にあるあの白い円盤がいくつも不均衡に重なり合ったオブジェは、いくつものシャンソンが不連続的に重なり合ってできているこの作品の隠喩でもある。だが、そのアサンブラージュを支えているもの、つまり、このフィルムにおいてそれらの記憶の断片(シャンソン)をつなぎ合わせているものは、ノスタルジーではない。レネのフィルムは、「昔は誰もが知っていて自然に口ずさんでしまうヒット曲があったものだ…」というような追憶とは正反対のものを探求しているのである。

このことを確認するためには、具体的にこのフィルムでシャンソンがどのように扱われているのかを考察するのが一番だ。もし俳優たちが昔のシャンソンのヒットナンバーを思い出し、彼ら自身の声でそれらを口ずさむなら、フィルムは完全にノスタルジックなものになっていただろう。それに対して、このフィルムでレネが選んだ方法は、登場人物たちは誰一人として ––– 自分の歌にあわせて口を動かすジェーン・バーキンですら ––– それらのシャンソンを思い出してはいないし、口ずさんでもいないのだということを強調する。サウンドトラックの声と俳優たちの身体は完全に分離される。レネは歌声の異質性を全く均質化しようとはせずに、それらの肌理 ––– すなわち音源・音質の多様性 ––– をそのまま残している。それによって、それらの歌は他者の声であり続ける。歌が意味するのは登場人物たちが心の中で思っていることであるはずなのに、その内面の声が他者の声に占拠されているのである。断片的で、会話の間に突然侵入してきてそれまでの会話の雰囲気を破壊してしまうシャンソンと、それにあわせて口パクする人物の年齢や性別との一致もまた、周到に排除されている。つまり、しばしば男優が女性歌手の声を与えられ、女優が男性の声にあわせて口を動かすだけではなく、若い男女が彼らの知らないだろう古い歌を「歌わされ」、クロード(ピエール・アルディッティ)やシモン(アンドレ・デュソリエ)が、彼らが好んで聴いたことなど決してないだろうと思える比較的新しい若者の歌を「歌わされる」のだ。クロードが病気のせいで意気消沈しているカミーユ(アニエス・ジャウイ)を慰めながら、突然「それが君なのさ」と「歌い出す」シーンのおかしさは、そのような歌声と人物との徹底した分離の効果である。レネはインタヴューで俳優たちが有名歌手の物まねをしていないか注意したと語っているが、その理由はもし物まねをしていたら彼らがそれらの歌手を思い出しながら歌っていることになってしまうからだろう。

つまりレネはこのフィルムで使用される過去のシャンソンを「思い出」として扱うことを拒否しているのである。だから私たちは、このフィルムが私たちに、それらのシャンソンについての知識やそれらをかつて聴いたことがあるという経験を要求していると考えるべきではない。レネのフィルムの大胆さは、過去のシャンソンの諸断片をそれらが本来位置していた場所 ––– それらのシャンソンの歴史性やそれらを歌っていた歌手の身体 ––– から切断し、それらにとって異質な身体へと移植し、ときにはそれらが本来持っていた意味をも削ぎ落としながら、あらゆる集団的かつ個人的な「思い出」のパセティックな重みを消去することではじめて可能になるような「記憶」の編成を試みている点にこそある。過去のシャンソン(歌声)と現在の俳優の身体とをモンタージュすることによって、それらのシャンソンの「来るべき記憶」とでも呼べるものを創造することが、このフィルムでのレネの試みなのである。それらの新たな記憶の担い手は、『恋するシャンソン』を見ることになるすべての人々(on)である。このフィルムの原題(On connait la chanson 人はその歌を知っている)に含まれる不定代名詞の on (人)は、ここで使われるシャンソンをすでに知っていてフィルムを見ながらそれらを思い出すことができる人のことではなく、それらのシャンソンを思い出すことのないすべての人のことを指しているのである。だから、このフィルムのラストシーンで「この歌知ってる?」と尋ねられるとき、本当ははじめて聴く歌だったとしても、私たちはなんの躊躇いもなく「知ってる!」と答えてしまって構わないのである。

3.

