セルゲイ・ロズニツァ 自由裁量の王国

ロズニツァの『アウステルリッツ』(2016年)でもっとも驚かされるのは、被写体への関与の徹底した欠如だ。この映画には被写体と向きあうという契機がほとんど存在しない。撮影する側が被写体のふるまいや存在の仕方に影響を与え、撮影されることで被写体が変化するというようなプロセスが存在しないのと同様に、被写体の側から撮影する側に向かって何らかの力が反作用することもない。撮影する監督と被写体となる人々のあいだには、いかなる相互作用も存在せず、一方的に見るものと一方的に見られるもののあいだの(無)関係しかない。見るものは、見られるものから絶対的に安全な距離を保ち、自由に見たいものを見ることができる。ドキュメンタリー映画が、通常、被写体といかに向き合うかという倫理的な問いと格闘する営みだとするなら、この映画はそうしたドキュメンタリー映画のあり方と決別している。その意味で例外的なドキュメンタリー映画だと言うことはできる。

なぜロズニツァは一方的に、自由に見たいものを選択し、見つめ返されることなく見ることができるのかと言えば、それはごく単純に、技術的な選択による。『アウステルリッツ』のほとんどの場面は、望遠レンズで撮影されている。この映画では、ほぼすべての場面で、空間の奥行きが極度に圧縮されているが、それはレンズの選択による。ロズニツァの映画の眼差しはかなり不躾であり、収容所の入り口を行き交う人々や、施設の窓辺に立つ人々の表情や身振りをはっきりと映し出す。しかし、唯一の例外を除いて、スクリーンを行き交う人々がカメラに視線を向けることはない。撮影者が遠く離れているので、カメラの存在に気がつかないのか、カメラがあることに気づいてはいても、距離が離れているので、まさかそんなに大写しで撮影されているとは思っていないのかもしれない。いずれにしても、人々がカメラに不審な視線を投げかけることはなく、ロズニツァは自由に撮りたいものを撮ることができる。そのための距離がつねに確保されている。

この徹底した非関与によって、ロズニツァは被写体となっている強制収容所を訪れる人々を抽象化できるようになる。彼らひとりひとりは重要ではない。彼らはみな任意に交換可能な存在である。とはいえ、この映画が描いている観光客は「群衆」(crowd)ではない。それはむしろ「群れ」(swarm)と呼ばれるべき存在だ。群衆と群れの違いはいくつかある。まず前者が差異を消し去ること(ラディカルな同質化)によって成立するのに対して、後者では差異は陳腐化する(差異はいかなる違いも生みださない)。次に、前者が命令と服従のヒエラルキーと結びつけられることが多いのに対して、後者はそうしたヒエラルキーを欠いた自己組織的な集合体である。さらに前者が心理学的凝集によって構造化されているとするなら、後者は統計的・確率論的分布である。

じつはこの映画の興味深い点のひとつは、かつて暴力的な群衆化のメカニズムが作用していた場所で群れのふるまいを観察しているところにある。実際のところ、いま収容所跡をさまよう観光客とかつてそこに強制的に連行されてきた人々とは、あらゆる点で対照的だ。かつてのユダヤ人やロマの人々は、到着するや衣服を脱がされ、所持品を奪われ、同じ服を着せられ、名前を失い、命令と服従の体制下に置かれ、徹底的に個人の人格と行動の自由を否定された。現在、収容所跡を訪れる観光客たちは、みな思い思いの格好をし、自由に動き回り、個人の人格を否定されたり、理不尽な命令に服従させられたりすることはない。今日の観光客は、別の仕方で管理され、操作されている。順路を指示するプレートやイヤホンガイドやツアーガイドや建築物の構造によって、観光客の振舞いは統計的・確率論的に管理されている。この映画を見ていると、同じ空間に次々と人々が入ってきて、誰に指示されてもいないのに、異なる頻度で反復されるいくつかのふるまいのパターンを提示するのを観察することができる。これは20世紀的な群衆に対する眼差しであるよりは、むしろ21世紀的な群れの振舞いの観察である。とはいえ、この観光客も管理の対象である点では、かつて収容所に連れてこられた人々と変わらない。ロズニツァの非関与の眼差しは、この管理を対象化しているのだろうか、それともそれと同一化しているのだろうか。

