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『涙の塩』− ガレルの映画の「見やすさ」について

アンスティチュ・フランセが主催する第三回映画批評月間でフィリップ・ガレルの新作『涙の塩』を見る。

ガレルの映画は基本的に見やすい。とりわけ『ジェラシー』(2013年)以後の一連の作品はとてつもなく見やすい。それらの作品を見ると、映画が映画として成立するために必要なものは何かということが手に取るようにわかる。「これだけあれば映画は成立する」という証明を、最小限の俳優とセットを用いて、様々に設定を組み換えながら、繰り返し提出しているような作品群。観客はまっすぐに映画に導かれ、それをまっすぐに見つめるだけでいい。いま映画館で上映される新作で、これほど観客に負荷をかけることの少ない映画はほとんど見当たらないのではないかと思う。ガレルの作品を見ることと比べたら、他の多くの映画は重労働である。

そういうわけで『涙の塩』もとても見やすい。その「見やすさ」がどこから来るのかと言えば、第一の理由は、そこにはアクションしかないからである。ガレルの映画では、隠されているものはなにもない。すべてはアクションとして観客に提示される。そしてアクションは何も隠していない。それは何らかの見えない原因(思考や心理)によって生じるわけではないし、その見えない原因を示唆する記号のように機能するわけでもない。あるアクションの原因となるのは別のアクションであり、あるひとつのアクションが別のアクションを触発することで映画は進行する。だから私たちはただアクションの連鎖を見つめればいい。

アクションのみから成り立つ映画というと、アメリカの古典映画が連想される。実際、ガレルの近年の作品にはある種の「古典性」が備わっている。しかし、ガレルの映画をより正確に特徴づけようとするなら、「アクション」ではなく「動き」と言ったほうがいいのかもしれない。というのも、アクションという言葉はどうしても行為の「主体」を想定させてしまうから。ガレルの映画で私たちが見るアクションは、主体の輝かしさとは無縁である。むしろガレルの映画が首尾一貫して示しつづけているのは「主体」なるものの惨めさである(プレカリアスネス)。ガレルの映画におけるアクションは、つねに「自分を見失うこと」と結びついている。

自分を見失うこと。それを「動き」の語彙で言い換えるなら、「バランスを崩す」ということになる。ガレルの映画のアクションは、つねに人物をその安定した重心から逸脱させる。あるいは人物がみずからの重心を見失うときにのみ、アクションが生じると言ってもいい。たとえば、見つめること、言葉を発すること、近くにいること、触れること。それらのアクションによって、人物はバランスを見失う。そして見つめられる者、言葉を受けとめる者、触れられる者もまたバランスを崩し、自己を見失い、未知の感情や欲望の動きをみずからのうちに感じて当惑する。そして、その当惑した者の眼差しや言葉や身振りが、さらに相手のうちにバランスを損なった動きを生みだすことになる。ガレルの映画に登場する「不実な」人間たちは、こうした「動き」に捉えられた人々である。『涙の塩』の登場人物たちも例外ではない。

この映画の冒頭すぐの場面、バス停でリュックが自分が乗るべきバスを探していて、通りの向こう側の反対方向に向かうバス停にいるジャミラと出会うくだり。最初のショットはバス停に立って周囲を見回すリュックを真正面から示す。次にショットが切り替わると、通りの反対側にあるバス停にいるジャミラの姿が示される。このショットは斜め45度くらいの角度になっていて、カメラの方向にちらりと視線を投げるジャミラを示す。この二つのショットの位置関係は即座には把握しがたいので、観客にかすかな不安定さ、バランスの悪さを感じさせる。すると再び通りの向こう側に立つリュックを真正面から示すショットが提示され、再度、先ほどと同じ斜めの角度から通りの反対側のバス停に立つジャミラを示すショットが反復される。しかし今度はカメラの傍らからリュックがフレームインして通りを横断し、ジャミラの側に行く。そして、2人のツーショットになる。行き先について会話の後、2人はバスに乗り込む。バスが動きだしてフレームアウトする。すると最初にリュックが立っていたバス停が、ジャミラを示したショットと正確に同じ角度で、ただし反対方向から示される。ここにいたって、最初の2人の位置関係、それまでのショットの相互関係が鮮明な輪郭に収まることになる。バランスを崩すことと古典的な均整の両立。いかにも近年のガレル作品らしい場面である。

この映画の主人公リュックはたぶん20歳くらいで、その年ごろの男子にありがちな迷走を続ける。「自分は他人を愛したことなどあるのだろうか?」「そもそも自分にはひとを愛する能力などあるのか?」といった大きな問いに悩まされて、リュックは自分を見失い、迷走する。この主人公の迷走をガレルは、文字通り、たまたま見かけただけの女性のあとをつけてパリの路上をさまようリュックの歩みによって提示する。なにも隠されてはいない。迷走する主人公は迷走するアクションによって示されるだけだ。

自分を見失いバランスを崩すこと。それはいつでも、いまこの瞬間に起こる。それはつねに不意打ちであり、周囲の人間たちにとってだけでなく、当人をも当惑させる出来事だ。それゆえ、ガレルの映画はつねに現在形である。たとえ、過去の出来事が問題になっているとしても、映画はその過去をつねに現在として提示するのである。そしてこれが、ガレルの映画がとてつもなく見やすい第2の理由である。ガレルの映画には現在しかない。私たち観客は登場人物の来歴や背景を推測する必要がない。すべては現在のうちに示されるからである。