『恋するシャンソン』におけるレネの試みは、一方において、『お家に帰りたい』を想起させる。『お家に帰りたい』では、来るべき記憶の問いは「故郷」(home)とはどのような場所なのかという問いへと変換されている。すでに全盛期を過ぎた漫画家(アドルフ・グリーン)にとって、故郷とは、彼がそこで生まれたにもかかわらず誰もが彼の漫画のことなど忘れ去っているクリーヴランドなのだろうか、それとも、彼の漫画の思い出を豊富に持っているフランス人の大学教授(ジェラール・ドパルデュー)の住むパリなのだろうか? むしろ、彼の漫画の記憶などいまだかつて持ったことのない ––– したがって彼の漫画を決して思い出すことのない ––– フランスの田舎の人々や子供たちの暮らす場所、つまり彼の漫画の記憶を新たに作り上げることができる場所なのではないだろうか?

しかし『恋するシャンソン』はまた、私たちを『夜と霧』と『二十四時間の情事』にも送り返す。というのも、これらの二本のフィルムにおいてレネが試みたことは、ある意味で、『恋するシャンソン』の試みと同じであるともいえるからである。アウシュヴィッツを、ヒロシマを記憶すること、しかし、それらを決して思い出さないこと。だが、アウシュヴィッツやヒロシマを経験していない者に、それらの記憶を持つことなど可能なのだろうか? むしろ手に入るのは、それらを過ぎ去った出来事として扱う思い出だけなのではないだろうか? 新たな、来るべき記憶としてフィルムを創造することは可能なのだろうか? これらの問いが、強制収容所の廃墟の前で、あるいは夏のヒロシマの広場の前で、レネのフィルムを導いていた。

4.

『夜と霧』と『二十四時間の情事』において重要なのは、レネがつねにそれらのカタストロフに遅れていることであり、現在の私たちと同様、第三者としてしかそれらの出来事を語ることができない場所にいたことだろう。レネは一九五五年にアウシュヴィッツ収容所を、一九五九年にヒロシマを訪れている。どちらの場所でも、すでに出来事が起こってから十年以上の時間が経過している。そこでレネに可能なことはいえば、出来事を記録することではなく回想することであり、映像と音声を編集することである。『夜と霧』では、緑色の草が辺り一面を覆いつくしている収容所の廃墟をゆっくりとトラヴェリングしていくカメラの権能を、ジャン・ケロールのナレーションが繰り返し問いただす(「映像はここで起こったことを見せることができるのか?」)。だが他方では、いくつかの耐え難い映像を前にしてケロールが言葉を失い、ナレーションの沈黙のなかで映像だけが展開する。このようにして、レネとケロールは映像とナレーションとの関係に変容をもたらしたのであり、映画はアウシュヴィッツが過去の思い出となることに抵抗する記憶装置となったのである。『二十四時間の情事』においても、主人公の男女はヒロシマを経験してはいない。彼らはただ知識としてヒロシマの出来事を知っているだけである。だが、このフィルムは忘却の物語である ––– エマニュエル・リヴァは自分のヌヴェールでの体験を思い出して岡田英次に語る ––– と同時に、彼ら二人のために新たな記憶を作り出す可能性の物語でもある。そして、この物語はヒロシマで展開しなければならなかった。というのも、ヌヴェールでの出来事をめぐる忘却の物語を通して思考されているのは、リヴァがさまよい歩くヒロシマの出来事の記憶を私たちが持ちうる可能性だからである。彼女が夜、人気のないヒロシマの繁華街をさまよう一連のシークエンスにおいて、ゆっくりとしたトラヴェリングの中で、ヌヴェールの過去とヒロシマの現在の映像が交錯する。トラヴェリングとフラッシュバックとナレーションというレネの前期のフィルム群 ––– 前期とは、その根拠は後述するが『プロビデンス』までである ––– を特徴づける三つの技法が緊密な一体性をなしているこれらのシークエンスにおいて、過去のイマージュはもはや現在の行動のために役立てられる思い出であることをやめ、現在を脅かす力を獲得したのである。

5.