ロズニツァにとって被写体となっている人々の一人一人がまったく重要性をもたないのと同様に、収容所自体もまたその固有性においては見られていない。驚いてしまうのだが、ロズニツァはザクセンハウゼンの強制収容所の映像に、何の断りもなしにダッハウの強制収容所の映像を混ぜ込んでしまう。ロズニツァにとっては、どちらも収容所跡であることに変わりはないし、自分が必要とする観光客のふるまいを示すためならば、躊躇う必要などないのだろう。

これはロズニツァの他の映画、『粛清裁判』(2018年)や『国葬』(2019年)にも共通することだが、『アウステルリッツ』を見た後には、独特の空虚さを感じずにはいられない。この映画を見て、何か驚くべき事柄と出会っただろうか? 何か新たに知ったことがあっただろうか? あるいはこれまでの知識や経験が揺さぶられるような契機が存在しただろうか? この映画は強制収容所についてはほとんど語ることがないし、観光客のふるまいも、誰もが自分自身の身をもって経験していることである。結局、この映画で一番強い印象を残すのは、ロズニツァの映像と音響を組み合わせる巧みさである。映画の作り手が手にしている自由裁量の大きさとその臆面もない行使が、この作品のもっとも印象的な要素である。

この自由裁量は、撮影場所と被写体の選択に加えて、音の操作にもっとも強く感じられる。カメラは被写体から遠く離れている一方で、録音がどうなされていたのかはわからないが、かなり自由に録音素材を切り貼りしていることはよくわかる。とりわけそれが明瞭になるのは、スマートフォンのカメラの撮影音である。ヨーロッパでは一般にスマートフォンのカメラには撮影音がない。美術館などで撮影音をさせているのは、たいていアジアの観光客である。ところがこの映画では、スマホで撮影する人々の映像にしつこいくらいに撮影音がミックスされている。もちろん、人々の話し声も自由に録音素材からチョイスされており、ガイドの説明にいたってはアフレコで処理されている。このような音声と映像の切り貼りの名人芸の極地はもちろん『国葬』の追悼式のシークエンスだろう。異なる場所で撮られたモノクロとカラーの映像を音楽が滑らかに繋ぎ、くしゃみの音やすすり泣きの声がこれでもかというくらいにミックスされている。あの追悼式のシークエンスは、当時、あの場所にいた人々が見たり聴いたりした体験の再現ではない。ロズニツァの名人芸によってはじめて成立した視聴覚的体験である。その意味で『国葬』の全体は、ロン・ハワードが『ザ・ビートルズ 〜EIGHT DAYS A WEEK〜』(2016年)でやったビートルズのスタジアム・ライヴの再構成に似ている。

ロズニツァにとっては、現実の撮影や録音も、アーカイブの映像や音声も、作家の自由裁量に委ねられた素材でしかない。この自由裁量は、アーカイブ素材の物質性の軽視としてもあらわれている。ロズニツァはアーカイブ映像をキレイにデジタル修復して使用する。フィルムそれ自体の物質性(それも歴史の一部である)よりも、自分が見せたいものの鮮明さを優先している。ロズニツァが被写体やアーカイブ素材に対して示している安心&安全な距離感は、それらの意味がロズニツァにとってすでにあらかじめ確定していることと無関係ではないだろう。観光客は軽薄な存在であり、粛清裁判は茶番であり、スターリンは英雄などではなく犯罪者である。映画のなかでこの前提が揺らぐことは決してない。それはあまりにも自明なので、あえて対象にたいして批判的になる必要すらない。この揺るぎない前提のもとで、ロズニツァは映像と音響の名人芸を展開してみせる。とはいえ、被写体や素材は、ロズニツァの名人芸に密かに抵抗してはいないだろうか? 『粛清裁判』の最後で判決に喝采する群衆は、よく見ると全員が手を叩いて大喜びしているわけではなく、両手で耳を塞ぐ女性や足早に出口に向かう人々も交じっている。『国葬』でスターリンの遺体を見るためにぞろぞろと歩いている人々の表情は、必ずしも悲しみだけを表しているわけではない。『アウステルリッツ』では、男の子がカメラに向かっておどけた身振りをしてみせる瞬間や、一人きりで立ち、画面外にある文章を無言で読むうちに表情が険しくなってゆく男女の映像を、ロズニツァは示している。これもまたロズニツァの名人芸の一部だろうか。

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