たとえば、リュックがジャミラにバスの行き先を尋ねたとき、彼は彼女をナンパするためにそうしたわけではないだろう。バスのなかで窓辺に立つ二人を示す一連のショットのなかで、二人はチラチラと視線を相手に投げかける。ジャミラはバスの車内にある柱をしっかりと握りしめている。リュックにジャミラへの欲望が生まれたのはいつなのか、ジャミラのなかにリュックへの好奇心が生まれたのはいつなのか。それをはっきりと言うことはできない。しかし、そうした欲望や好奇心があらかじめ存在したものでないのは確かだ。それはバスの車内の一連のショットとバスを降りて別れを告げる二人のショットのあいだのどこかで生まれ、成長し、アクションを生み出した。それを私たちは見ることができる。

ガレルの映画では、観客もしばしば不意打ちされ、それによってすべてを理解することがある。たとえば私たちは、ジャミラがリュックのどこを気に入ったのかを知ることはない。しかし、彼女がカフェでリュックと向き合って座り、彼に向かって「優しい人ね」と言うショットが唐突に示されるとき、私たちは状況を理解する。ジャミラの眼差しと言葉に不意打ちされることで、私たちは彼女がどんな女性であるのかを直感的に理解する。リュックという人間にはほとんどふさわしくないような彼女の真剣さが説得力を持つのは、このショットがあるからだ。

同様のことは、リュックの父親についても言える。リュックの合格通知が届いたとき、それを手渡された父親は内容を確認して、突然、短く嗚咽する。この父親のショットは観客を不意打ちするが、同時に登場人物が語るどんな台詞よりも雄弁にこの父子の関係を理解させる。父親と息子の濃密な結びつき。父親から息子への過大な期待。父親が自分の人生の悔いを息子に託しており、それはおそらく不当であること等々。たったひとつのアクションによって、それらすべてを示すことができる。因果的な説明からアクション(動き)を解き放つことで、現在形のアクション(動き)を無意識の厚みをもって示すことが可能になる。

ガレルの映画では、すべてはアクションであり現在であること。この点でもっとも素晴らしい場面は、ジャミラがリュックに会うために彼の故郷にやってきてホテルで彼を待つ場面だろう。ようやく恋人に会える期待に身を焦がしながら、鏡の前で身だしなみをチェックし、お化粧の最後の仕上げをしていたジャミラは、不意に奥の部屋に姿を消す。そして再び姿を現したとき、彼女はすでにリュックに裏切られたことを確信していて、ひとり窓辺に立って外の街路に視線を投げる。ガレルはこの一連の動きを長いワンショットで示している。ほとんど信じがたい出来事の急転に観客は不意打ちされるのだが、ここでガレルは他の場所ではカットによって行っていたことをワンショットで実現していると言えるだろう。そしてここでも私たち観客はただ注意深く動きを見つめていさえすればいい。

『涙の塩』の特徴として挙げられるのは、こうした現在において進行するアクションが、終わりの地点に立って物事の推移を眺め、主人公の行動を突き放して語る語り手の声と、鋭い緊張関係をなしていることだろう。この映画のボイスオーバーには、ほとんど異化的な鋭さがある。この映画の語り手の声は、手際よく物語を先に進めるだけでなく、リュックの卑劣さについて語り、父親の死に際しては救済の不在を宣告する。映画の最後で私たち観客は扉の向こうに消えたリュックの姿を二度と見ることはない。リュックは、文字通り、他の登場人物からも観客からも引き離されて、ひとり取り残されることになる。

そういうわけで『涙の塩』はとても見やすい。しかしガレルの最近の映画を見ていると、こんなに見やすくてよいのだろうかという気がするのも事実だ。デジタルの白黒で撮影された作品の端正さは、なんらかの代償をともなってはいないだろうか。正直、よくわからない。しかしたとえば、この映画に登場する3人の女性のイメージは、それぞれそれなりに魅力的に撮られてはいるものの、いささか図式的ではないだろうか。性的快楽に慎重な真面目な女性、性的快楽を結婚と結びつけるしたたかな女性、モノガミー的な異性愛秩序を脅かすエロティックな女性。そうまとめてしまうことも不可能ではない。ひとりの個人として女性が描かれているというよりは、男性が想像(妄想)する女性のイメージの基本類型が再生産されているような気がしてならない。ガレルと同世代でまだ風変わりな映画を撮りつづけているクレール・ドゥニの作品と比べるとどうだろうか。あるいは、この映画に登場する完全に振り付けられたダンスの場面のことを考えてみる。たとえば、この場面をエリア・スレイマンの『天国にちがいない』(2019年)のラストに置かれたパレスチナの若者たちのダンスの場面の隣に置くと、思わず「古色蒼然」という言葉が浮かんでしまうのである。ガレルの最近の映画を見ていると、どこか「空気がうすい」感じがしてしまう。

P. S. このインタビューで女優たちが報告しているガレルとベルタの言葉は金言の宝庫だ。映画とは何であり、映画で演じるとはどういうことなのかをこれほど平明な言葉で伝えることのできる人物はそういない。

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