ドキュメンタリー映画の枠組みの中にある『夜と霧』は別にするとしても、レネの最初の劇映画である『二十四時間の情事』と『お家に帰りたい』や『恋するシャンソン』との間には、それでもなお大きな差異が存在する。その差異はレネの前期のフィルムと後期のフィルムとの差異なのだが、それら二つの時期のあいだの決定的な転回点となるのが『アメリカの伯父さん』である。『アメリカの伯父さん』とそれ以前の作品との差異は一見些細なものである。それは語り手(ナレーター)の位置が移動しているということだ。『アメリカの伯父さん』においても、レネはナレーションを用いて物語を組み立てている。だが、レネがこのフィルムでナレーションの語り手として導入したのが、生物学者のアンリ・ラボリであったということは決定的に重要である。というのも、語り手としてのラボリはこのフィルムに参加してはいるが、もはや物語の登場人物ではないからである。ラボリは物語の中心人物である三人の男女 ––– ルネ(ジェラール・ドパルデュー)、ジャニーヌ(ニコル・ガルシア)、ジャン(ロジェ=ピエール)––– と同じ資格でこのフィルムに参加しているのではない。ラボリは三人の登場人物とかれらの物語に対して完全に超越的であり、時にはマウスによる実験を用いて自分の理論を説明しながら、かれらの人生を解明していくのである。このような科学者ラボリの登場は、レネのフィルムにいくつかの深い変容をもたらした。

6.

科学ラボリの登場によって、『アメリカの伯父さん』において、語り手が物語の登場人物であることをやめるとともに、ナレーションが想起と決別する。このフィルムで、ラボリはみずからの過去について想起したりはしない。彼は想起する者ではなく実験し分析する者なのである。それに対して、『プロビデンス』までのレネの劇映画においては、ナレーションはつねに物語の登場人物の声によって導かれており、語り手(ナレーター)はつねに想起する者 ––– あるいは想起しながら思考する者 ––– でもあった。『二十四時間の情事』や『去年マリエンバートで』の全体を埋め尽くすナレーションは、登場人物であるエマニュエル・リヴァとジョルジョ・アルベルタッツィの声によって語られ、一方は終戦直後のヌヴェールでの出来事を他方は去年のマリエンバートでの出来事を想起していた。厳密にいえばナレーションではないが、『ミュリエル』において、アルジェリアで撮った8ミリの映像をアトリエで見ながらベルナール(ジャン=バティスト・ティエレ)がそこで起こった出来事を語るシーンでも、彼の声は一種の回想するナレーションとして機能していたといえるだろう。また、『戦争が終わった』では、主人公であるディエゴ(イヴ・モンタン)の視点ショットが体系的に用いられ、彼の見た光景にしばしば彼自身のナレーションが重なり合う。しかし、このフィルムでは彼のナレーションは過去へ向かう回想行為とは逆に不確かな未来へと方向づけられていた。そして『プロビデンス』においても、登場人物である老作家(ジョン・ギールグッド)のナレーションがフィルムの全体を支配している。ただし、このフィルムのナレーションは、単純な過去の回想ではもはやなく、記憶を複雑に変形して物語を作り上げていく作家の思考そのものである。したがって、より厳密にいうならば、これらのフィルムにおいて、ナレーションはつねに登場人物によって語られ、それは現在ではない時間(過去あるいは未来)と現在との間に何らかの関係を打ち立てるのだというべきかもしれない。そして、それらのナレーションとともに、ほとんどの場合、二つの時間を繋ぐ技法としてフラッシュバックとトラヴェリングが同時に使用されることになる。『二十四時間の情事』や『去年マリエンバートで』において、これら三つの技法が完全な一体性を実現していることは周知のとおりであり、トラヴェリングとナレーションがしばしば併用される『戦争が終わった』の未来の映像や『プロビデンス』の思考の映像は、フラッシュバックの機能拡張として理解することができるだろう。

『アメリカの伯父さん』においてナレーションが登場人物の想起や思考と決別することによって、レネの前期のフィルムの指標であるナレーションとフラッシュバックとトラヴェリングの三位一体が崩壊し、それとともにこの作品以後、レネのフィルムからこれら三つの技法がすべて姿を消していくことになる。『アメリカの伯父さん』においてはそれらの技法がまだ用いられているが、それらはすでに緊密な一体性を決定的に失い、その性格を変えてしまっている。たとえば、フィルムの冒頭のトラヴェリングはラボリのナレーションと連動するが、彼のナレーションがもはや想起する者の声ではない以上、トラヴェリングも –––『二十四時間の情事』、『去年マリエンバートで』さらに『夜と霧』に見られるような ––– 現在から過去の中へと入っていく運動であることをやめている。あるいは、このフィルムの最後に現れる戦争で破壊された街並みのトラヴェリング・ショットについていえば、このショットはある記憶のイマージュであるが、それはもはや物語の登場人物によって想起されたイマージュ ––– つまりフラッシュバック ––– ではなくなっている。この変容を登場人物の変化として見るならば、前期のフィルムの登場人物はみな過去について語り、過去のイマージュに脅かされ、過ぎ去った自分の人生について思考していたが、後期のフィルムの登場人物たちはもはや過去を思い出さないか、あるいは、思い出すとしても過去は単なる思い出話の種でしかないのである。

さらにナレーションとフラッシュバックとトラヴェリングの三位一体の崩壊は、物語の時間的な構成の面でレネに大きな自由を与えることになる。『プロビデンス』以前のフィルムでは、語り手(ナレーター)がつねに想起する者(あるいは思考する者)でありかつ物語の登場人物(主人公)であったがゆえに、レネのフィクションは特定の凝縮された現在に縛りつけられていた。過去や未来のイマージュが現在を浸食すればするほど、それだけますます強固にそれらのイマージュを想起している者の現在が存続することになるからである。したがって、レネの前期のフィルムはつねにごく短い、ひとつながりの時間の間の物語とならざるをえない –––『二十四時間の情事』は24時間の出来事であり、『プロビデンス』は作家の誕生日の前日の夜から次の日の昼にかけての物語である。『去年マリエンバートで』ですら、ロブ=グリエの言葉に従うなら、アルベルタッツィのナレーションが続く時間、つまり作品の上映時間と同じ九四分間の出来事だということができるのだ。『アメリカの伯父さん』においてナレーションの語り手が想起する登場人物であることをやめたことによって、レネのフィクションはそのような凝縮された現在の持続から解放される ––– この作品の前半で、一時的にフラッシュバックとナレーションが三人の登場人物に分割されることは、たった一人の主人公による想起が立脚する求心的な現在の拡散であるという意味で、凝縮された現在の持続からのフィクションの解放の現れである。それによって、レネははじめて物語を、二つの部分の間に二年の月日が流れる二部構成にすることができた。それは登場人物の回想あるいは思考の支配からフィルムが解放されたことを意味する。ある一定の時間の間隔(五日後、五週間後、五年後)にもとづいて物語を構成する『スモーキング/ノー・スモーキング』のような作品は、このようなフィルムの変容なしには不可能であったろう。

7.

しかし『アメリカの伯父さん』におけるレネのフィルムの変容は、レネの作品が記憶のフィルムであることをやめたということ意味してはいない。というのも『アメリカの伯父さん』もまた記憶のフィルムであるからだ。このフィルムの中で、アンリ・ラボリは「人間とは活動する記憶である」と語る。ラボリのナレーションにしたがってこのフィルムが考察するのは、三人の登場人物がいかなる記憶によって構成されているのかである。たとえば、ジャンは個人的な記憶 ––– 少年時代から両親や祖父に連れて行かれた島の記憶 ––– だけではなく集団的な記憶 ––– 彼のお気に入りの映画女優であるダニエル・ダリューの記憶 –––、あるいは自分の経験にはもとづかない他者の記憶 ––– 祖父や両親たちの記憶あるいは戦争の記憶 ––– によっても構成されている。そしてこの作品は、そのような記憶のアサンブラージュのもとでどのように三人の人物の物語=運命が展開することになるのかを思考しているのである。『プロビデンス』において私たちの見るものが一人の登場人物の思考であり、登場人物が思考するフィルムだったとすれば、『アメリカの伯父さん』においては、登場人物が思考するのではなく、フィルムそれ自体が思考と完全に一体化しようとしているのである。

そして『アメリカの伯父さん』以降、記憶の性質がはっきりと変容する。この作品以後、レネのフィルムからフラッシュバックが消滅していくということは、記憶が個人的な回想から解放されるということである。『アメリカの伯父さん』以後、レネのフィルムは、たとえば『恋するシャンソン』のように、作品全体としてはある種の記憶の編成を試みていながら登場人物は回想することがないという逆説的な性格を持つことになる。『アメリカの伯父さん』以後のフィルムでは、記憶は個人的なものの限界を超え、集団的なもの、想像的なものへと変わっていく –––『アメリカの伯父さん』におけるジャン・ギャバン、ジャン・マレー、ダニエル・ダリューのイマージュ、『お家に帰りたい』のアメリカン・コミックのキャラクター、『恋するシャンソン』のシャンソンなど。また同時に、レネはフィルムを撮るたびに、それらの記憶を表象する新たな方法を探求することになる –––『アメリカの伯父さん』における映画スターの映像の唐突な挿入、『お家に帰りたい』でのコスチュームプレイとアニメの吹き出し、『恋するシャンソン』でのすでに述べたシャンソンと俳優の身体とのモンタージュ。これらの新たな方法に共通しているのは、登場人物の回想に頼ることなく記憶を組織するということだ。たとえば、『アメリカの伯父さん』において、廊下を歩いていくドパルデューが不意に振り返るショットに続いてジャン・ギャバンのイマージュが挿入されるとき、そのイマージュはドパルデューが想起したものではない。それは彼が意識しているかいないかにかかわらず、その瞬間に彼の身ぶりを構成している潜在的な記憶のイマージュなのである。ひょっとしたらそれらのイマージュは、現実に彼によってあらかじめ見られている必要さえないのかもしれない。『恋するシャンソン』において、レネがその方法によって断固として登場人物はシャンソンを思い出してはいなのいだということを強調するとき、シャンソンの記憶は人物の経験の内にではなく世界の側に潜在しているのであり、彼らがそれらの潜在的な記憶を世界のなかで現勢化するのだということが示唆されている。それら記憶のイマージュは、漫画のキャラクターと同様に、世界の一部をなしている。もはや、記憶は人物の内にあるというよりも外に、世界の側にあるのであり、人物の方が記憶の中に属しているのである。

8.

『アメリカの伯父さん』を通過することによってはじめて、レネは純粋に演劇的なフィルム ––– つまり、フラッシュバックもナレーションもなく、俳優たちの演技の連続性に基礎を置くようなフィルム ––– を撮ることが可能になる。『メロ』や『スモーキング/ノー・スモーキング』のようなフィルムでは、ワンシーン・ワンショットが作品のリズムを作るようになる。だがそのようなスタイルの変化にもかかわらず、『メロ』は、記憶のフィルムとして、レネのフィルムの変容を示しているというよりはむしろそれまでの探求のさらなる深化の証である。というのも、レネがこの作品で試みたのは、過去の潜在的なイマージュの力を潜在的なまま解き放つことだからである。そのような潜在的なイマージュが生成するのは、このフィルムの始めにある素晴らしいワンシーン・ワンショットにおいてである。それは、有名なヴァイオリニストであるマルセル(アンドレ・デュソリエ)が親友のピエール(ピエール・アルディッティ)の家に招かれ、テーブル越しにピエールとその妻ロメーヌ(サビーヌ・アゼマ)に数年前の失恋の思い出を語るシーンである。マルセルは静かに旅先のある演奏会での出来事を語り出す。マルセルが一人で舞台に立って演奏していると客席にいる恋人がボックス席の男と視線をとり交わすのが見える。マルセルは激しく動揺するが、それでもなんとか無心で演奏を終える。そして彼が舞台から客席にいる恋人の方を再び眺めると、彼女は感動しきった様子で彼を見つめているのだった…。マルセルがこのように話し続けているあいだ、カメラはマルセルを捉えながらピエールの側からゆっくりと彼と妻の背後を通りそのままロメーヌの視点ショットへと移行する。そしてマルセルの話が終わった直後、ロメーヌの顔のカットに切り替わるとき、私たちは、彼女のまなざしを見て、彼女がマルセルに恋していることを知るだろう。そしてそれと同時に、これから起こるであろうことも…。このワンシーン・ワンショットは、マルセルの語りとカメラの移動によって過去の出来事を反復し、私たちが見ているイマージュの背後に過去の潜在的なイマージュ ––– そしておそらく未来のそれをも!––– 生産する。マルセルは過去の出来事を語っていると同時に現在と未来について語っているのであり、イマージュは現在の中に過去と未来を含んでいる。『メロ』(の)ドラマのすべては、潜在的な過去の反復に関わっているのである。このフィルム全体を通して潜在し続ける過去の力をマルセルが知るのは、女を信じることができなかたったがために、ふたたび愛する女性を失ったのだということに彼が気づく瞬間である。ラストシーンでマルセルとピエールがブラームスを弾くシーンの美しさは、ブラームスを演奏する現在の内に、一人の女(ロメーヌ)をめぐる二つの異なる過去が回帰していることによるのだろう。レネはこのフィルムにおいて、前期のどの作品よりも力強い時間のイマージュを作り出すことに成功した。

9.

『スモーキング/ノー・スモーキング』は、そのあからさまな反現実主義にも関わらず、レネのフィルムの中でも最もラディカルにフィルムとそれが提示する世界との関係性を考察しているフィルムである。このフィルムは、『アメリカの伯父さん』と同様に、特異な「サイエンス・フィクション」であるということができるだろう。『アメリカの伯父さん』の物語が生物行動学の理論であったとするならば、『スモーキング/ノー・スモーキング』に物語を提供しているのはカオス理論である。なぜなら、このフィルムでレネは、初期条件の微妙な差異 ––– 主人公の女性セリアがタバコを吸うか吸わないか ––– が時間のなかで増幅されてどのように二つの系を不規則に分岐させてゆくのかを、一定の時間間隔(五日後、五週間後、五年後)をおいて分析しているからだ。ひとつの物語は任意の点で分岐し、複数の結末を持つことになる。たとえば、ある物語ではセリアは夫のトビーとの関係に悩み、庭師のリオネルと配膳業のようなものを始めるが、リオネルのいい加減な言動 ––– 彼はパン屋だったことがあると言っていたのに実際にはコンクリートのように硬いパンしか焼けないのだ ––– のせいで発狂してしまうが、同じシーンから分岐する別の物語では、トビーと別れずに旅行に出たセリアをリオネルが様々に仕事を変えながら追いかけまわす。すべての登場人物は、それぞれ複数のまったく異なる運命を持つことになる。ところで、このフィルムで重要なのは、レネが物語の分岐を登場人物の行動や決断に委ねてはいないことである。物語の分岐は任意の人物のある何気ない一言から生じるのであるが、その言葉が彼の人生を別の方向に導くことを人物自身は知らないのである。このフィルムでは登場人物はいかなる決断も下しはしない。レネのフィルムの偉大さは、登場人物たちが生きることになる物語の複数性(分岐可能性)を彼らの主体的な自由や不自由に帰すのではなく、世界の側に位置づけたことである。そのことは、レネが物語を分岐させる方法に見てとることができる。物語が分岐するとき、レネはほとんどの場合、その分岐した物語の最初のショットを先行する物語の分岐点に当たるショットとまったく同じショットで始めているのだ。たとえば、『スモーキング』と『ノー・スモーキング』の冒頭のショットはアングルからカメラの移動までまったく同一であり、その同一のショットから異なる二つのショットの連鎖が展開する。このようにして、レネのフィルムは物語の複数性をショット=プラン(plan)の複数性として思考するのである。ショット=プランとは、空間の概念であると同時に時間の概念としても理解されねばならない。レネのフィルムが開示するのは、映画が世界から切り取るひとつのショット=プラン(平面)にはすでに世界の無数のショット=プラン(平面)が潜在しているということであり、ひとつのショットはそこから展開しうる無数のショットの系列を潜在的に含んでいるということである。それは、言い換えれば、現在の中にはすでに無数の過去と未来が潜在しているということであり、登場人物を構成するのは彼が生きている物語だけではなく、彼が生きる可能性のあるすべての物語であるということなのだ。物語を分岐させるのは、登場人物の行動や決断ではなく、ショット=プランのこの「客観的な」複数性である。物語は登場人物の中にあるのではなく、彼の方が世界のすべての物語、すべての潜在的なショット=プランの中にいる。だからレネのこのフィルムにおいては、登場人物は彼の生きる時間の主人ではなく、瞬間ごとに無数のショット=プランの内のひとつを現勢化するだけであり、言い換えれば、無数の物語のうちのひとつの物語のひとつの「役」を受け取るにすぎないのだ。ここからレネの「時間の喜劇」が生まれるのであり、またここにこそ、このフィルムで11人もの登場人物がサビーヌ・アゼマとピエール・アルディッティの二人だけによって演じられる必然性がある。私たちはショットが変わるごとに、同じ俳優がつぎつぎに異なる「役」を演じはじめるのを見るのである。このような「役」の複数性を引き受けること、次々に異なる「役」を通りすぎていくことが生であり、それを俳優の演技のレベルで実現しているからこそ『スモーキング/ノー・スモーキング』は途方もない強度でフィルムと世界との関係性を思考するフィルムとなったのである。

10.

最後に結論めいたことを書かねばならいとするならば、次のように言い切ってみるのはどうだろう。もしゴダールのフィルモグラフィーを et (と)のモンタージュの可能性を汲み尽くす試みであると要約することができるとすれば、レネの ––– すくなくとも『二十四時間の情事』以後の ––– フィルモグラフィーは ou (または)のモンタージュの可能性を開発し尽くす試みであると要約することができる、と。ゴダールのモンタージュが「イマージュの連鎖を辿るのでもなく、空虚を横断するのでさえなく、連鎖と連想から外に出ること」(ドゥルーズ)を目指し、したがって、絶えず異質なもの同士を結びつけることで物語=歴史を一瞬ごとに解体するならば、レネのモンタージュはたえず新たに分岐するイマージュの連鎖=物語を作り出し、展開し、異質な諸連鎖=諸物語の共存を作り出す。たとえば、同じ年に撮られた『ゴダールの決別』に満ちている物語に対する苛立ちと『スモーキング/ノー・スモーキング』の物語の複数性のユーモアとはなんと対照的なことか! レネの前期のフィルムの指標であるフラッシュバックとナレーションとトラヴェリングは現在と過去との分岐を作り出す特権的な技法であった。しかし、『メロ』におけるワンシーン・ワンショットも過去の潜在的なイマージュとの間に分岐を作り出していたのだし、『アメリカの伯父さん』のジャン・ギャバンのイマージュも、『お家に帰りたい』のアニメの吹き出しやコミックのキャラクターのコスチュームも、そして『恋するシャンソン』のシャンソンも、現在の中に登場人物による想起を介さずに、過去への分岐を創造している。『恋するシャンソン』のシャンソンが、断片的でありながらもその導入部と終結部に非常に細かい音響処理を施されていたことは、レネのモンタージュがつねに分岐とその展開を目指していることの現れだとみなすことも可能だろう。そして、 ou のモンタージュという観点から見るとき、『ミュリエル』という作品の例外性が際立ってくる。前期のフィルム群で唯一あの技法的三位一体が見られないこのフィルムが提示するのは、粉々に破壊された世界である。戦争による破壊からいまだ回復していない世界では人々はみなお互いに共有することのできない記憶によって孤立している。レネはこの作品において、細かい断片的な--連続性を切断する--モンタージュによって、ばらばらになった世界をあえてむき出しの断片のまま提示した。そのようにしてレネは、中心を失った世界のために中心(主人公)のないフィルムを撮ったのである。最後に『恋するシャンソン』はナチスのフランス司令部のシーンから始まり、アパルトマンでのパーティーのシーンで終わっていたことを想起しておこう。これはレネから私たちへの合図なのかもしれない。それはこのフィルムから『夜と霧』への、そして『そして私は恋をする』と『a.b.c. の可能性』への分岐の合図なのかもしれないのだから。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.24、勁草書房、1998年。ただしウェブへの掲載に際して若干の変更が加えられています。)

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